書類の山脈の一角を削り終え、さて小休止、と訪れた屋上で見つけた人影に私は足を竦ませた。立ち止まったのではない。文字通りに、竦んだ、のである。

 その人は薄い唇からぷかりと煙を吐き出しながらフェンスに背を預けていた。ラムネの瓶みたいな綺麗な色の瞳を街並みへと向け、優美な仕草で煙草を口へと運ぶ。すう、と胸元が動いて、また、ぷかり。このあたりの花壇に座ってずっと眺めていたいと思うほど絵になる仕草、顔立ち、そして立ち姿だが、それも私が彼の部下でさえなければの話だ。彼を噂する他部署の女の子たちは知らない。あの人の下で働くことの、過酷さを。

 一息吐きに来たのに、彼に捕まっては一層息を詰めることになってしまう。私はなるべく気配を消して、警察学校で習った集団行動のうち、回れ右の動作を思い出す。右足を斜め後ろへと引き、右足爪先と左足踵を重心にくるりと右回転する。今しがた潜ったばかりの扉へと向き直り、そのドアノブへと手を伸ばした。

「回れ右、なら」

 その声は、はっきりと私の背へと投げられた。

「最後に気を付けの姿勢に戻さなきゃ、駄目でしょ」

 目標まであと2センチ。たった2センチでドアノブを握り損ねた右手を引っ込め、私は観念して後ろを振り向いた。耀さんの双眸は確実に私を捉えているし、なんなら笑みすら投げかけて来ている。私は微笑んでみせながら、己の安息に別れを告げた。

「今、戻ろうとしてたけど。休憩もう終わり?」

 耀さんが短くなった煙草を灰皿に押し付けて、最後の煙を吐きながら尋ねてくる。あ、もしかして入れ違いかな。その仕草に少しだけほっとしてしまいながら、私はかぶりを振った。

「いえ、今から少しだけ…」
「半端な休憩じゃ、その後の効率もたかが知れてると思うんだよねえ」

 ぴしゃり。冷水を浴びせられるような心地だった。これがこの人の怖いところだ。言い方は冷たい、言い回しも怖い。なのに、浴びせられた言葉の中には、ほんのりと甘い優しさが隠れている。こんな魅力的な男と仕事をするのだから、ある程度以上に畏怖の念を抱いておかねばならない。じゃなきゃ私はきっとすぐに、彼のことを特別な眼で見てしまうことをやめられなくなる。そしてその下心すら見抜かれて、ポイと他所に飛ばされてしまう。彼にとって私は、ただの部下でしかない。

「そう、ですね。ありがとうございます。じゃあ、軽食でも挟みますね」

 15分だけ、と思っていた休憩を30分に変更して、私はコンビニにでも行こうかと踵を浮かせた。耀さんもまた、フェンスから身体を起こす。

「ほんじゃ、行こうか」

 てっきりこのままオフィスに帰ると思っていた耀さんから発せられたその号令に、私は失礼を承知で思いきり首を捻ってしまった。あ、いや、オフィスまでは一緒に、ってことかな。耀さんが歩いてくる。長い腕を伸ばし、その大きな手で、私の肩をぽんと叩いた。



 ついでみたいに名前を呼ばれる。彼の声に名を読んでもらえるのは、死線を共にする仲間だと認められているから。私の欲しがる特別とは違う意味の特別であると知ったのは最近で、私は納得すると同時に少々落胆した。いや、ものすごく名誉なことなのは、分かっているんだけど。

「お昼、まだでしょ。ぼーっとしてないで。行くよ」

 続けられた言葉に、私は元気良く動揺した。耀さんと、ごはん!?
 驚き、瞠目する私の目の前では耀さんが扉を引き開けて、れでぃーふぁーすと、なんて平仮名発音で言いながら私のことを待っている。ああ、夢じゃない。こんな人をどうして好きにならずにいられよう。海よりも深い絶望を覚えながら、私は肩身を狭くしてその扉を潜った。

 どこがいい?と問われれば、私は間髪入れずにお気に入りのカフェの名前を口にする。そこは、貴方と来てみたい、なんて。罰が当たるかもしれないけれど、でもそう思わずにはいられなかった、素敵なカフェだから。
 

カフェにいく話

(…随分と従順な、部下、だこと)
2020/09/05