次の主演、不倫モノなんだよね。と言われたとき、え!?と、ウソ!?と、本当ですか!?が絶妙に入り混じった「あえ!?」みたいな反応をしてしまって笑われたことを覚えている。悟さんはバラエティ番組で浮かべるような人懐こい笑顔で小首を傾げ、似合わないよねーなどと零すので、そんなことないです!見たいです!と私は迷わず“俳優・渡部悟”の新境地を応援する姿勢を示した。
 ちゃんがそう言うなら、なんて意欲を示した彼に、ふつりと湧いた苦い想いは後ろ手に隠し、頑張ってくださいねと微笑みかける。あなたのラブシーン、ちょっと見たくない気持ちもあります。悟さんの足枷にしかならないそれは、ぎゅうと握って粉々にした。

 渡部悟と言えば知らない者はいない、それこそ子供からご高齢の方までもがご存知の日本が誇る俳優である。その明るさと柔和な語り口、そして冷静に周囲を俯瞰して気を回すことができる判断力から、最近では番組MCを担うことも多い。視聴者からの好感度が安定して良いこともあって、清涼飲料水や保険といったCMへの出演も増えている。同じく俳優の関さんとは親交が深いことが広く知られていて、彼らを揃えて起用したハイエンドブランドの巨大広告は渋谷に誘導員を手配する騒ぎにまでなった。

 あれは、ため息が出るほどの格好良さだった。普段テレビからお茶の間へと笑顔を振りまいている渡部悟の、男としての色気の部分が鮮やかに強調されていて。笑顔を消した渡部悟の格好良さに、世の女性たちがSNSで一斉にザワついていた。人波に揉まれながら苦労して撮影した巨大広告の写真を、かっこいいです!と書き添えて悟さんに送ったら、本当だ!どこの男前だろう?だとか悩む絵文字を添えて送り返して来て、ニヤケ顔を隠すのに苦労したことを思い出す。あの頃はまだ、恋人がスターダムを駆け上がっていくことへの喜びばかりが強くて。芽生えかけた嫉妬心には気付けずにいた。できれば気づけないままで、いたかった。

 世の中の反響を受けて、悟さんはそれから少々色っぽい売り出し方もされるようになった。女性の首筋に顔を埋める、香水の広告。社内恋愛モノで、主演女優に横恋慕する先輩役。某女性誌の表紙では惜しげもなく裸体を晒す。エトセトラ、エトセトラ。私なんかよりもよっぽど綺麗なモデルさんや女優さんに触れ、絡み、愛を囁く悟さんの姿はどれも魅力的だったけれど、どれもが私の知らない形をしていた。観る度にぬかるみに沈み込んで、脚が重たくなって、悟さんの背中が遠ざかっていくような感覚を覚える。臆病な私は、その先で悟さんがうつくしい人を愛してしまうのでは、という不安にさえ駆られるようになってしまった。そうなる覚悟は、悟さんが俳優の道を選んだときに固めた筈だったのに。

 液晶画面には、妖艶な顔の悟さんが映る。私よりも少し年上の女優さんが、悟さんの胸元を弱弱しく押し返す。悟さんはその手首を大きな手で掴んで緩やかな手つきで退かすと、そのまま壁に縫い付けてしまった。悟さんのチャコールグレーの瞳が、熱で潤む。女優さんが、その近さに息を詰める。

『俺じゃ駄目な理由は?』

 聴きなれたはずの声は色っぽい演技によってまるで他人のそれで、肌がざわりと粟立った。悟さんは、好きになった相手が誰かの物だったとき。こんな風に迫るのかな。女優は拒まず、悟さんの口許は自嘲的に吊り上がる。

『…逃げないってことは、いいんですね』

 悟さんは彼女の鼻の頭に、自分の鼻の頭を少し擦りつけるようにして顔を寄せて。鋭く薄めた眼光で彼女の瞳を覗き込んだあと、一息に口付けた。テーマソングが流れ始め、画面下にクレジットが流れ始める。場面は切り替わって、一方そのころ彼女の旦那は――というシーンが始まっているが、私の網膜には今見たキスシーンがしっかりと焦げ付いてしまっていた。

 今まで見た中で、一番、熱烈なキスシーンだった。悟さんの瞳に揺れる熱。逃げ場を奪う手。切迫した、唇の奪い方。魅力的という一言に尽きるそれに拍手喝采を送る私と、見たことのない熱だったなあと嫉妬する私が心のうちで分離する。ああ、複雑だ。なんて複雑な気持ちなんだ。悟さんの演技力の向上を、素直に喜ぶことができない。ソファに背を預け、はあ、と声を漏らしながら溜息を吐く。

「どーだった?」

 それは突然、至近距離で響いた。驚愕のあまり心臓が爆ぜて尻が3センチほど浮き、両肩は脱臼するんじゃないかってぐらい跳ねる。悟さんは驚く私に詫びもしないまま、「俺の渾身のキスシーン」と言い添えつつ、ソファをぐるりと回って私の隣へと腰を落ち着けた。今の今までお風呂にいた彼の髪は、まだ濡れている。

「…風邪引いちゃいますよ」
「感想が聞けたら乾かしてくるよ」

 それで、どうだった?無邪気に首を傾げ、私からの感想を待つ悟さんはどちらかというとお茶の間向けの顔に近い。今しがた観た、人妻に迫ってその心を手に入れんとする男とは到底同一人物とは思えない。

「なんというか…熱が…」
「うんうん」

 私の拙い感想にも、悟さんは相槌を打ってくれる。だからなるべく誠実に答えたくて、私は思うままで喋ることにした。

「熱が、篭ってて。この人を絶対に手に入れるぞー!っていう、意気込み?を感じました」
「おー、熱が伝わったようなら良かった。このシーン、監督にも褒められてね」

 私の感じ取ったものは悟さんが意図したものと合致したらしい。彼の狙いがちゃんと汲み取れたことを素直に嬉しいと感じる。やっぱり私は彼の理解者なのだ。だけど、まだまだ喋り出そうとする彼の唇に少しだけ不安を覚える。これからあのキスシーンの秘話を、アポイントメントも無しに聞くことができるのはこれ以上ない贅沢ではあるんだけれど。女優さんの唇の温度とか、掴んだ手首の細さとか。そんな話が飛び出すのではないかと、恐ろしくなる。私はきっとそれらを、ひっくり返っても超えることができないから。

「俺、他人の恋人を掠め取ろうと思ったことが無いからさ。役作りにちょーっと苦労したんだけど…」

 あったら大事件だ。私は少し笑って、静かに耳を傾け続ける。

ちゃんがもし、他人の恋人だったら…って想像してみたら、なんかこう、メラメラっと来てね」

 撮影秘話は意外な展開を迎えた。目を見開いた私に、今度は悟さんがちょっとだけ笑う番だった。

「絶対にちゃんに俺を選ばせるぞって気持ちで挑んだから、君のお陰でもあるんだよ」

 だから、ありがとう。付け加えるように言い、悟さんは大きな掌で私の頬を包むようにして撫でた。網膜の奥に焦げ付いたキスシーン。あの眼差しは、熱は。すべてを奪い去るような唇は、私に向けられたものだった。私が例えば、万が一にも悟さん以外の人と恋人であった場合に。悟さんはああやって、私を追い詰めたのかもしれない。
 お風呂上りの悟さんの掌は、あつい。とめどなく顔に上っていく熱をそのせいにしたいけれど、きっとこの熱さは悟さんの手の表面にも伝わってしまっているはずだった。

「私、あいされてますね…」

 しみじみ、呟いてしまった。悟さんは身体を屈め、私の額に彼自身の額をそっと合わせる。濡れた髪が肌に触れて、冷たい。

「そりゃあ、もう。奪われる想像をしただけで、嫉妬に狂いそうなくらいには」

 そう言って私を覗き込む瞳が、互いの影のなかであのシーンのような熱を浮かべるから。私はあの女優のように息を詰め、鼻先に触れる熱に生唾を呑み込んだ。心臓が早鐘を鳴らし、置いてけぼりになった心が「まって」と言おうとしたけれど、それは呼吸ごと悟さんの生温い唇に呑まれてしまう。粘膜同士を合わせるような熱烈なそれに、私は慌てて目を閉じる。どの女優さんもこんな悟さんのことは知らないんだろうなあ、と思ったらなんだか得意な気持ちになってきた。私は、悟さんの唯一、なのだ。

ひみつの熱源に触れ、

(離れるなんてゆるさない)
2020.09.19