特別ゲストー!なんて明るい調子で暖簾をくぐって現れた菅野くんの後ろから現れたのは見間違いようもなく私の想い人で、危うくハイボールを吹き出すところだった。予定なら明後日くらいまではパリにいる筈のその人は私の姿を見つけるなり、おっ!と眉毛をちょっと上げたあと、すぐにニコニコと朗らかに笑ってひらひら手を振ってくる。ああ、すてき。すてきすぎる。私はだらしなく緩む口許もそのままに、ひらひら手を振って応じた。

ちゃん?ちょっと態度が違いすぎるんじゃない?」

 先程合流した芝さんが不機嫌そうに言いながら、隣の席からぐいと顔を寄せてくる。お疲れさまですと頭を下げるだけだった己の行いを思い起こし、仰る通りすぎて私は苦笑いを零した。いくらなんでも分かり易過ぎたかな。ジョッキに冷やされた手で芝さんの頬を押し返しつつ、食い散らかされた卓の上に言い訳を探す。

「…だって、渡部さんですよ?超レアですよ?芝さんには昨日も会ったし、明日も会うじゃないですか」
「ひどい!ねえ!今の聞いた!?」

 ターゲットを私の向かいに座る荒木田くんへと移した芝さんからは早々に意識を外し、さて想い人様はどこへ行ったかとさり気なく周囲を見回す。空いてる席って、どこだっけ。渡部さんはどこに座ってるんだろう。

ちゃんは誰をお探しかな?」

 とん、と肩を叩かれる感触。掌の温度は暖かくて、ほんのりと甘さを纏うシックな香水が香る。見上げた先では、渡部さんが表情を緩めるようにして微笑んでいた。

「俺だったりして」

 そう言いながら今度は子供みたいに笑うので、この人はいくつ笑顔を持ってるのだろうと不思議に思う。しかもその全てがおそろしく魅力的なので性質が悪い。そうです!と即答しそうになった自分を押し留め、なにか、別の言い回しを考える。ああ、こんなことになるなら、お酒のペースだって控えたのに。

「渡部さん、どこに座ったのかなと思って」
「あれ、ホントに俺のこと探してたの?」

 きょとん、と少々目を見開いた渡部さんに私は無邪気な“オシゴト関係のヒト”を装って笑ってみせる。

「パリのお話、聞きたいです!」

 フランスという国に興味がある、という導入から渡部さんと仲良くなることに成功した私は、その設定を崩せないどころか、渡部さんから聞くあんな話やこんな話のせいで本当にフランスという国への興味をどんどん深めてしまっていた。
 渡部さんはとても。それはもうとてもお優しいので、パリにいる間も現地の写真を送ってくれたり、多忙な毎日の貴重な時間を割いて現地の紹介をしてくれたりしている。私が本当に興味があるのは渡部さんのほうです、なんてことは言えないままだし、このままだと墓まで持っていくことになりそうだ。

「パリのお話、ね」

 渡部さんが視線をついと横へ逃がす。と、そのとき、隣の芝さんが立ち上がる気配がした。そちらを見遣れば、自分の箸とジョッキを持った芝さんが、まるで娘を見守るかのような顔で私を見ている。こういう時の芝さんは余計なことしか言わないので、私は先に何かを発してしまおうと唇を開いた。

「芝さ…」
「あとはお若いお二人で?」

 阻止できなかった…!お見合いの場を離れる母親のようなそれに、私の左隣に座る朝霧さんがンフと小さく吹き出した。咄嗟に顔を向けるとズレてもいない眼鏡を指先で押し上げて誤魔化している。いや、こんなの、私が渡部さんのこと気になるって周りに吹聴してますと言ってるようなものじゃないですか…。

「それじゃ、お言葉に甘えまして」

 けれど渡部さんがそんな周囲には目もくれずに芝さんの座っていたところに腰掛けて、至近距離でにっこりと太陽みたいな笑顔を向けてくるので私は浄化されそうになってしまった。まぶしい。渡部さんの隣に座れるなんて、今年の半期分の運は使い果たしてしまったかもしれない。が、そういえば渡部さんが手ぶらでここに来たことを思い出し、慌ててマトリの面々が座っている方へと目を向けた。今日は渡部さんと親交の深い関さんと、玲ちゃんと青山さんと由井さんの4人が来ている。彼は外務省に勤めているものの、マトリとの結びつきが強い。彼の席ならきっと、そっち側に用意されていたのではないだろうか。

「で、でも渡部さん、先にマトリの…」

 言うが早いか、渡部さんの席にあっただろうオレンジジュースと未使用のお皿とお箸がバケツリレーの要領で迅速に手元まで届いた。渡部さんが座っていただろう席には芝さんが陣取り、なぜかマトリの面々と揃ってこちらの様子を伺っている。玲ちゃんも含め、全員の目が好奇心で爛々と輝いているのが分かった。

「いやー…どうも、あっちも考えてることは同じみたいでね」

 渡部さんが、参った、とばかりにそう零す。…同じ、とは?不意に、玲ちゃんと視線がぶつかる。きゅ、と眉毛を吊り上げながらゆっくりと頷くので、頑張れ、という念を送られたことに気が付く。私は頷き返す。マトリ側で私の気持ちを知るのは玲ちゃんだけだ。ほかの方々まで嬉しそうなのは良く分からないが、私はここまで来たら腹を括るしかないのでジョッキを持って渡部さんの方を振り向いた。渡部さんは小首を傾げ、微笑みながら私を見ている。やっぱ無理。渡部さんが近い。無理だ。心拍が逸りすぎて、酔いが大変な速さで回ってしまう。

「まずは、乾杯でも?」
「…宜しくお願いします」

 私は頭を下げ、ジョッキを差し出すと渡部さんの持つグラスに控えめにそれを当てた。警視庁の面々もジョッキを持ち上げ、渡部さんと乾杯を交わしていく。渡部さんがそのまま席を立って他の人たちとも乾杯すべく移動するので、私は今のうちにちょっと落ち着こうとハイボールを口に運んだ。ふと、荒木田くんと目が合う。

「…乾杯なのに宜しくはおかしい、って思ったでしょ今」
「…俺を巻き込むんじゃねー…」
さんの日本語がおかしいのは今に始まったことじゃないでしょう」
「デートの約束くらいしちゃいましょーよ」

 朝霧さんが冷たいのはいつものこととして、菅野くんの援護射撃には思わず鬼のような顔でシーッ!と子供を黙らせるように唇の前に人差し指を立ててしまった。渡部さんに聞こえたらどうするの!菅野くんは私の顔を見るなり楽しそうにへへっと笑ったあと、ぺろりと舌を出す。こいつ、一切反省していない。

 そうしているうちに、渡部さんがマトリの方々との談笑もそこそこに席へと戻ってきた。隣に座る渡部さんの肩がすぐそこにあって、シャツ越しに体温すら伝わってきそうな感覚を覚える。突然しおらしくなった私を見て、今度こそ堪えきれないとばかりに菅野くんが笑い出した。…明日、オフィスで、覚えてろ。

「それじゃ、たまにはパリ以外のお話もしようか」

 渡部さんがそう言って少し視線を彷徨わせたあと、ご趣味は?なんて訊いてくるので私は荒木田くんと朝霧さんと一緒に吹き出してしまった。お見合いじゃん!と菅野くんが笑う。私はいくらか緊張がほどけていることを自覚しながら、自分の趣味のなかから手頃なものはどれかと思考する。…できれば、いつかデートの口実にできそうなものを。

もっときみを教えてよ

(あの二人、まだくっついてなかったのか)
2020.09.05