その恋が4年間もの歳月を乗り越えたものであると知ったとき、私は軽率に恋の話を持ち掛けたことをひどく後悔した。お酒をしこたま飲まされてしまい、ぐにゃぐにゃになった渡部さんは料亭の美しく整えられた中庭を眺めながら「ずっと好きな子だったんだ」と珍しくまっすぐな言葉を吐露する。それが過去形であることに触れてもいいものか、隣で迷っているうちに渡部さんは唇の端っこを少しだけ持ち上げる。「ちゃんには話し過ぎちゃうなあ。困ったもんだ。ごめんね、忘れて」忘れられる訳がない。いつも明々浪々としているあなたに、酒の力があるとはいえそんな切ない顔をさせる女の子。心当たりはひとりしかいない。生温くなった湯飲みを握り締めて、私は渡部さんを納得させるためだけの「はい」を発した。襖越しに聞こえる酒宴はいやに遠い。腰掛けた縁側は冷たくて、渡部さんの香水はあまい。そんな夜の出来事だった。

「そんなことあったっけ?」
「ありましたよ…」

 2年越しにあの夜に覚えた惨めさを告白したところ、渡部さんはハンドルを握りながら首を捻った。そうしながらも表情にはゆるゆるとした笑みを浮かべるので、どうやらあの夜のことを完全に忘れた訳ではなさそうだと察する。私は座り慣れた助手席のシートに背中を埋めて、手元のクラッチバックから結婚式の招待状を取り出した。

「…本当にいいんですか、渡部さん」

 新婦の方に記載された名前を、視線でなぞる。渡部さんは苦笑いを零す。車が緩やかにスピードを落として、止まる。

ちゃん、引きずり過ぎじゃない?」

 いや、4年間も片想いしてた人がなにを。文句を垂れるつもりで運転席を見れば、愛しさを湛えた瞳と視線がぶつかって息を呑む。すべてを許し、甘やかすような、色素の薄い瞳。きちんと着こなした礼装のせいで、普段よりも更に男前に磨きが掛かってしまっている。

「可愛いね」
「…渡部さん、信号、青です」
「はいはい」

 渡部さんは私の赤い顔が拝めてご満悦らしい。上機嫌そうに微笑んだまま前を向き直して、車を滑らかに発進させる。壊れものを運ぶような、丁寧な運転。いつかこの運転を褒めたら、大事なものを乗せてるからね、だとか砂糖菓子のようなことを言いながら至近距離でウインクを炸裂され、死にかけたことを思い出す。

「実はさ。あのとき君に話しておけてよかった、って思ってるんだよね」

 ウインクの時のことかと一瞬勘違いして、私が話した2年前の夜のことだとすぐに思い直した。私は黙って、彼の言葉の続きを待つ。

「気持ちの整理って言うのかな。あんな話、誰にも出来ずにいたから」

 フロントガラス越しの景色が、灰色の一般道から緑の溢れる敷地内へと移り変わる。木々の向こう側に、チャペルの白くて尖った屋根が見えてきた。木漏れ日が輝き、その神聖さを一層際立てている。

「君があまりにも落ち込むから、驚いちゃったりもしたけど」

 その声は若干笑っていた。え、うそ、私、そんな分かりやすく落ち込んでたかな…。急に恥ずかしくなり、無意味に時計へと視線を落とした。9時45分。あの子の挙式まで、あと45分。バッグの中ではスマホが震えている。皆からの、会場への到着を知らせる連絡だろう。

「間違いなく、あの日が俺の一歩目だったよ。…ありがとう、ちゃん」

 渡部さんがあんまりにも優しくそんなことを言うものだから、鼻の奥がつんと痛んだ。泣きそうになっていることを悟られたくなくて、私は首をふるふると横に振って返事の代わりにする。あれから色んなことがあった。あなたの恋人なんて贅沢なポジションを手に入れてもいいものか、迷う日もあった。でも、こうやっていつも渡部さんは私に手を差し伸べてくれる。君が良いんだよと、分かり易く教えてくれる。

「さて、とうちゃーく」

 車はいつしか駐車場に到着し、エンジンが切られて振動が止んだ。私はクラッチバックに招待状を仕舞い、代わりにスマホを取り出す。辺りを見回せば、見覚えのある車が既に何台か止まっている。

「もう、みんな来てますね」
「だね。昨日も職場で会ったばかりだけど、なんか嬉しくなっちゃうなあ」

 ニコニコと心から嬉しそうに笑う渡部さんに、私もまた笑顔になってしまう。よし、心から祝福してあの二人の婚姻を見届けてやろう。私と渡部さんは頷き合って、気合十分で車を降りた。これは突き抜けるような青空が広がる、快晴の日の出来事だった。

それは青より透明な

(もうひとつのハッピーエンド)
2020.09.05