ごうごうと鳴る空も滝行のような豪雨も、昼間のあたりに一瞬窓の外を騒がしくしただけであっさりとこの辺りを通り過ぎてしまった。ニュースで警戒されていたような公共交通機関の乱れもなく、私は強い雨と風に対抗すべく持ち出した長傘を持て余したままで環状線に乗り込んだ。

 雨は上がっているのに車内の空気は湿度でむっとしていて、生温い。夏と台風の名残をぐっと押し込んだようなその空間で現実逃避にスマホを点ければすぐさま目に飛び込んで来る、買って来て欲しいものはあるかな、の文字列。途端に空気と気持ちが軽くなって、指が凄まじい速さで文字を打ち込んで送信ボタンをタップする。私ももうすぐ着きます。マメな彼は既読を付けてからすぐに、わかった、と返事をくれる。それから、御意、というスタンプが届いた。私がたまに使う、キャラクターもののスタンプ。大輔さん、いつの間に落としてくれたんだろう。思わず笑いそうになって、LIMEの画面をそっと閉じた。目的の駅までは、あと2駅。

 夜景を背にした画になりすぎる恋人様の姿は、改札を通ってからすぐに見つけられた。周りの人たちがちらちらと視線を向けてくることには無関心そうなのに、私が遠目に見えた瞬間、居場所を示すように片手を控えめに上げてくれる。周りの視線が私へ飛び火する。だから私はそれを潜るようにして、ちょっと駆け足で大輔さんの元へと足を運ぶ。大輔さんは、お疲れ、と優しく目を細めて私を見下ろした。だから私も優しく見えるように笑みを浮かべて、精いっぱいの労わりを乗せた、お疲れさまです、を返す。会ったらすぐにスタンプの話をしようと思っていたのに、多忙な彼と駅で落ち合えた喜びで用意していた言葉たちは消し飛んでしまった。なので私は、手近なところで話題を探す。かつん、と大輔さんの持っている傘がタイル張りの床を突いて、音を立てる。

「傘、要らなかったですね」
「でも、ひどくならなくてよかった」

 今日は傘が必需品ですね!と頷き合い、二人揃って長傘を手にしたのは今朝のこと。結果的に一度も開かれなかったそれも、大輔さんと一緒ならお揃いみたいで嬉しくなってしまう。すっかり雨の上がった街へと、大輔さんが顔を向ける。高い鼻がすいと夜風を切って、ライトブラウンを帯びた黒い瞳に夜景がきらめく。

「買い物は…」
「あります!食材を少々…」

 答えれば、大輔さんは瞳を私へと向け直す。綺麗なそれが私を映して言葉を待つ、そんな僅かな動作にも私の心臓は悲鳴をあげるので、私は堪らず視線を手元へと伏せた。掌を広げ、帰り道に買おうと思っていたものを思い出す。

「卵と、お肉…それに、長ネギ」

 指を折りつつ、お茶も切らしそうだったかな、と付け足したところで大輔さんがふふっと息を漏らした。控えめなそれが笑い声であることは知っている。大輔さんの顔を見上げると、そこには思った通りに弧を描く唇とやや下げられた眉尻があった。彼はゆるりと首を横に振る。

「いや、」
「大輔さん」

 気にしないで、と呑まれようとしたその思考の内容が気になって、催促するように名前を呼んだ。大輔さんは思慮深い。私の目に期待を見つけて、その言葉を仕舞うべきでないと判断してから、やがて素直に唇を開いてくれた。

「当たり前のことなんだけれど。と、同じ家に帰るんだなと思ったら、つい」

 そう言って、照れ笑いまで浮かべられてしまっては思考回路がショートしかける。ただでさえ魅力の塊のような人が、私との帰路を嬉しそうに、そんなふうに語るなんて。罰が当たりそうだ。私このあと、車に轢かれたりするんじゃないだろうか。満面の笑みで死ねてしまう自信があるので、逆に困る。
 確かにこれまで、私が待つ家に大輔さんが帰ってくるか、私の寝静まる家に大輔さんがこっそり帰ってくるパターンが多かった。こうして駅で待ち合わせて買い物の相談を一緒にすることなんて、いつぶりか分からない。
 もし。関さんが、静かな声でそう前置きする。

「用意していたものがある、とかじゃなければ…外食はどうかな」

 それは何気ない夕飯のお誘いではなく、夜の街をデートする口実であると彼の遠慮がちな口調が示していた。瞬間、世界が華やいで、見慣れた駅の白熱灯が明るさを増す。私は顔いっぱいに嬉しい気持ちを広げてしまっているに違いない。大輔さんがちょっと目を見開いたあと、脱力するようにふわっと笑った。

「大賛成です!」
「よかった。じゃあ、ちょっと歩いてみようか」

 夜の街へと身体を向けた大輔さんが、自然な仕草で私の手へと指を這わせた。壊れものを扱うように緩く握られた後に、するすると指の間に体温が滑り込んで、恋人つなぎが完成する。さも当たり前のように行われたその仕草に私もまた、隣にこの人がいる、という当たり前がすごく嬉しくなって、へへ、と笑い声を漏らしてしまう。大輔さんの視線が、私へと下りてくる。

「台風、過ぎ去ってくれてよかったです」
「俺も、同じことを考えていたところだよ」

 つないだ手を引かれて、私の肩が大輔さんの腕にくっついた。台風の中では感じられなかっただろうその温度に、雨雲は空気を読んでくれてありがとう、と声に出さずに感謝する。レストランがラストオーダーを取るまでは、まだまだ時間がある。雨上がりの街はあらゆるところがきらきらと輝いてスパンコールが散らばっているようだった。涼しい夜の風に乗って、濡れたアスファルトの匂いがする。握り合った手は熱くて、お腹は空いていて、大輔さんの微笑みがやさしい、二人で持て余した傘を揺らす夜。この瞬間のことは永遠に忘れずにいようと、心に誓った。

世界が輝く夜だから

(特別なきみとデートをしよう)
2020.09.10