「七海くんのそれってどうやって固定してるの?」
「どうもこうもありませんよ」

 ずっと気になっていたことだったのに、貰えた回答は大変にあっさりしたものだった。手をハンドソープで泡まみれにして几帳面に指の隅々まで洗いながら、七海くんは鏡越しに私へ一瞬だけ視線を遣り、すぐに手元へと落とした。私もまたハンドソープで彼に倣って手をごしごしとやりながら、鏡越しに彼のサングラス――ゴーグルと呼ぶべきか迷う代物を改めて観察する。ツルやバンドがなくて、目のくぼみに引っ掛けているというか、填め込んでいるというか。ブリッジで固定しているという感じでもないし、やっぱり不思議だ。というか、七海くんちの洗面所すごく綺麗に整えられてる。こんなところにも、すごく性格が出ている。

「そんなに気になるなら、アナタが外してみますか?」

 それは溜息交じりで、さながら子供の駄々に渋々付き合う大人のような声音だったけれど、私は臆面もなく思いっきり頷いた。願ってもない申し出だ。私はいそいそと手の泡を洗い流すと洗面台の下に掛けられたふわふわのタオルで丁寧に手を拭いて、早速彼の方へと向き直った。

 七海くんが、少しだけ身を屈めてくれる。手の届くところに来た彼の顔に手を伸べて、ガラス面に指をつけないよう、ゴーグルの端の部分を摘まんでゆっくり持ち上げる。それは、思っていたよりもずっと簡単に外れてくれた。

 真っ直ぐに伸びた鼻筋が露わになった。七海くんはデンマーク人の血が入ってるせいもあってほりが深く、日本人離れした容姿をしている。鋭い目が半分下りた瞼で更に薄くなって、新月を終えてすぐの上弦の月みたいになる。それが、そろりと開いて半月になって。小さめの瞳孔が私を捉え、僅かに揺らいだ。陽炎のようだった。金色の睫毛が洗面所の照明の下、きらきらとまたたく。その美しさに瞬きを忘れてぼんやり見入っていたら、緩やかに影がおりて来た。七海くんの薄い唇が、軽く掠めるように、私の唇の表面に触れる。

「っ、な、なみくん?」
「……そういう顔でしたよ」

 そっと唇に笑みを乗せ、私を甘やかすときの顔で七海くんが言う。そんなに物欲しそうな顔をしていたかな、私。……していたかもしれないな。恋人になってからというもの、彼がゴーグルを外すのは、これからキスをするよ、という合図みたいになってしまっている。彼の双眸が見えるだけで、私は多分、待てをされた犬みたいに期待を隠し切れない顔になってしまうのだろう。……だとかあれこれ考えを巡らせているうちに、七海くんの顔がもう一度近づいてくる。 今度は、温度を確かめるように。唇がしっかりゆっくりくっついて、名残惜しそうに離れていった。

「少し、待っていてください」

 吐息交じりに囁いて、七海くんが泡だらけのままの両手へと向き直る。私はいつまで経っても慣れることのできないキスの余韻にぼうっとしてしまいながら、照れ隠しに几帳面な彼を少しだけ揶揄ってやることにした。

「……手、いつまで洗ってるの? ふやけちゃうよ」
「アナタに触れるんですから、当たり前でしょう」

 揶揄うつもりが思いがけないカウンターパンチで瀕死に陥る羽目になってしまった。七海くん、こういうところある。流水のなかで泡を落とされ、彼の手の甲の血管が、指の関節の節々が、短く切りそろえられた爪が明らかになっていく。触れるという宣言のせいで、彼の手を構成するすべての要素がいやに艶っぽく見えてきた。ふ、と息を吐くような笑い声が耳元で鳴る。 流水が止まった。濡れたままの指先が、私の頬に触れる。

「待ちきれませんか」

 また私は餌を前にした犬みたいな顔をしていたらしい。覚えてしまった劣情を白状するようなつもりで頷いたら、七海くんの唇が今度は私の額へと着地した。吐息が前髪をくすぐる。彼の手首から、ぽたり、と水滴が落ちた。あなたが手を拭くまで待ちきれなくてごめんなさい。 ふわふわのタオルを手繰り寄せて渡してあげようとしたら、七海くんの手が私の手を引き留めるように掴み、自分の腰の後ろへと導いた。引かれるがままに七海くんの胸へと飛び込む。ついでに私の手からゴーグルが攫われていくのを感じながら、私から誘いたいときの上手い口上を見つけてしまったなあ、と思った。ゴーグルを私に外させて。そう頼むだけで多分、七海くんは私をどこまでも甘やかしてくれる。

あなたの前では待てができない

(アナタが、そんな顔をするのが悪い)
2021.08.29