あれは、くちびるに蝶がとまるような口付けだった。

 出張だからとはしゃいで少し飲みすぎて、珍しく七海も少々飲みすぎていて、私たちはお互いを支えにしながらふらふらとホテルまで帰ってきた。赤い絨毯敷きの廊下は千鳥足には優しくなくて、部屋を目前に足を取られて転び掛けた私を七海が抱き留めてくれて、お礼を言おうとしたら思いがけない距離で目が合った。「大丈夫だよ」「そうですか」そう告げる互いの呼吸が生暖かく混じり合った。お酒の香りがして、最後に飲んだ日本酒がおいしかったななんて思っている間に、七海の薄い唇がやわらかく私の唇を啄んでいた。「襲われないうちに部屋に帰って下さい」七海が顔を離しながら言う。「誰に?」私は笑って、白々しくもそう訪ねる。七海はそれまでの寝惚けたような雰囲気が嘘のように怖い目つきをして、「私にですよ」と言った。私は途端に腰のあたりがぞわっとして、それが七海にその先を期待しようとしている女の本性の部分だと気付いてしまっては、慌ててカードキーを鞄から引っ張り出した。「おやすみ」「おやすみなさい」視線を合わせずに挨拶を交わし、部屋に飛び込んだ。シャワーを浴び、布団に入り、アルコールも手伝ってぐっすりと眠って。

 今。これから七海にどんな顔で挨拶をするべきかで迷い、頭を抱えるに至っている。

 まず大前提として、あれはすべてお酒のせいだった。普段より距離が近かったのも、私が転び掛けたのも、それを七海が抱き留めたのも。そして、七海が私に口付けたのも。お酒に酔うとムラついてしまうという男性は少なくないらしいし、多分そういう理屈だろう。だからいつも通りに顔を合わせて、おはようって言おう。もしも七海が昨夜のことをなんとか言うようなら、気にしてないよって苦笑いして、廊下で嘔吐されるよりはだいぶマシなエラーだったよ、だとか適当な冗談で煙に巻くんだ。よし、いける。
 本日三度目のシミュレーションを終え、キャリーケースを片手に部屋を後にする。七海との待ち合わせはエレベーターホール。この角を曲がった先に――いた。白い革張りのソファに座り、足をゆったりと組んだ、七海建人の姿。

「七海、おはよー」

 なんとなく先に声を掛けておきたくて、タブレットを覗き込む七海に向けて声を張る。七海が顔を上げ、見慣れたゴーグルが私へと向く。たったそれだけで、私は少しだけどきっとしてしまった。落ち着け、落ち着け私。シミュレーションしたでしょ。大丈夫。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 ただの社交辞令とは分かりつつも、なんだその質問は私を試しているのか?なんて気持ちになってしまう。私はぐっと親指を立てて、最近で一番の笑顔を作って見せた。

「うん、よく寝れたよ。七海は?」
「私は…正直、あまり」

 そう言って、七海が首を僅かに横に振った。確かに彼の顔色はやや優れないように見える。昨夜あれだけ飲んでいたから、気持ち悪くなったりしたかな。七海のすぐ近くまで歩み寄り、ほかに変わった様子は無いかと彼のことを観察する。

「お酒、ちょっと残ったりした?それとも寝具かな…」
「いえ、原因は明らかなので」

 きっぱりと言い、七海が私を見上げた。というより、下から覗き込んだ。ああ、これは。唇のやわらかさがフラッシュバックして、私はあからさまに動揺する。七海の冷たい手が、後ずさろうとする私の手首を掴まえた。

「昨夜のキスについてですが」
「……あ、はい」
「念のため確認しますが、覚えてますよね。アナタもかなり酔ってましたけど、流石に」

 これだけアワアワしてしまっては今更覚えてないなんて嘘をつける筈もない。こっくり。おもちゃみたいなぎこちなさで頷けば、ふう、と七海が息を吐く。

「…すみませんでした。酔っていたとは言え、軽率なことを」
「あ、ああー!大丈夫!気にしてない!気にしないで!」

 何度もシミュレーションした筈なのに。感覚的には進研ゼミでやったところだ!って感じだったのに。テンパった私は捲し立てるように言葉を並べ立て、目をばしゃばしゃと勢いよく泳がせた。気にしてない?そんな訳あるか。あと一か月は寝る前に思い出して布団の中でわーって叫びながらゴロゴロ転がるに決まってる。

「気にしない、というのは無理な話ですよ」

 だよね!と返しそうになり、私はぐっと空気の塊を呑んでそれを押し戻した。七海の視線が、言葉の続きを探すように私の手元へと落ちる。そうか。キスをしてしまった側とされてしまった側とでは、気にしない、ことの重さが違う。彼は、酔った勢いで女性にキスをしてしまったという責任を重ために負ってしまっているようだった。私はしゃがみ込み、俯く七海に視線を合わせる。七海の目が、ゴーグルの向こうで丸まったのが分かった。

「気にしないで、七海。酔った勢いなんて誰にでもあるじゃん、私も忘れるからさ」

 今のは、上手く言えた。けれど七海は、首を緩やかに横に振る。

「…忘れられたら、困るんですよ」
「ん?」

 七海のそれは低く、呟くみたいな声量だったせいで聞き取れなかった。首を傾げて訊き返すと、七海の指先が私の手首を滑って、掌を柔らかに握る感触がした。

「酒のせいにされては困ると言ってるんです」
「……あれっ?」
「私は、私の意思でアナタにキスをしました」

 綺麗な日本語で、なんとか忘れようとしていた昨夜の出来事を真正面からぶつけられる。しかもそれが酔った勢いなんかではなく、七海自身の意思によるものだったという独白も込みで。間抜けな声を上げ、こんな筈ではなかった、みたいな態度をとる私に七海がそうっと顔を寄せる。

「私は男で、もう大人ですので。自分の行動には責任を持たなくてはならない」

 お酒の匂いはしない。アルコールによるふらつきもなく、七海の服装はぴしっとしているし、髪型も一切乱れていない。窓の外には爽やかな朝が広がっている。

「好きですよ。…アナタのことが」

 聞いたことも無いような優しい声で紡がれたそれに、私の思考はものの見事に白紙になった。こんな事態は想定していない。真っ赤な顔で口を開け閉めする酸欠の金魚みたいになった私を他所に、七海はすくっと立ち上がると私のキャリーケースに手を掛けた。

「では、行きましょう。新幹線まであと二時間ありますが、お土産を買う予定があるようなら京都駅で…」

 早くもいつも通りを取り戻したように見える七海に置いて行かれまいと、よぼよぼ立ち上がって彼の隣に…だめだ、並べない。顔が見れない。私は俯いて一層赤色を深めながら、そうだねと呟くのが精いっぱいだった。

ひらひらと撃ち抜く

(……眠れるわけないでしょう)
Twitterでのワンドロ企画にて。
2021.04.13