タクシーに乗ったら吐きそうだったから、歩きますと我儘を言った。そうしたら七海くんが「私もそうします」なんて言い出すものだから、危うく口から胃の内容物ではなく心臓がまろび出てしまうところだった。やや酩酊しながらもぎょっとする私と無表情を貫く七海くんに、悟が「送り狼になるなよ七海!」とヤジを飛ばす。唯一アルコールを摂取してないあの人が一番テンションが高いのは何故なのだろうか。キャッキャする白い頭は伊地知くんと硝子ちゃんによってタクシーの後部座席に詰め込まれ、まばたきする間にまばゆい街の中へと走り去っていった。沈黙が落ちてくる。街は深夜なのに煌々と色んな明かりで輝いていて、そこら中で酔っぱらいが輪になってたむろしたり、道端にうずくまっていたりしている。クラクションが鳴って、サイレンが鳴り響く。東京の真夜中は相も変わらず騒々しい。

「行きましょう」

 いつもの夜に、いつもと違う低い声。見上げれば、いつものスーツに黒いチェスターコートを羽織った、ちょっと見慣れない七海くんの姿。元々ぴしっとしてて格好良いところに更に大人の魅力が加わって、なにやら大変なことになっている。魅力的だ、とても。

「身体を冷やさないうちに」

 私を急かしながらも、身体まで気遣ってくれる上手な言葉選び。やっぱり社会人経験者は違うなあと思って笑ってしまいながら、私は上機嫌に低いヒールの踵を鳴らして彼の隣に並んだ。大きな革靴が歩き出す。その隣を、頼りない足取りで私のパンプスが前進する。

「…ごめんね、付き合わせて」

 騒がしい人たちがいないというだけで、私の頭は夜風によって三秒で冷やされた。お酒を飲みすぎて気持ち悪いのは本当だし、そうなったときにタクシーの揺れで吐きそうになるのも本当のことなのだけれど、私はそれらを一人きりになる口実にちょうどいいなと思ってしまった。結果、七海くんをも歩かせることになってしまっている。

「気にしないでください、私がそうしたかっただけなので」
「七海くんも歩きたい気分だった?」
「ええ、そうです」

 普段から彼の言葉にはあまり、感情の起伏みたいなものが乗らない。それでもその言葉が私への気遣いゆえのウソであることだけは確実だった。正面からはしゃぎながら歩いてくる若者集団を避け、七海くんの一歩後ろへと移動する。七海くんの腕が、後ろ手に私を庇ってくれる。

「…というのは嘘で、アナタが無事に帰りつける気がしなかったので」

 今日の七海くんはとりわけ素直だ。それなりにお酒を飲んでいたから、ほんの少しだけ酔っているのかも知れない。私は「優しいね」と呟いて、彼の背に甘んじて守られることにした。彼がいなかったら私は千鳥足のもつれるままに、酔いどれた群衆の濁流に呑み込まれていたかもしれない。
 浮かれた集団が通り過ぎる。私はまた七海くんの隣に並んで、歩き出す。

「どこまで一緒に歩いてくれるの?」
さんの家の前まで送ります」

 紳士すぎてまた心臓を吐くところだった。七海くんはずるい。イケメン、高身長、モデル体型な上に優しさゲージがカンストしている。しかも強い。こんな人が職場にいて好きにならないなど無理な話だ。だけどどこか隙が無くて、そもそも彼は一級術師さんであるからして、前までは後輩として可愛がれたのに最近では言葉を交わす機会ごとめっきり減ってしまった。そんな彼と久しぶりにオフで会えた喜びを、私はひとりで騒々しい東京の街並みでも眺めながら、酔いを醒ましつつひっそり噛みしめようと思ってたのに――歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれる、隣のシルエットをおずおず見上げる。七海くんだ。間違いなく七海くんだ。なんというボーナスタイム。

「うち、寄ってく?お茶でもどう?」
「絶対に嫌です」

 今ならあの頃みたいな軽口が叩ける気がして、私は本能のアクセルをぐっと踏んだ。私の酒気帯び運転を、七海くんがぴしゃりと止めてくれる。だから私は嬉しくなって、んひひ、みたいな気持ち悪い笑い声を発してしまった。年末も近い冬の夜。相当冷え込むはずなのに、さっきからちっとも寒さを感じない。

「酔った勢いでアナタに踏み込みたくない」

 それを私はまず、都合の良い幻聴だと思った。通りがかった酔っぱらいが、偶然七海くんと似た声帯をお持ちで。私じゃない女の人に言ったセリフだったんじゃないかと疑った。隣を見上げる。ゴーグル越しに視線がぶつかる。信号は赤。私たちは足を止め、しばし見つめ合ってしまう。

「……酔ってなかったらいいってこと?」
「それ以前に。アナタ誰にでもそんなこと言ってるんですか。そうだとしたら怒りますよ」
「言う訳ないでしょ」

 勇気を振り絞って訊いたのに、七海くんは話を逸らすのも上手い。だから私は僅かな期待感に浮かされて、つい余計なことを大変真面目なトーンで咄嗟に口走ってしまった。これじゃまるで、相手が七海くんだから言った、みたいな。いやそうなんだけど。それが真理なんだけど。ちょっと見開かれた彼の瞳から視線を逃がして、深読みされる前にと言い訳を往来のなかに探す。…っていうか、私がそんなことを言いふらしてたら怒ってくれるんだね、七海くん。

「あのー…七海くんなら、そうしますって言わなそうだから…つい…言ってみたくなって…」
「…信用を置いて頂けているようで、何よりです」

 苦しい言い訳をした自覚なら、ある。けれどそこを敢えて論破せずに一度納得してくれるところが、七海くんの素敵なところのひとつだ。私の思うことを、意見を尊重してくれたうえで、きちんと彼自身の意見も伝えてくれる。「私は」七海くんが喋り出す。信号が青に変わって、周囲の雑踏が私たちと同時に動き出す。

「アナタが思うより、アナタのことを魅力的だと思っているので。試すような真似はやめてください、さん自身のためにも」

 会議室で“御社のためにも”と言うような雰囲気で、いつもと変わらないフラットな喋り口で、七海くんがだいぶとんでもないことを言いだした。こういうのって普通、もうちょっと遠回しに伝えたりするものじゃないのかな。衝撃が強すぎて、今の横断歩道をどんなふうに渡って来たか記憶にない。かつん、七海くんの靴底が鳴る。金色の髪にネオンが弾けて、彼の後ろのほうへと流れていく。夢みたいな光景に、夢みたいな台詞。でも、夢じゃない。

「七海くん、はっきり言うね…」
「……隠しても仕様がないでしょう、こんなこと」
「酔ってる?」
「酔ってますよ。足元、段差気を付けて下さい」

 言い方が僅かに乱暴になって、彼の歩幅が少しだけ広くなった。多分、照れている。私は歩道になぜか発生していた大きな抉れ――こういうのを見かける度、どんなストーリーがあったのか気になってしまう――を軽やかに飛び越えて、着地を気に掛けてこちらを見下ろしてくれた七海くんと視線を絡ませる。ここにはこんなに人が溢れているのに、私たちを知る人は私たちしかいない。私たちの視界にはお互いしか映っておらず、私たちは互いに酔っている。吸い込んだ夜風から、甘い日本酒の味がした。

「私は七海くんとなら、どうにかなっても、いいと思ってる節が…あります…」

 勢いで言えると思ったのに駄目だった。恥ずかしかった。途中までは良い感じで言えていたのに、終盤は先生に怒られる小学生の如き声量となってしまった。しかも何、思ってる節があります、って。業務連絡か。ふう、と七海くんが細い溜息を吐く。掌でゴーグルを覆うようにして、それの位置を正している。そりゃ溜息も吐きたくなるよね、私もです。

「……五条さんに知れたら、永遠に揶揄われますね」
「まあ…私と七海くんがそんな関係になったらね…」
「いえ、そこではなくて。送り狼とやらの方です」

 ああそっか、送り狼。呑みかけた単語を吐き戻して二度見する。えっ、送り狼が何ですって?びっくりしたままの顔で、もう一度七海くんの顔を見上げる。彼の唇の端には、微笑みが乗っていた。

「お茶、ご馳走してくれるんでしょう」

 そこに含まされた意図を汲んでいいやら、知らぬふりをするべきなのやら。「ハイ」と機械的に答えるのを最後に、私は口を噤んで今朝家を出てくる直前の部屋の様子を慌てて思い描いた。ああ、うそでしょ、こんな。片付けておけばよかった。

お部屋の掃除は計画的に

(…そもそも、私がなぜ名乗り出たと?)
2021.01.06