女は上書き保存、男は名前を付けて保存。上手い喩えだなと、先ほどから続々と届くライン通知を眺めながら思う。性格の不一致で別れた筈のその男が『やっぱりお前じゃなきゃダメだった』と言い出す心理が小指の甘皮ほども理解できない。私は、あなたが私を“お前”と呼ぶところも嫌いだったよ。別れる前に言っておけば良かったなあなんて後悔を別れた後にさせられていることにすら、腹が立つ。別の女と恋をして、私との恋の方が良かったなと思えば再読み込み?どこまでも都合がいい。最後まで無視してしまいたいところだけれど、無視しているのにこのザマだ。新着三十二件。メッセージ三十二本分も愛を綴れるなら、どうしてあの頃にはそれができなかったのか。

「…スマホ、ずっと鳴ってますけど」

 隣で静かに本を読んでいた恵くんが、長い睫毛をそうっと持ち上げて私の手元へと視線を遣った。彼の部屋でおすすめのノンフィクション本を読ませて貰うという穏やかな休日を過ごすつもりが、とんだ遠隔お邪魔虫である。「気にしないで」と言いながら私も彼の視線に倣って今一度スマホの液晶を見下ろす。僅かな震えの後、垂れ幕のようにするんと落ちて来た短くて白いウインドウに一行。『会って話そう、君ともう一度恋がしたい』…少女漫画のタイトルみたいで、少しウケてしまった。

「元カレ…さん…とか、ですか」
「うん、また私と付き合いたいんだって」

 律儀に私の元カレにすら敬称をつける恵くんに思わず笑ってしまいながら、愚痴るような気持ちで状況を軽く説明する。恵くんは「へえ」と短く相槌を打って、通知ウインドウが引っ込む瞬間までそれを見つめていた。また、スマホが震える。今度は長い。本に向け直そうとしていた顔をそちらに向ければ、煌々と灯る着信中の表示。途中まで既読をつけたことがアダになってしまった。

「うわー最悪…恵くんはこんな男になっちゃだめだよ」

 絶望と面倒くささと、若干の気持ち悪さ。人によっては少しの期待も含むのだろうが、今回私はこの人に対してなんの情も抱いていないせいで只ひたすらに気が重い。でも、出なきゃ切れないんだろうなこれも。読みかけのエッセイ本を閉じ、スマホへと手を伸ばす。恵くんの手がカラスみたいにすっと滑空してきて、そんな私の手首を掴んだ。漏らそうとしていた溜息が驚愕により口腔に詰まり、呼吸が止まる。恵くんの指先は、つめたい。

「出ないでください、それ」

 強い言い方だった。五条さんを言い咎めるときみたいだったから、少し苛立っているのかもしれない。戸惑いつつも恵くんの表情を伺う。彼の視線は未だ震え続けるスマホへと注がれたまま。濃紺色の瞳が、鋭く細まる。

「…さん、声聞いたら絶対に流されますよ」

 だから出ないでください。言い添えて、彼はその瞳をやっと私へと向けた。思いがけず理解されていた私の性格と、その表情の真剣さに押し流されるようにして私は短く「うん」とだけ返す。恵くんの唇が何かを言い淀み、小さな空白をひとつだけ刻んだ。

「……。本当に、いいんですよね」
「いいっていうのは…」
「この人とはもう、付き合わなくても」

 私をこんな風に物理的に止めておきながら今更不安になったらしい。私は声に出して笑ってみせながら、スマホに伸ばしていた手を下ろした。恵くんの手が、私の手首から離れる。

「付き合う気があれば、とっくに返信してるよ」
「…ですよね」

 唇の端をくっと上げて笑った――と思ったら、恵くんは次の瞬間には私のスマホを拾い上げて親指で迷わず操作し、それを耳に当てていた。聞き慣れた、けれど随分と懐かしい声が私の名前を呼んでいるのが聴こえてくる。私はぽかんと、凛々しく眉尻を上げた恵くんの横顔を見上げることしかできない。

「もう連絡してくるのやめてもらえますか。……は?俺が誰でも関係ないでしょ。さんが嫌がって…、…そうですよ。俺が新しい恋人です。迷惑なんで、もう二度と、連絡を寄越さないでください」

 恵くんの声は低くて恐ろしかった。スマホを下ろし、通話を切ると恵くんが眉根に皴を寄せながら私に画面を向ける。

「ブロックしてもいいですか」
「…ふっ、あはは!いいよ!いっちゃって!」

 目の前で女々しい元カレが恵くんによって制裁された様がなんとも爽快で、私は笑いながら彼の提案を快諾した。恵くんが再び画面を軽やかに操作し、よし、と何かを確認するとスマホを返却してくれる。ラインニュースからの通知が一件。そのほかはゼロ。一時間前までの平穏が、そこには取り戻されていた。

「ありがとう、恵くん」
「いえ。俺もむかついたんで、スッキリしました」

 事も無さげにそう言って、恵くんの目が私のスマホを追い、手首をなぞり、そうして緩やかに私の目元まで上がってきた。窓から差し込む白い日差しのなかで、夜空みたいな瞳がまっすぐに私だけを映している。

「あの、…俺が新しい恋人だって言ったことなんですけど」
「あー、それについては…」
「本気なんで」

 仕方なかったよね気にしてないよ、なんて吐こうとしていた言葉が全てシャットアウトされてしまい、行き場を失った酸素が喉の奥でヒュッと鳴った。恵くんが片手に持っていた本を床に置いて、その横に手を突く。ずっと隣にあったその姿が急に男の人のそれに見えて、反射的に身を退いてしまった。

「俺の部屋までのうのうとひとりで遊びに来るとか、本当に何考えてるんですか。甘いんですよ、全部が」

 本気で恋人になりたい、と言う割には二口目に零れて来た言葉たちがとても説教じみていた。何考えてるって言ったって。私に懐いてくれた君が、私の好みに合う本があるって言ってくれたから読みに来ただけで。まさか、こんな風になるなんて。

「意識しましたか、俺のこと」

 掌が迫り、私の顔に触れる。輪郭を包み、頬をなぞり、その指先が私の唇に触れたとき。私と恵くんの間で、何かがぱちんと音を立てて弾けてしまったような気がした。シャボン玉が割れるような、境界が壊れるような。混じり合う呼吸に歳の差や立場といったものが全て白んで、恵くんの唇の温度に溶かされて消えていく。額同士が合わさって、どちらからともなく緩く息を吐いて、もう一度唇を重ねる。だめだ、流されてはいけない。警鐘を鳴らす理性が、唇に淡く立てられた歯の感触で脆くも崩れ去っていく。

「…好き、なんで。恋人にしてください、俺のこと」

 声を聞いたら流されますよ、と私に警告したあの声が私に愛を囁いている。確信犯の犯行じゃないか。言葉で応える代わりに、私からもう一度距離を縮めて恵くんの唇を啄んだ。噛み付くような深いキスで返され、逃げようとしたら後頭部を掴まえられる。あんなに理知的なふうを装っておきながら、この子はまだ、何に於いても力加減を知らない。必死で境界を無くそうとする唇に酸欠で溺れかけつつ、年下男子をナメてはいけないという戒めと共に、私の中の恋を新しい情報で上書きした。…ああ、もうすでに、私の方こそ余裕を失い始めている。

かみついてあげようか

(油断しているその心臓に)
タイトルはキンモクセイが泣いた夜さまより。
2021.04.10