今日の私には、どうしても見たいテレビがあった。

 面白いわよと野薔薇ちゃんに勧められるがままに観始めた恋愛ドラマが本当にツボにハマってしまい、いつもは泣く泣くネトフリでの最新話配信を待つところなのだけれど、今夜は違う。授業も任務も、奇跡的に19時には終えられた。伊地知さんに訝しがられながらも私は大急ぎで帰宅して、ごはんを掻き込んでお風呂に入り、こうして無事に共有スペースのソファにどっかりと腰を下ろすに至っている。手には購買で購入したソーダ味のアイスキャンディ。いつもチャンネル権でモメる大きなテレビも、今夜ばかりは私の独占状態だ。これで視聴準備はバッチリ。

 間もなく21時をさそうとしている時計の針をちらりと見遣り、うきうきでアイスキャンディに齧り付く。お風呂で火照った口内で食べる冷たいものって、どうしてこうも美味しいのか。爽やかな甘みと一緒に今日の疲労感が溶かされてゆく。そのとき、ふかふかの背もたれに全体重を預けた私の背後で、ぱた、とスリッパが床を叩く音がした。視線だけでそちらを確認する。お風呂上がりらしい、髪型の少し落ち着いた恵がいた。

も戻ってたのか」
「恵もお疲れー」

 お疲れ、と低い声で言いながら歩み寄ってきた恵が、私のことをきちんと視認しては急に眉根を寄せた。いや、それ、仮にも一緒に命懸けで戦ってるクラスメイトに向ける顔じゃないと思うんだけど。

「おい…髪ぐらいちゃんと乾かせ」

 ああそういえば、とまだ濡れたままの自分の髪を思い出す。ドライヤーをかけていてはオンエアに間に合わなそうだったから、観ながら乾かせばいいやと思ってタオルだけ持ってきたのだった。これで乾かすから平気だよと伝えるつもりだったけれど、テレビから俳優さんのシリアスな喋り声が流れて来ては意識をそちらへと切り替える。

「んー…」
「んーじゃねえよ」

 生返事の私に呆れきった声をこぼし、恵が私のすぐ後ろまで歩いてきた。それから自然な動作で私が肩に掛けたままにしていたタオルを手に取ったかと思うと、それで私の頭をふんわり覆った。タオル越しに恵の指先が丁寧に私の髪を撫ぜる。どうやら、私の髪を私の代わりに乾かしてくれるようだった。前髪とタオルの端っこがちらちらと視界を行き来する。恵はお姉ちゃんと二人三脚で暮らしてきたせいか、こういう面倒見が非常にいい。

「…これ、」
「んー?」
「どういう展開なんだ、今」

 しかも一緒にドラマまで視聴してくれると来た。私は素直にテンションが上がり、視線をテレビに向けたままで簡単にあらすじを紹介する。学園モノのラブコメディで、同学年の男の子や先輩、そして先生までもがヒロインのことを好きになってしまう。けれどヒロインには幼少期に結婚を約束した男の子がいて、それがどうもその三人のうちの誰かっぽいけれど…という、ありきたりな物語。でも、恵はそれを馬鹿にすることもなく、へえ、と頷いては、誰なんだろうな、と小さく話題に乗ってくれた。画面の中では、先生役の俳優さんが歯痒そうに下校中のヒロインのことを見送っている。私は、タオル越しに頭を撫でられる心地よさに目を細める。

「先生かなあ」
「そうなのか?」
「わかんない、一番かっこいい」

 先生役の俳優さんの顔が単に好みということもあって、適当なことを言いながらしゃくりとアイスキャンディを齧った。恵が沈黙する。ドラマの場面が切り替わり、ヒロインが自宅ベッドで寝そべっているシーンになった。

「先生ってだけでさ、なんとなくかっこいいからずるいんだよねー…」

 周囲の同級生や先輩よりも大人だというアドバンテージは強い。挙句にさっきみたいな切ない顔まで見せられては、ついつい応援してしまう。そういう意味で私は先生を推しているのだけど、恵が喋り出さないどころかふと指の動きまで止めるので、私は少し不安になってしまった。やっぱり興味なかったかな。ちょうどテレビがCMに切り替わったこともあり、この沈黙がどういう沈黙なのかを確かめるべく、私は思い切って後ろを振り返った。すぐ近くに黒いスウェット生地があって、それを辿るように見上げると深い藍色の瞳と視線がぶつかる。なんか、思ってたよりも、神妙な顔だ。

「…恵?」

 私に名前を呼ばれて、恵の両手が漸く動き出す。けれどそれはタオルの端っこを握るので、その先の予想がつかなくて呆然としてしまった。タオルが引かれて、頭が恵の方へと引き寄せられる。白い布で狭まった視界の中で、恵がぐっと身体を屈めるのが見えた。まばたきを一度する間に、普段から長いなあと思いながら見上げてたあの睫毛がすぐそこに迫る。高い鼻筋。白い頬。夜空みたいな瞳。きれいだ、と思ったとき、唇同士が柔らかく衝突した。一度離れて、私の発した「えっ」を食べてしまうみたいに、もう一度重なる。確信犯的な二度目の口付けは、私たちから“これは事故だ”という言い訳を奪った。

「………ちゃんと乾かして寝ろよ」

 顔を上げて、真っ赤な顔で、視線をバサロ泳法させながら何を言うかと思えば。ぶっきらぼうに言い捨てて、恵は逃げるように共有スペースから去って行ってしまった。忘れ去られたアイスキャンディが、私の手にひやりとした雫を落とす。その感触で心臓が漸く思い出したみたいに、ばくばくどくどく暴れまわり始めた。いや、うそ、まって。動揺で物も言えない私の耳に、ドラマの台詞が滑り込んで来る。『あんな教師より俺にしとけって』同級生くんが、ヒロインに告白しようとしている。ああ、なるほど、と思ってしまいながら、私は溶け始めたアイスキャンディを浮かされた思考のままで口に運ぶ。たぶん、私の唇からはこの味がした筈だ。


* * * * *


 翌日の教室にもまだ、虎杖くんと野薔薇ちゃんの姿はなかった。
 教室のドアを開けた私を憮然とした顔の恵が見上げる。えっ。神様ウソでしょう。昨日の今日で私と恵を二人きりにしますか。私は表情筋をどんな形にすべきか迷った挙句、なんとも曖昧な顔でオハヨウとメカ丸先輩みたいな挨拶をすることになった。恵が、ふ、と口元を緩めて笑う。朝陽の差し込む教室の中でその笑顔は特別きらきらとしていて、昨日の夜まではなかった謎のフィルターが私の両目に搭載されてしまったようだった。恵って、こんなかっこよかったっけ。

「メカ丸先輩かよ。…おはよう」
「……そうダ。オハヨウ」
「何回挨拶すんだよ」

 私の微妙なクオリティの物真似にもしっかりツッコミが返ってきて、胸を撫で下ろしながら席に着く。良かった、思っていたよりもずっと恵はいつも通りだ。昨日のあれは何か、気の迷いのようなものだったのかも知れない。思えば私たちは思春期であるし、お風呂上がりだったし。なんか、お年頃の彼にはムラッとする何かがあったのだろう。ならば私は忘れてあげるべきだと結論付けて、視線を教卓から恵へと移す。淡くて白い光の中で、恵は私を見ている。昨日みたいな、神妙な顔つき。

「おい、。昨日のことだけど」
「き、のう…」

 そんな真っ直ぐに昨日のことに触れてくると思わなくて私の声はひっくり返った。「どんな声出してんだ」なんて律儀にツッコむ恵もまた、話の核心まで少し遠回りをしようとしているように見える。柔らかそうな唇が溜息をハァと吐いて、実際あれは柔らかかったんだけど、なんて思い始めたら心臓が猛スピードで肋骨の内側を叩き始めた。駄目だ。無理だ。彼を意識しないなんて、到底無理な話だ。

「…俺は、気まぐれであんなことしない」
「……ハイ」

 それはもう、愛の告白だと思うんですが。言うに言えないまま彼の気持ちの核心に触れてしまった気がして、どんどん顔の表面が熱くなっていく。つられるように、恵の頬にも紅色が差す。

「だから、何事もなかったってカオすんな」

 俺を意識しろ、ということらしい。そんな殺し文句、昨日のドラマどころか昨今の少女漫画でも見かけない。というかもう既に私にはやたらと恵がかっこよく見えてしまっているし、低い声のひとつひとつにみぞおちの辺りが震えて謎の緊張感を覚えているし、唇の生温さは今すぐにだって明確に思い出せてしまうし、普通のクラスメイトの顔をするのは絶対に無理な段階まで来ている。動揺と緊張で上顎にくっついたままの舌を無理やり引き剥がして、私はなんとか気持ちを言葉に乗せる。

「意識、してるよ」

 直後、オッハヨー!!と勢い良く教室に飛び込んできた五条先生が私たちの顔色を見るや否や僅か2秒で「僕用事あるんだったー!」とわざとらしく教室を出て行ったのを、恵が目にもとまらぬスピードで追いかけていくのであった。せめて授業中はクラスメイトの顔をしなくては、と思うのになかなか頬の熱が冷めない。挙句に廊下から「ねえねえ告白はどっちから!?やっぱ恵!?スミに置けないねえ!」なんてハシャぐ声が聞こえるし、恵も恵でパニクって「まだしてねえ!!」とか言うので私は机に突っ伏した。……神様、あんまりです。

メルトソーダの憂鬱

(青春してるねえ若人諸君!)
2020.11.10