あれは本当になんてことのないガールズトークだった。野薔薇ちゃんとふたりきりの教室で、確か昨夜見た恋愛ドラマの話題から私たち自身の恋の話になって。悪戯な顔をした野薔薇ちゃんが「アンタは伏黒と虎杖のどっちがタイプよ?」なんて修学旅行の就寝前みたいなことを訊いてくるから、私も彼女そっくりの悪戯な顔をしながら「私は伏黒くんかな」と悪乗りのままに答えた。「傍にいて落ち着くタイプだよね」と続けざまに発言しつつ、ほんの少しだけリアルに伏黒恵との恋人生活を思い描く。伏黒くんと書店に出かけて、カフェに寄って、買ったばかりの本を読む。うん、悪くない。けれど野薔薇ちゃん自身が「私はどっちもナシ!」と話題を根底からひっくり返すので、私は自分の笑い声で甘やかな妄想を掻き消した。虎杖くんと伏黒くんが教室に姿を現したのは、それからすぐのことだった。


* * * * *


「伏黒、荷物持ち」
「……なんで俺だよ」

 ジャン負けでコンビニに買い出し。学生にありきたりなそのイベントでグーを出して負けた私に、野薔薇ちゃんが荷物持ちとして伏黒くんをアテンドした。私は別に、二リットルペットボトルやパックのジュースをひとりで泣きながら運ぶ羽目にさえならなければ誰とでもいい。行くなら早く行こうよ、という思いで伏黒くんに目配せをする。伏黒くんが私の視線を受けて、呆れた顔で溜息を吐きながら立ち上がろうとした。そのとき、彼の隣から勢いよく手が上がった。

「それ!俺も行っていいか!」

 元気いっぱいに発言した虎杖くんに、パンダ先輩がモフモフの肩をびくつかせた。私も多分、同じくらいびくついた。虎杖くんは自分に集中した視線に気が付くと、あ、と声を漏らす。野薔薇ちゃんがそんな彼に苦笑いを向ける。

「ウルッサ。音量調節機能バカになってんじゃないの?それじゃ、虎杖。荷物持ち行ってらっしゃい」
「お、おう…悪い…。伏黒、」
「お前のバカ力があるなら俺はいらねーだろ」
「えっ」

 一年のみんなから満遍なくバカの称号を貰っている虎杖くんだったが、座り直した伏黒くんを目にしてはちょっぴり困惑した顔をする。その正面で、真希さんがするめいかを噛みちぎった。彼女の姿からは高校生とは思えない貫禄が出ている。

「いーから早く行ってこい」
「ツナマヨ」

 狗巻先輩にまで背を押され、虎杖くんが困惑顔をそのままに私のことを見た。なんでそんな、俺でいいの?みたいな顔をするのか。自分で手を挙げて立候補したからには、コンビニに用事があるんだろうし。ついでに荷物を持ってくれるなら関係値としてはウィン・ウィンだ。

「行こう、虎杖くん」
「……うん」

 彼にしては珍しく、しおらしい頷き方だった。


* * * * *


 コンビニに続くなだらかな坂道は、この時間になると車通りがぱったりと無くなる。街灯に照らされるアスファルトには私たち以外の人影もなく、暗い森は風でざわめいて、そういう巨大な化け物みたいに腕を広げている。まるで帳が下りているようだった。静かで、暗くて、人がいない。それでも走り屋がいつ峠を攻めに通りかかるかも分からないので、念のため歩道を歩きながらどうにも気まずそうにする虎杖くんのことを見上げた。虎杖くんは、ちら、と私を見下ろしたあとすぐに自分の脚元へと視線を逸らす。寮を出てからの彼は、ずっとこの調子だ。

「…俺になっちゃってごめんな、荷物持ち」
「……ん?」

 その謝罪は、ぽつ、と静かに落ちて来た。謝られた意味が分からなくて訊き直すけれど、虎杖くんはきゅっと唇を結んだままで私の方を見ようともしない。なので私は今わかる限りの情報の中から、彼に返すべき言葉を探す。荷物持ち、虎杖くんじゃ嫌だったなんてことは一ミリもない。

「ううん。虎杖くん力持ちだし助かるよ?」
「そうじゃなくてさ、前に…お前…ほら、言ってたじゃん、釘崎と…」
「野薔薇ちゃんと?」

 虎杖くんの歯切れが悪い。私、虎杖くんに嫌われてると錯覚させるような発言とかしちゃってたかな。だとしたら撤回したくて、己の過去の発言を思い出すべく唸りながら夜空を仰ぐ。

「伏黒がタイプだ、って」

 今にも消え入りそうな声に驚いて、弾かれるように虎杖くんを見上げる。虎杖くんは眉根を寄せ、あからさまに私から視線を背けていた。その発言ならば身に覚えがある。一か月ほど前の、教室での話題だ。

「言っ…たね、言った。聞いてたのアレ」
「聞いてたっつーか、なんつーか…」

 アレは男子たちがいないからと女子トークに花を咲かせた時の悪乗りだったと記憶している。確かにあれからすぐに虎杖くんたちが教室に入ってきたけれど、まさか聞かれていたなんて。気まずさと恥ずかしさが私の唇にブーストを掛け、言い訳じみた言葉たちを倍速で紡ぎ出す。

「深い意味ないよ。なんとなくそういう気分だったから、伏黒くんって言っちゃっただけで」
「…気分?」
「そー、気分。どっちも甲乙つけがたいけど、醤油ラーメンよりも塩ラーメンが食べたい気分だった、みたいな」

 我ながら例えが上手い。決して特別伏黒くんが好みのタイプという訳でもないし、虎杖くんが好みじゃないという訳でもない。差し出された二択のうち、私は偶然そっちの気分だった。それだけの話。

 するといきなり、虎杖くんがその場にしゃがみ込んでしまった。突然のことに対処できず、三歩ほど虎杖くんのことを置き去りにしてしまう。靴ひもでもほどけたかなと彼を振り返るけれど、両手で顔を覆っているのでどうやら何か事情があるらしいと察する。

「……どうしたの」
「いやー…俺にも分かんないんだけどさ…」

 虎杖くんに分からないなら私にも分かりようがないし、心配の仕様がない。私の見下ろしている先で、虎杖くんが祈るように掌を合わせる。顔を深く俯け、その指先を額に当てた。

「…すーっげえ、自分でも意外なくらいホッとしてんの今。…なんだろうな」

 するり。虎杖くんの大きな掌が顔の前から下りていく。ゆっくりと顔を上げた彼のキャラメル色の瞳に白熱灯が映り込んで、そこに浮いた熱っぽい感情を顕わにした。

「妬いてたのかな、俺」

 スポットライトの下、戯曲を読む俳優のようなその姿から目が離せない。心臓を内側から強く殴られる感覚。私は、そんな顔で私を見上げる虎杖悠仁のことを知らない。

「…私に確認しないでよ」

 そう言い捨てるのが精いっぱいだった。踵を返して、彼を待たずに足を進める。今しがた虎杖くんの瞳から受けた熱をどうにか忘れてしまおうと、冷えた夜風で肺腑を満たす。スニーカーがアスファルトを踏む軽快な音がふたつ聞こえて、あっという間に虎杖くんが私の隣に追いついてしまった。私はなぜか、吸った息が吐けない。虎杖くん、こんなに身長高かったっけ。肩幅も広くて、何やら良い匂いがする。というか、この歩道ってこんなに狭かった?さっき歩いてたとき、虎杖くんとこんなに近かったっけ?

「なあ、。コンビニで肉まん食ってから帰らね?」
「いい、けど…」
「けど?」
「いや、いいよ、うん、肉まん食べて帰ろ」

 さっきまでの会話のテンポが思い出せない。虎杖くんと肉まんを食べるという些細な約束に胸がどうしようもなく高鳴って、何かを期待するようにざわめき始めた。なんて応えれば挙動不審になっていることがバレないか、ぐつぐつ茹る頭で考える。そんな私を、ひょこり、と虎杖くんの顔が少し先回りして覗き込むので、私の脚は止まってしまったし喉からは若干の悲鳴が漏れた。見上げ慣れたはずのクラスメイトの顔が、こんなにも格好良く見えてしまう日がくるなんて。

 虎杖くんの手が、ゆっくりと私に伸びてくる。

「…ほっぺ赤いな」
「……虎杖くんもだよ」

 その指先が私の頬に触れたとき、視界の端っこで光が爆ぜた。切れかけの街灯が瞬いているのかもしれない。けれどそれは今の私の心情にぴったり重なって、恋の始まりとは火花に似ている、なんて詩的なことを思ってみたりした。

トゥインクル・スパークル!

。…今度さ、映画行こうよ)
2020.11.20