いくらその日が年に一度しかないからと言って、慣れないことはするべきじゃないなと痛いほどに思う。二月十四日。私にとって去年までは美味しいチョコが流通する日でしかなかったその日付が、今年に限っては待ち遠しく思うほどのものになった。恋をしたせいだった。呪術高専なんて血生臭いところに入学して、同級生はたったの三人。青春めいたものを一切期待しないまま学生生活をスタートさせたけれど、私はあっという間にこの生活のことが――特に、夏油傑と過ごす時間が大好きになってしまった。

 彼の見てくれは悪く言ってヤンキー、良く言ってもヤンキーだ。鋭い目つきに大きな体、足癖の悪さにボンタンスタイルのボトムス。黒く長い髪は左目のあたりだけを残して丁寧にまとめ上げられ、後頭部でお団子状に纏まっている。高専の制服が黒一色であるせいもあり、その威圧感たるや初対面で目を合わせることすら躊躇うほどであった。
 でも、私は知ってしまった。彼が仲間に向ける、優しい笑顔を。気遣ってくれるときの、柔らかな声を。普段は大人びている癖に、年相応に一緒にふざけてくれる無邪気さを。私をピンチから救ってくれた、広い背中の頼もしさを。これを恋と自覚してからの想いが募るスピードは目覚ましく、私はとうとうそれを抑えきれなくなり、バレンタインデーに乗じて夏油にひっそりとチョコレートを渡すことを決意したのだった。…まあ、結果としてチョコレートは渡せないまま、今私の手の中にあるのだけれど。

 渡せなくなった理由は単純明快だ。いつ渡そうかなとそわそわしていたら、五条と夏油のこんな会話が耳に飛び込んできた。「お、今日バレンタインじゃね?」「そんなものに浮かれてる場合じゃないだろ」…仰る通り。呪術師、しかも半人前で学ぶことの多い私たちは、こんな行事に浮かれている場合では全く以って無いのであった。

 いつでも渡せるようにと、教室の机の中に忍ばせていたそれを夜中になってから回収する。夜蛾先生には忘れ物をしましたと教室に入る許可は貰っているから、変にコソコソする必要もない。私は自席の机の上に座って、椅子の上に脚を投げ出し、普段は絶対にしないようなヤンキーっぽいスタイルで腰を落ち着かせた。なんとなく、こうしてみたい気分だった。

 ボルドーの包み紙に、濃いブラウンのリボン。我ながら上手く包装できた箱を、しげしげ見つめる。これを包んでいるときの自分の浮かれようったらなかったなあ。これを受け取る夏油の顔をあれこれシミュレーションして、一喜一憂して。結局手渡すことすら儘ならなかったというのに。
 リボンを解きながら、彼にこれを渡してバレンタインに浮かれる軽率な女だと思われる前で本当によかったなあ、と前向きな思考を試みた。包み紙を外し、箱を開ける。英字新聞柄のワックスペーパーが、くしゃくしゃ鳴った。嘘です。軽率だと思われてもいいから、このチョコレートは夏油に渡したかったです。

「忘れ物は見つかった?」

 声がして、私は動転するままにそちらを振り返った。明るい廊下から、暗いままの教室を覗き込む逆光の人影がひとつ。その輪郭がぼやりと滲んで初めて、私は自分が泣いていることに気が付いた。彼が少し戸惑ったのが、雰囲気で伝わってくる。やばい。このままでは夏油に軽率な女だと思われるどころか、暗い教室で泣きながらプレゼントを開封する妖怪だと思われてしまう。

「あ、うん、見つかったよ大丈夫。私もすぐ部屋に戻るから」
「そう。…その箱が忘れもの?」
「これは、ええと、」

 明るい声を取り繕うのに精いっぱいで、言い訳が考えられない。目元を拭って箱を見下ろしている間に、傑のサンダルを履いた足音がぺたぺたと私に近づいてくる。

「…渡し損ねた?」
「えっ」

 渡し損ねたご本人様からその台詞が飛び出すとは思ってもおらず、私の口から素っ頓狂な声がこぼれた。隣の机に浅く腰掛け、夏油がやっぱりと言いたげに苦笑いを浮かべる。

「今日は悟、忙しそうだったからね」

 そう言う夏油に、私はどんな表情を返すべきか分からなくなって人生史上最も間抜けなポカン顔を披露してしまった。挙句に「というより、私が常に一緒だったからか…ごめんね、気を利かせてあげられなくて」なんてお門違いも甚だしいお詫びまで頂いてしまい、私は上手く言葉が出てこないまま彼に向けて掌を差し出し、一先ずストップを掛けた。私の様子に気付いた夏油が、首を傾ぐ。黒い髪が月明かりを受けて、つやつやと輝いた。

「違う…」
「違う?」
「チョコ…」

 何から釈明すべきか迷いすぎて語彙がインディアンみたいになってしまった。夏油は私の目を見て律儀に「チョコ?」と反芻してくれる。それが老人介護のようでなんだか可笑しくなってきて、可笑しいついでに言い訳を繕うことが急激に面倒になってしまった。軽率な女だと思われてもいいから、チョコは渡したかった。さっき思ったことがきっと私の心の底からの本音だったし、ここで変に言い訳して後で同じように後悔するのはもう嫌だ。

「違うよ、五条にじゃなくて。…これ夏油に渡すつもりだったやつだよ」
「……えっ」
「渡し損ねちゃったから食べようと思って」

 「夏油も食べる?」と言い添えてから、いろいろめちゃくちゃだなと思って笑いが込み上げる。けれど今度は、夏油が私に掌を向けて一旦ストップを掛ける番だった。彼は左手で目元を覆い、深く俯いている。

「待っ…てくれ…。…それ、本当に私宛てかい?」
「…そうだよ」

 夏油にあげるために、ほんの少しココアの配合を多くして甘さ控えめに仕上げたブラウニーだよ。粉糖まで振って可愛くしたよ。もはや開き直りの境地に至ってしまった私は、ワックスペーパーを退けて綺麗に整列したブラウニーたちを夏油に見せる。

「五条にあげるつもりなら、もっとあっまいお菓子にするし」
「……だろうね」

 夏油が笑い声交じりに言いながら顔から左手をそっと退けて、そのままその手を箱へと伸ばす。長くて太い指先が、茶色い焼き菓子をひとつ、摘まみ上げる。

「いただきます」

 律儀に私にそう告げて、彼はブラウニーをひとくちで食べた。まあまあ大きめサイズにカットしたつもりだったけれど、彼の口の方が断然大きかった。もぐもぐと咀嚼する白い頬を見ているうちに段々と私の中に冷静さが取り戻されて行き、徐々に謎の緊張感に襲われ始める。味見は、した。おいしいはず。異物混入とかも、ない、はず。たぶん。喉仏かこくんと上下するのを見届けてから、恐る恐る夏油の表情を伺う。彼は、ちょっぴり驚いていた。

「…おいしいよ、すごく」
「…なんでびっくりしてるの」
「いや、本当においしくて。残りも貰っていいかな」

 いいかなも何も、あなた宛てだって言ってるのに。どうぞ、と箱ごと差し出して、ありがとう、と受け取られていく過程のなかで、私はふと思考を止める。私、もしかしてさっき、やぶれかぶれにとんでもないことを。

「…これ、」
「ハイ」

 なんとなく確認される内容が分かってしまい、私の背筋がスッと伸びる。頬は熱いし手汗もかき始めた。恥ずかしい。どきどきする。逃げ出してしまいたい。だけど私の顔を覗き込んで、ふっと吹き出して笑う夏油の耳も赤いから、今逃げ出してしまうのは勿体ないなと思い直した。

「本命だと思ってもいい?」
「…どうぞ」

 嬉しいな、と夏油が小さく呟いて、彼の手元でワックスペーパーがくしゃくしゃ笑った。

誰よりも浮かれてしまえ

(やぶれかぶれはお互い様)
2021.09.04