傑の几帳面に結われたお団子から、ぴょんぴょんと毛が何本か飛び出している。
 いつもきっちりしているのに珍しいなあと、私は隣でその毛が空調に遊ばれてふよふよ遊ぶ様を目で追った。アホ毛が出ている当人はといえば、悟が「あとは任せた」とやたら凛々しい顔で押し付けていった始末書をなんとか書き終え、心ここにあらずという様子でその文面を読み直している。傑の疲労度は、そのお団子に反映されるらしい。そう思うと面白くて、ふ、と笑いが口の端から漏れてしまった。傑は目ざとく――否、耳ざとくその音に気が付いて、書面から視線を上げる。そのまま無言で私に説明を乞うので、私は自分の後頭部あたりをちょいと指差してお団子を示した。

「お団子、ほつれてる」

 傑はローテーブルに一度始末書を置くと右手で自分の髪に触れ、「本当だ」と呟く。私もまた見飽きた報告書をテーブルに置き、息抜きに雑談でも始めようとへらへら笑う。悟が傑に始末書を押し付けたとき、私は彼のように上手く逃げることが出来なかった。首根っこをがっしと掴まれ、「君は逃げないよね」と大変重く強く怖い圧を頂き、ぶるぶる震えながら頷いたことで今に至る。まさか傑の部屋で始末書及び報告書の添削をすることになるとは思いもしなかったが、まあ、教室と同じくらい静かだし座布団に座ってくつろげるし。作業環境としては大変快適だった。

「疲れたね」
「………さすがに、少しね」

 少し、な訳がない。今の回答にだって国際中継のようなラグが発生していた。事実、彼は髪を結い直す気力もないらしく、お団子に触れていた手を目元に遣ると眉間のあたりを揉み始めた。朝五時から近郊での任務を二件こなし、帰ってすぐに報告書と始末書。私ならば一度、仮眠ぐらい挟んでいるところだ。

「ちょっと休もうよ」
「いや…こういうのはさっさと終わらせてしまうに限るよ…」

 傑の手が、また始末書へと伸びた。マジメなところには痛く感心するけれど、今休憩を取りたいのはどちらかというと私の方である。なんとか気を反らしたくて、私は思い付きを軽やかに声に乗せた。

「髪、私が結い直そっか?」

 このアイディアならば傑は始末書の続きが出来るし、私はそんな傑の髪をいじることで気晴らしができる。不意を突いて三つ編みにしてやるのもいいかもしれない。意外と似合っちゃったらどうしようかな、写メでも撮るかな。なんだかうきうきしてきた私を他所に、傑はふうと細く溜息を吐いた。呆れられた、と思ったのも束の間、顔を上げた彼の口角が思いがけずきゅっと吊り上がっていたから、私はひどく面食らった。

「…助かるよ」

 低く、笑いを孕んだ声色。それと同時にぱさりとお団子が解かれて、彼の顔や肩に黒く艶のある髪が掛かる。たったこれだけのことで見慣れた傑の姿は影も形もなく、そこには蠱惑的に微笑む恐ろしく魅力的な男のひとが現れた。知らない。こんな風に熱っぽく、私を見つめる鋭い瞳も。愉し気に弧を描く唇も。彼がこんな、息すらできないほどの艶やかさを放つなんてことも。

が結い直してくれるんだろ?」

 とどめのようにそう言って、傑が私に迫り来る。薄い唇の端から赤い舌が覗き、その毒々しさに腰がざわりと戦慄した。私と傑は、作業効率を重視して隣り合って座っている。よって今、私たちを隔てるものは何もない。傑の手がローテーブルに体重を掛ける。ぎっ、と短い音がした。すぐそこに、知らない男のひとの顔。

「え、待っ…なんか違…」

 私が思い描いていたのは、傑が作業している後ろのベッドに腰掛けて髪を結ってあげるという子守のような図だ。でも、今のこれはまるで、今から男女のあんなことやこんなことが始まりそうな…ああ、しまった墓穴を掘った。脳裏を過ぎった“あんなこと”のせいで体温がぐんぐん上昇する。私のバカ。アホ。こんな時に少コミのちょっとエッチなシーンなんか思い出すんじゃない!
 私が傑を押し返そうと無意識に掲げた右手を、二回りほど大きく無骨な左手が包む。いよいよ触れあってしまった皮膚の感触に頬が更に熱を上げるも、私の顔がどれほど赤くなろうが、傑にはどこ吹く風。相変わらず笑みを湛えたまま、握り込んだ私の右手を彼の後頭部へと導いた。

「言い出しっぺは君なんだから。自分の発言には責任を持たないと」

 それは、つまり。髪を結えってことでしょうか。この状況で?この状態から?あなたの頭の後ろに手を回して?それがどんな距離感になるか分かってて言っ…てるな。テーブルの上に置き去りにしていた左手も掴まれ、彼の肩の向こう側へと運ばれてしまいながらそう確信した。間違いなく、動揺して恥ずかしがる私のことを面白がっている。…そっちがその気なら、照れずに結い上げてやろうじゃないか。高専生活で培った負けん気が私の乙女心をグッと押し込め、両手の指先へと力を送った。傑の髪が、さらりと私の指の間を通る。見れば見るほど、綺麗な髪。

「ほら、両手で…そう。ちゃんと纏めて」

 言われるがままに髪を纏め、そうだ前髪もきっちり上げなきゃと彼の額に意識をやったのが大変まずかった。いや。近い。顔が。傑の頭を抱き寄せてるみたいに、なってしまっている。傑の瞼が、まばたきをひとつ。蛍光灯に透ける瞳の色が、一層その表情を捕食者めいたものへと彩る。

「…何か、期待してないかい?」
「し、て…ない…!!」

 咄嗟の返答は不恰好に裏返った。傑が息をこぼしてふふっと笑う。生温い息が、私の顎のあたりに触れる。もうこれはほとんど、キスと同義ではないか。

「私はしたのに、期待」

 近すぎて、そんなふうに嘯く唇の気配を肌で感じてしまう。きっとそれは柔らかい。私がもし今、ちょっとでも身を屈めたら。何かの弾みで、傑が身体を前に出したら。きっと、間違いなく私たちは。

「…まだ結えない?」
「こ…降参です…結べません…っていうか、普通に後ろ向いてくれたら」

 このままではいろいろと、冗談では済まされなくなってしまう。私は背筋を撫でた臆病風に素直になって、彼の髪をぱらぱらと開放しながら無駄口を叩き、身体をのけ反らせるようにして傑から離した。つもりだった。傑の影が私に覆いかぶさる。真っ暗になった視界のなかで、唇に灯る生々しい柔らかさ。頬に触れる冷たさは、彼の髪の筈で。

「…後ろ向いてくれたら、なに?」

 唇の先が触れあったまま、傑は白々しくそう言った。

あまい思惑からませた

(ほら、そのまま、にげないで)
2021.08.14
※フォロワさんの一枚絵からお話を書く企画より。込さんありがとうございました!