教室の扉を開けた先で見慣れぬ白が煌めいて、夏油傑は切れ長の目を僅かばかり見開いた。カーテンとも雲とも、もちろん最強の片割れの頭髪とも違う、透明感のある白色。それを纏うは夏油の存在に気が付くと、陽光のなかでにこにこと笑った。不思議と清涼感のあるそれは、夏油に季節の移ろいを思い出させる。ああ、夏が、こんな手の届くところまで。

「おはよう、夏油。午前中は任務だったんだっけ」
「ああ、おはよう。そうだよ」

 まるでロボットのように応えてしまってから「任務だったよ」なんて意味のない一言を足して間をもたせようと努めてみる。彼女は夏油の後ろをちょいと覗き込み、そこに長身の男がいないことを見留めると首を傾いだ。窓から薫風が吹き込む。普段の彼女とは違う、真白いブラウスの襟がふわりと持ち上がって、無防備な鎖骨が露わになる。

「五条は? 夜蛾先生のところ?」
「うん。ちょっと無茶して怒られてる」
「“私は止めたのに”?」

 もう片方の最強が大目玉を食らっている時に高確率で夏油傑が口にする常套句を真似て、は夏油の表情を伺うようにしながら悪戯に笑う。よく見る筈のそんな表情も、トップスの色が黒から白に変わるだけで随分と印象が変わるものだなと夏油は感心した。感心でもしていなければ、胸に襲い来るこの感情を、表に出さず押し殺すことが難しくなりそうだった。

「……それ、分かってて訊く?」

 一瞬、普段の自分がどのような言葉づかいで彼女の軽口を打ち返していたか忘れてしまった。少しの間のあとにそう言って苦笑いを浮かべれば、彼女もまた少し笑って「いつものことだけど一応ね」と応えてくれる。良かった。合っていた。滲みそうになった安堵を深めた苦笑いの中に融かして隠し、夏油は漸く自分の席へと足を運び始める。彼女は机に頬杖を突いて、それをぼんやりと見守っている。

「……なんでちょっとぎこちないの?」

 ガタンッ。動揺のせいで、引いた椅子が若干跳ねた。

「あ、やっぱり。なんか後ろめたいことでもある?」

 私の馬鹿め。夏油は顔を俯け、思案顔を隠す。静かな教室に鳴り響いたその音は彼女に確信を抱かせるには十分すぎて、彼女が放ってきた疑問をどのように誤魔化すべきか考えなくてはならなくなった。後ろめたいことなんて。いや、後ろめたいことしかない。白く薄い生地に走る皴がありありと浮かび上がらせている上半身のしなやかなラインや、開いた襟から覗く普段は見えない部分の肌色。そして日差しの具合で微かに透けるキャミソールの黒色がいやに扇情的で、直視すら叶わないなんてこと。口が裂けても言える訳がない。

「それは……」
「はよー。あれ、オマエなんで今日シャツ?」

 言い淀んでいる間に気の抜けた声が割り込んできて、夏油が今まで訊けなかったそれをあっさりと尋ねた。彼――五条悟の不躾なところには既に色々と諦めがついて受け入れ始めている段階だったが、これにはついつい少しばかりムッとしてしまう。しかも教室に入ってくるなりスタスタと彼女の席の前まで行き、ブラウスの襟をちょいと摘まむなんて愚行すらこなすので夏油は思わず座りかけていた身体を持ち上げた。ガタン。椅子が再び地団太を踏む。

「お昼に味噌汁かぶっちゃって……」
「なるほどね。白シャツいいじゃん、エロくて」

 この男はオブラートを持たない。無論その発言が彼女に快く受け入れられる筈もなく、五条の手は彼女に勢いよく振り払われた。五条にはそれすら愉快なのか、大きな口が軽やかな笑い声を発する。それから夏油は、その丸いサングラスのふちから青い瞳がこちらへと照準を定めたことに気が付いた。厭な予感しかしない。

「……ま、俺みたいに直接言ってくるヤツの方がゼンリョーだと思うけど? どこでオカズにされてっか分かんねーよ。なあ、傑」

 私に振るな。まるで私が彼女をオカズに……否、心当たりがない訳ではないのでその点についてのコメントは差し控えるとして。夏油は眉間に皴を寄せると、自身の制服のボタンに指を掛けた。これは任務後に着替えた二着目だから、匂いやら汗やらの心配はない筈だ。袖を抜くときの翻りで柔軟剤の香りを確認し、よし、と心の中で頷くと彼女の席まで歩み寄り、それを彼女の華奢な肩にふんわりと被せた。夏油には丈が短めのそれも、彼女の背に掛かるとその上半身をすっぽりと覆い隠してしまう。少し不恰好かもしれないが、五条の目から彼女を隠せるならばこの際なんでもいい。

「私の上着で悪いけど、良ければ着てて。悟にオカズにされるのは君も厭だろう?」
「ハーァ?」

 売り言葉を即座に買った五条を軽く睨むついでに、彼女の両肩を上着越しにぽんと叩いた。びくんとその箇所が跳ねる。予想だにしていなかったリアクションに面食らって、夏油は咄嗟に彼女の表情を伺った。初夏の陽に照らされた、熟れたトマトのような、見事な赤色。

「……あ、いや、ちょっとびっくり……した」

 たどたどしい物言いに、つられてこちらまで赤くなる。その様を俯瞰していた五条が口笛を吹いて「春だなオイ」だとか零すので、夏油は浮かれる気持ちもそのままに「いいや、夏だよ」なんて我ながら偏差値の低いツッコミをかます羽目になってしまった。

季節の裾は白くてやわい

(ついでに細くて、今にも折れそう)
2021.08.08