夏油傑は、とても真面目だ。必要な申請はきちんと行い、報告書も必ず丁寧に書いて提出し、目上のひとにはきちんと敬語を使える優等生である。

 その認識を急ぎ改める必要があるなと、私は私に覆いかぶさるその男の顔を呆然と見つめながら思った。ほどいた髪の先から雫が落ちて、私の鎖骨の辺りに落ちる。傑の瞳がそれを追い、こくり、と喉仏を動かしたのが分かった。雨に濡らされた服の冷たさとも、それに体温を奪われる寒さとも違うぞわりとした感覚が脊椎に沿って背筋を駆け上がる。たぶんそれは、恐怖、に一番近かった。傑の顔が私の首筋に埋まり、地肌に感じる吐息の温度に心臓が跳ね上がる。

「まっ…!て!まって、傑!」
「………」

 必死に訴えるも傑は息を漏らしてフッと笑うだけで何も言わず、その唇を私の耳のすぐ下あたりにくっつけた。柔らかい感触が裂け、ぬるりと粘度を纏った熱が首筋をなぞり下りる。たまらず「ひゃあ!」なんて色気もへったくれもない悲鳴を上げた私に、傑が遂にくっくっと声をこぼす。顔を上げた彼は、大変楽しそうに笑っていた。

、もう少し緊張感を持ってくれよ。集中できないだろ」
「いや…集中されると…困るので…」

 集中とは即ち、このままこの先へ進むことを表している。そもそも私と傑は別に恋人同士ではない。ただのクラスメイトで同僚で、今日だって任務先で運悪く土砂降りに遭い、風邪を引いてはいけないからと傑の手配するままにビジネスホテルの一室に逃げ込んできただけだ。補助監督さんは河川沿いの道路で通行止めに遭っているらしく、合流できる目途は立っていない。
 濡れたシャツ越しに熱い掌の感触を覚え、慌てて意識を現実に引き戻した。もぞり。シャツの下に、手が潜り込もうとしている。

「わっ…手…入っ…」
「うん。直接触ろうとしてるからね」

 傑はことも無さげに応答し、躊躇なくシャツの内側に手を差し入れた。冷たい布と私のウエストとの間に現れたその素肌は異常なほどに熱く、どこかぼんやりしていた私は“素肌を触られている”という生々しい現実を真正面からぶつけられて瞠目した。別の生き物の、別の意思を持った熱が、私の肌の上を滑り始める。

「ちょ、っと本当に待って傑」

 私の呼び声に反応して傑が視線を上げる。

「……本気?」

 そう尋ねる今の私はたぶん、とても不安げな顔をしている。傑がシャツの内側から右手を引き抜き、それで私の頬に触れた。脇腹で感じた時は確かに熱かったのに、労わるように輪郭を包む掌は暖かい。親指が感触を確かめるように、私の唇をふにりと押す。

「本気だよ」

 唇は笑っているのに、目が笑っていない。任務前に私を笑顔で励ましたり、ミスを優しく庇ってくれたりする、あの傑はどこにもいない。この人がいま真剣に私に触れたいと思っているのだと自覚したら、今更心拍が逸り始めた。頬が熱い。なぜか説得すればどうにかなると思い込んでいたけれど、これはどうやら逃れようがない。傑がまたふっと笑って、掌を私の腹のほうへと戻す。

「据え膳食わぬはなんとやら、って言うだろ」
「……そんなに私、美味しいタイプの据え膳じゃないけど」

 状況に耐え切れず、唇が勝手に喋り出す。傑の端正に整った顔が普段ではありえないほどの距離まで近づいて、鼻の側面が触れあったとき、ああキスとはこうして行われるのか、なんて他人事のように思ってしまった。男の人らしい、薄い唇。あれが私に口付けを落とす日が来ようとは、一ミリも思っていなかった。柔らかく重なった唇が僅かに離れ、傑の瞳がほぼゼロ距離で私の目を見つめる。

「…私にとってはご馳走だから」

 これまで飄々と本気だよだのなんだのと言っていた癖に、その言葉だけは少し神妙な響きを纏っていた。傑にとっての私は、特別だったのだろうか。雨に濡れた姿を見て思わず襲い掛かってしまうほど、彼は日ごろから私に触れたくてしょうがなかったのだろうか。

「それに、ほら」

 傑が言い、腰をぐっと動かした。太ももの内側に、服越しでも分かるほど明らかな硬度を持ったソレの感触が押し付けられる。

「え、…っぎゃ!!」

 今日何度目か分からない悲鳴が飛び出た。顔の熱が更に上がる。いや、あの、そんな、そんなにも元気になってるとは、まさか。傑は私の表情を見下ろして、喉の奥を鳴らすようにして笑った。

「もう治まる感じじゃないから」

 確かに治まる感じじゃなさそうだった。私にソレが生えてたことがないので分からないけど。しかしソレを治める手段と言えばもうこの行為の延長線上にあるものしか思いつかず、どんどん現実味を帯びてきたその行為に目を白黒させる私を放置して傑の掌は私の体温を手繰り始めるから、この男はあまりにも非情だと思った。

「…ひ、ひとでなし…」

 せめてもの抵抗に悪態を吐く。私の手首を拘束していた左手が離れていったので、私は両手で傑の肩を押し返してみた。筋肉の壁を相手にしてるみたいで、ぴくりとも動かない。濡れた髪が私の腕に触れ、その冷たさにびくりと震えたら、傑の目がつっと一層鋭い形になった。何かのスイッチが入ってしまったらしい。何を言っても、もう駄目だろうな。私は諦めて、傑の手に促されるがまま、両手を彼の背へと回した。あったかい。もう逆に寒さのせいにして流されてしまおうと、するする上がってくる掌の温度に羞恥心を押し殺しながら、私は目を閉じた。初めてが傑なら、まあ、いいや。

雨のせいだから諦めて

(じゃあ、いただきます)
2021.04.13