シンプルな部屋に備え付けられたベッドはひとつ。何度見てもひとつ。キングだかクイーンだか素人目には区別のつかない大きなベッド。並べられた枕は二組あるのに、巨大なはんぺんみたいな掛布団が一枚だけ横たわっている。それはつまり、そういう関係の二人が一緒に寝るためのベッド、だった。
 うっかり呑んでしまった息を誤魔化そうと適当な話題を探したけれど、私に続いて部屋に入ってきた傑が同じように息を呑んだので誤魔化すのは止めにした。そうだよね。あからさますぎて、ウッワってなるよね。

 こうなったのには理由がある。今回の呪霊は被害報告の内容から術式的に傑と私の組み合わせが適切と判断されて、「傑の足引っ張んじゃねーぞ」と毒を吐く最強の片割れを置き去りに、私たちは地方へと出張にやってきた。呪霊は、無事に倒せた。あとは新幹線に乗って東京に帰るだけだとなったとき、人身事故により全線で運転を見合わせてしまった。ついでに雨まで降って来て、困り果てる私たちに夜蛾先生から「無理せず一泊して帰れ、部屋は用意した」と連絡があり、仕方ないねと笑い合いながら指定のホテルまで向かった。そこで、ダブルブッキングが発覚した。ご年配の夫婦に私と傑は快く二部屋のうちの一部屋を譲り、その代わりにとご夫婦から大きいほうの部屋を譲り受けることとなった。その結果が、これである。このダブルベッドにはあのご夫婦が寝るべきだった。絶対に。

「…私はソファで寝るよ」

 言い出すと思った。少女漫画で何度となく履修した光景に、そのシーンで必ず男性側が口にする常套句。まさか現実で、しかも片想い相手のくちから出てくる現場に居合わせることになるとは。窓際に置かれたソファはどう見ても二人掛けで、傑を三つ折りにしても収まるかは怪しい。四つ折りなら絶対に収まるだろうが、それはもう人間ではない。

「いや、私がソファで寝るよ…傑のほうが身体おっきいんだから、絶対ベッドで寝るべき」

 私ならば軽く膝を折り畳めば収まるだろうし、最悪ひじかけに脚を上げてしまえば問題ない。けれど傑は、ウンとは言ってくれなかった。眉間に皴を作り、緩く握った手を口元へと当てて考え込むような仕草をしている。

「いいや、女の子があんなところで寝るべきじゃないよ」

 うーん、真面目だ。これが悟だったならオッケーの一言で私のソファ就寝が決まるだろうに、傑は私をきちんと“女の子”として扱ってくれるから。そんなところに私は恋をした訳なんだけども、こういった局面では少々困ってしまう。だって、あんな狭いところで傑が寝れる訳ないし。彼は東京に戻っても悟との任務が入ってたはずだから、きちんと休息を摂って貰いたい。

「でも傑、明日も夜に任務あるでしょ」
「それとこれとは話が違うだろ。君が風邪でも引いたらどうするんだ…私の方が頑丈なんだから、そこは信用してくれていい」

 話が違わないし、信用もクソもない。私はただ、傑にベッドを使って眠って欲しいだけなのに。命がけの任務に寝不足で出かけて怪我なんかしたらどうする気なのか。それに、ここで傑に風邪なんか引かせたりしたら白い相棒に確実にネチネチ言われる。嫌だ。こうなったらジョーカーを出すしかない。少女漫画のこういうシーンで必ず一度は上がる台詞。これもまさか、自分で言う日が来ようとは。

「じゃあ……一緒に寝ますか?」

 それを聞くと言うとでは緊張感がまるで違い、なぜか敬語になってしまった。敬語になったせいで余計に変な距離感というか、空気感が生まれてしまい背中に冷や汗が浮く。傑はベッドの方を見下ろしてちょっと考えたあと、急に現実に帰ってきたみたいにバッと勢いよく私に顔を向けた。顔が赤い。目がまるい。瞳孔が縮んでいて、彼は見るからに動揺している。

「……えっ?」

 裏返った声で訊き返された。聞こえなかった訳ないのに、あんな恥ずかしいことをもう一回言わせるのか。恥じらいがほんのりと苛立ちに塗り替わり、私は肩をいからせる。

「一緒に、寝ますか。同じベッドで」

 一音一音をしっかりはっきりと発音してみせた。本来ならば一番合理的な筈の折衷案なのに、二人がなぜこれを提案もせずそれとなく遠ざけて来たのか。二人が、年頃の男女であるからに他ならない。しかも相手は傑だ。夏油傑だ。好きな、ひとだ。たまに共有スペースで見かける、結い上げた髪を下ろしたあの姿を私は同じベッドのなかで…、あれ?まって?無理じゃない?意識すればするほど、とんでもないことを言っちゃったのでは…なんて自覚に顔の熱を上げる私の眼前で、傑の顔もまた真っ赤に染まっていく。大きな口が何かを言いかけて開いて、閉じて、また開いた。

「な…っ、んで君は…そういうことを言うんだ…」

 傑にしては珍しく言葉が散り散りだ。すごく狼狽えているらしい。シャープな顎を少し引いて俯きながら、掌で目元を軽く覆っている。彼の薄い唇から溜息がもれた。この角度になると、彼の耳のふちまでもが鮮やかな赤色に染まっているのが分かる。

「…私だって、普通にオトコなんだから…そういうのは本当に困るよ。…困る」

 独り言みたいに、傑が言う。普通にオトコ。それは、そうだ。私よりも身長が高くて、身体が分厚くてがっしりしてて、腕が長くて脚も長くて、唇が薄い。そんな彼の身体に抱かれる自分を、一瞬でも想像してしまったのが運の尽きだった。ボッと耳の奥で鳴ったのは血管が爆発する音か、心臓の破裂する音か。

「そ、…そうだよね…ごめんね…」

 何に詫びているか自分でも分からないけれど謝るほかになかった。この部屋で、この空気で、明日まで傑と一緒に過ごすの私?寝床がどこになったとしても、もはや眠れる気がしない。だったら風呂場で冷たいシャワーを浴び続けていた方がマシなような気さえしてきた。

「君が…いいなら」

 傑が、ゆっくりと喋り始めた。今度は私がひっくり返った「えっ?」をこぼす番だった。赤く染まる顔の中で、ヤケクソと言わんばかりに傑の眉が吊り上がる。三白眼が爛々として、私の見たことのない色を湛えている。

がいいなら、いいよ」

 一音ずつはっきりと発音されてしまって、聞こえませんでしたは通用しなくなった。言ってみたかっただけだよ。冗談だから気にしないで。この夜を乗り越えるために選び取れる言葉たちは沢山ある筈なのに、私はそのどれもを足蹴にして、しっかりと一度。頷いてしまった。

「…お風呂、先にどうぞ」

 傑がぽつりと言って、髪をほどきながら私に背を向ける。黒い髪が艶めいて、さらさら揺れながら彼の広い肩にかかった。制服姿の傑が髪下ろしてるの、初めて見る。私は勝手に、ここから先の私たちは“出張に来た呪術師”ではなく“同室で寝ることになった同級生”になるのだと思い知らされた気になって、慌てて踵を返すとコンビニで買ったお泊りセットを攫って浴室へと駆けこんだ。

 これも、気づいてはいけないと思って口に出さずに遠回りさせたひとつの憶測なのだけれど。あの反応。顔の色。そして、いいよ、というまさかの許容。これは多分。私の期待値を除外しても。

私たちの知らない夜がくる

(私たちは多分)
(両想いだ、これは)

2021.04.10