息づく薄い唇に、黒く長い髪が掛かっている。くすぐったくないのかなと寝ぼけた頭で心配してから、眼前の光景に違和感を覚えて思考を止めた。待って、タンマ。よくよく見ればベッドのシーツは私の部屋の物ではないし、そこから香るのも嗅ぎなれた柔軟剤の匂いではないし、夏油傑が隣で眠っている。…夏油傑が、隣で眠っている?

 その存在を認識した途端に私を包む温もりが毛布だけではないことにまで気付いてしまい、私はほぼ無意識に彼から距離を取ろうと身体を背面側へとずり下げた。ぴくり。私の首の下で、枕だと思い込んでいた何かが動く。お願いだから起きないでという切実な願いも空しく、私の視線の先で白い瞼が僅かに震えた。錆びついたシャッターを無理やり開けるみたいに薄らとそれが持ち上がって、飴色の瞳が半分だけその姿を覗かせる。

「……落ちるよ」

 起き抜けの掠れた声が、私に小さく警告を発した。確かに、ベッドの端は私のすぐ後ろにあるようで寝返りでも打とうものなら落下してしまいそうだ。頭の下に敷いている温もりが軽く盛り上がり、これが傑の左腕であることを知る。肘が曲がり、掌が降って来て、私の頭を緩やかに包んだ。

「そこ…しびれる…」

 傑はまだ半分夢の中にいるようで、むにゃむにゃしながらうわ言のように言った。しびれる?何のことやらと一瞬思ってから、すぐに腕のことだと気が付いた。少し下がったせいで、彼の二の腕辺りを頭で圧迫する形になってしまったらしい。すぐに退こうと頭を浮かせてから、冷静な私が唐突に顔を出す。…退くって、どこに?

「すぐる、あの」
「肩」
「……かた?」
「肩なら、しびれないから」

 ぎりぎり判別可能なくらいの滑舌で傑が答える。さっきより幾らか覚醒しかかっているようだけれど、やっぱりちょっと寝ぼけているみたいだ。というかそもそも、私はどこに寝直したらいい?じゃなくて、なぜこんなことに?を訊きたくて声を掛けたのに。改めて質問を投げかけようとしたら、傑の腕が私の頭をぐるりと抱き込む。そのまま腕が持ち上がり、傾斜を滑るようにして私はあっという間に傑の肩口にまで誘い込まれてしまった。頬に感じる傑のTシャツから、生々しいまでの体温が伝わってくる。近づきすぎて今の視界では傑の口許しか見えない。はあ、と緩やかな呼吸が私の前髪を揺らした。…あれ、ちょっと傑、寝ようとしてない?

「待って、傑。寝ないで」
「…、今日休日だよ…」
「知ってるけどそうじゃなくて」

 やはり、困惑顔のクラスメイトが隣で添い寝しているというのに気にせず寝直そうとしていたらしい。神経が図太すぎる。しかもその長い両腕で私の身体をもぞもぞ抱き寄せたりするものだから、私たちの関係っていったいなんだったかなと疑問に思ってしまう。昨夜のうちに恋人になったりしたっけ。そんな筈はない。昨夜はお世話になってる補助監督さんと、仕事終わりにご飯に出かけて。学生の私が連れていかれるにしてはやけに綺麗なところだったから緊張して――あれ?

 それまで鮮やかに昨日の記憶を映写していた筈のフィルムが、そこで突如として暗転する。ハサミでも入ったかのようにぷっつりと断絶していて、それから先のことが何ひとつとして思い出せない。

「あの男、呪言師の家系だったらしいよ」

 まだ掠れたままの声で、眠たげに傑が言う。

「…その様子なら、術は残ってないね」

 暖かい声色に、安堵が滲んでいる。不自然に途切れた記憶とその言い回しで、昨夜の私に何が起きたのかはなんとなく察することができた。あの男――私を担当することの多かった補助監督さんは、言われてみれば馴れ馴れしいところのあるひとだった。そんな彼は微塵の疑いもなくついてきた私に、何かしらの呪言を掛けて悪戯でもしようとしたのだろう。何にせよ私に昨晩の記憶がなく、こうして傑の隣で無事に眠っているということは彼の企みが失敗に終わったということになる。

「ありがとう」

 私を救い出してくれただろう目の前の男に、素直な礼を述べた。少しだけ乾燥した唇が、ゆったりと弧を描く。

「…こちらこそ」


 * * * * *


 に何をしたのか。これ以上ないほどの殺気を込めて問えば、男は大人しく白状した。「自白剤を飲ませ、今夜中の記憶が消えるように呪言を施した」…成程。彼女を今夜好き放題するだけして、都合の悪い記憶は全て忘れ去らせようという魂胆か。反吐が出るほど合理的だ。私が学生で、呪術師でさえなければこの男を殺してしまっていたかもしれない。本部に引き渡すために殺さない程度に意識だけ奪い、芋虫に似た呪霊を呼び出してはその背に乗せる。

 さて。まんまと自白剤を飲まされ、術式を施された上にホテルにまで連れ込まれてしまったクラスメイトを叱りつけようと、の方を振り返る。やけに大きなベッドに腰掛けた彼女は、私と視線が合った瞬間にその瞳を大きく見開いた。まるで、私がそちらを向くことを待ち望んでいたかのように。

「傑が、すき」

 幼子のような純真さだった。ただの自白剤ならばこうはならない。あの男、彼女の無意識下に働きかけるような呪言も掛けていたのか。尋問のし甲斐がある男だなと思うも、それが現実逃避に他ならないと自覚しては目の前の彼女へと意識を向け直す。
 好きだと言った。自白剤で嘘をつくことの出来なくなったが、私のことを。

「………そうなんだね」

 本当は、嬉しかった。けれど彼女がいま得体の知れない薬と術式の影響下にあるという事実が、私の感情にブレーキを掛ける。喜んでいる場合でも、浮かれている場合でもない。を一刻も早く連れ帰り、その道に詳しい医療担当者に診せなくてはならない。

「さあ、帰ろう」

 歩み寄り、手を伸べる。彼女は跳ねるように立ち上がると、私の手を取らずにその両腕を私の首の後ろへと回した。心臓が大きく蠢く。爪先立ちになってしまったに合わせて自然と身を屈めながら、どうしたものかと視線を伏した。彼女の髪からは、甘い香りがする。

「怖かった…。お願い、ひとりにしないで」

 いつも心配になるほど“大丈夫”と強がる彼女の声が震え、弱り、私に縋っている。切なさとも恋しさともつかない、言いようもない感情で胸が切迫する。肺胞のひとつひとつにまで春の陽気に似た期待感が満ち溢れ、漏らした溜息には甘ささえ感じるほどだった。

「すき。すきだよ、傑」

 挙句に、私の首筋に顔を摺り寄せながらそんなことまで言うものだから。彼女の薄い背へとついつい両腕を回してしまうのも不可抗力というものだ。不可抗力に違いない。…これは、不可抗力だ。

「明日には忘れてしまう癖に。ずるいな」

 今の彼女が私の言葉を正しく判別できているのかは分からない。けれど私の首筋あたりで短く呻いたのが聴こえたから、彼女は意外と正気に近いのかもしれなかった。この状況に乗じて、言いたいだけの本音を吐露しているのかもしれない。甘やかすぎる妄想が、決して言うまいとしていた私の本心の奥底をどろどろに溶かして真水ほどの緩さにしてしまった。それは容易に口腔を逆流し、唇の端からこぼれ出る。

「私も好きだよ。…好きだ。好きなんだ、ずっと。…愛しているよ」

 それは、いつ死ぬか分からないこの仕事で。お互いに悔いを残さないために、永遠に言うまいと誓っていた呪いの言葉だった。遂に言ってしまった。若干の後悔と共に、更なる妄想が脳裏を過ぎる。彼女もまた、私と同じ想いでその言葉を言うまいとし続けていたのだとしたら。

「私も、あいして、」

 私の言葉を復唱しようとした唇に、自分の唇を重ねてその続きを奪い去る。本当にずるいな。私はこの柔らかさを、甘やかさを、そして覚えてしまった期待と喜びを。お前のように、今夜中で棄て去ることなんてできないのに。

「…これも勿論、忘れてくれるね?」

 覗き込んだ瞳は潤んでいる。は頬に穏やかな紅色を乗せながら、こくんと確かに頷いた。だから私は、今一度彼女に唇を寄せる。大人しく目を閉じた彼女の睫毛を視線でなぞっていたら、僅かに残った理性の部分がよく知る親友の声で語りかけてきた。オマエさあ、忘れてくれるからって好き勝手してんなよ。やってることあの男と変わんねえじゃん。

 分かってるよ。私は目を閉じ、彼の声に応える。でもね、言い訳するようで悪いんだけれど。私だってのことが好きなんだ。それはもう、今この瞬間に泣き出してしまいたいくらいには。

目が醒めたら微笑んで

(それ以上は要らない。…なんて、嘘)
2021.01.06