それはいわゆる事故チューというやつだった。

 じこちゅうと言っても自己中心的の略称ではない。確かに眼前で双眸を丸めるこの青い瞳の男は自己中心的ではあるが、今回のこれは事故で起きたチュー…即ち本意でないキスのことである。姿を眩ませるタイプの呪霊を追って勢いよく突っ込んだ私たちは空中で縺れ合ってしまい、その最中で唇同士を触れ合わせてしまった。そうは言っても衝突は一瞬であったし、唇の感触を反芻している場合でもなければ照れている場合でもない。私たちは傑の使役する呪霊に背を護られながら、すぐさま身体を翻してターゲットの呪霊を祓うことに成功した。敵対呪力の消失に伴い、速やかに帳が解除される。宵がほどけるように消え去って、私たちの顔を西日が照らした。私の顔の赤さもまた西日の所為であると、なんとしてでも言い張っていきたい。

「…俺ら今キスしなかった?」

 デリカシーゼロ男、五条悟は今日も絶好調のようだ。少し考える素振りをしてから、人差し指で一を示しつつ私に今日の天気でも確認するかのように平然と尋ねてきた。うん、したね。なんてあっけらかんと応えられるだけの胆力が私には無い。動揺に唇が空回り、視線を地面へと逃がしながらゆっくりと後ずさる。

「わ、…わかんないな…」
「オマエは嘘ドヘタなんだから嘘吐こうとすんなよ」

 嘘、ではない。厳密に言えば自分を守ろうとしている。大事にしてきたファーストキスをこんな場面で喪失してしまったことへのショックと、今更記憶に戻ってきたあんまりにも柔らかい唇の感触が。ただひたすらに顔だけは良いこの男の容貌に重なってしまい、羞恥のあまり四肢が爆破四散しそうになっている。ふと、私の肩をするりと何かが撫でた。それからその温度は私を追い越すように歩み出て、私と悟の間に立ち塞がる。私と同じ黒い制服を身に纏う広い背中が、まるで壁のようにそびえた。

「まあまあ。分からなかったって言うんだから、きっとズレたんじゃないか」
「ア?傑も見てただろ、完全にキスしたっつの」

 傑が私側の立場を守ろうとしてくれているのが分かり、私はご厚意に甘えて彼の陰に隠れる。悟はそこまでキスしたという事実を誇示して私をどうしたいのだろうか。五条家当主の唇を奪ってしまった責任で嫁入りでも迫られるのかな。ありえなくないのが怖いな。背中越しに、だから、と傑が語気を強めるのが分かった。空気がぴりりと緊張感で震える。

「してないって、も言ってるだろ。分からないのか」
「絶ッッ対にしたね。やわっこかったし甘かったから間違いねーよ。おい、。責任取ってやるから自供しろ」

 甘かった?そういえばさっきフルーツ系の香り付きリップを塗ったから…って、いやいや。なんでそんな感想まで述べられなきゃなんないの。高圧的な声が傑の背を乗り越えて私に直接掛けられるけれど、私は恥じらいを通り越してヘソを曲げた。無視を決め込もう。責任なんて取って頂かなくていい。こんなの、ノーカンにするだけだ。

「…ほら、帰ろう。あまり待たせるのも悪いから」

 傑がさり気なく、補佐監督さんの待つ車へと私たちの歩みを誘導する。悟がそれに促されるまま歩き出すとき、ちらりと一瞬だけ私の表情を伺った。私は多分、羞恥と不機嫌でむっすりしていたのだと思う。悟はそれに小さく舌打ちをするだけで、それ以上は何も言ってこなかった。私の背に添えられた傑の大きな掌が、とても温かくて優しかった。


* * * * *


「あ、」
「…ああ、お疲れ」

 宿泊先として高専の用意してくれた旅館はなかなかに立派なところで、大浴場は特に温泉の質、広さ、雰囲気の全てを兼ね備えたパーフェクトな空間だった。すっかり温まってほかほかになった私は部屋に戻る道すがら、談話スペースで新聞を広げる傑に遭遇した。旅館備え付けの浴衣に着替えて髪を解いているあたり、彼も入浴後のようだ。私の視線が自然と、彼の隣に銀色が存在しないことを確認する。

「悟なら今はいないよ、ちょっと外に出てくるってさ」

 傑が気遣いを帯びた苦笑いをしつつそう言うので、私は安心して彼のもとに歩み寄ることが出来た。こういう少しひなびた旅館の談話スペースは何故か革張りのソファに赤いラグ、そして黒いテレビというのがお約束だ。傑の隣に腰掛けると、思いがけず身体が沈んで驚いてしまう。このソファ、すごく柔らかい。隣で傑がくすくすと笑った。

「わかる、私も最初驚いたよ」

 その柔和な喋り方に、心から安堵する。安堵したついでに、礼を述べるなら悟のいない今しかないと思って口を開いた。これは悟の前では未来永劫、もう二度と話題にしないつもりでいる。

「傑、さっきはあの…庇ってくれてありがとう」
「…ああ、アレか」

 事故チューのことだとはすぐに分かって貰えたらしい。笑いを含んだ軽い口調で同調して貰えたことで心が少し軽くなり、私の口もそれに伴って軽くなる。

「悟もさあ、事故とはいえあんな言い方ないよね…責任なんかとってもらわなくて結構だし…」

 温泉でも流しきれなかった心のもやもやが、つらつらと言語化して舌先からこぼれ出て行く。傑は視線を新聞へと落とし直すと、ぺらりとページを捲った。埃っぽい、インクの香りが鼻をくすぐった。

「実際のところ、どうだったんだい?」

 新聞の活字を飴色の瞳で追いながら、傑が何の気なしに問いかけてくる。だから私もあまり深く考えたり鮮明に思い出したりしてしまわないようにしながら、何の気なしに白状してしまおうと思った。

「まあ…唇は、ぶつかった、けど。でもあれは事故であってさ、キスじゃないし!ファーストキスにはカウントしないことにした!」

 何に対する言い訳なのか。不必要な情報まで開示してしまった気がするけれど、言い終わってしまっては後の祭りだった。律儀にファーストキスを守っていたことについて揶揄われるかもと少し気を張ったものの、傑はうんともすんとも言わないまま新聞のページを捲る。テレビでは見たこともないローカル局のアナウンサーが、明日の天気予報を告げている。…傑さん。あの、逆に何か言って頂かないと。それはそれで恥ずかしいんですけど。

「あ。この記事…」

 傑が新聞の三面記事に顔を寄せ、眉間に皴を寄せた。その横顔があまりにシリアスだったものだから、私はその動きにつられるようにして彼の手元を覗き込む。新聞のちょうど真ん中あたり。呪霊のしわざと思しき事件でも載ってるのかと思いきや、地元水族館でペンギンの散歩パレードを始めました、という微笑ましいニュースが写真付きで書き連ねられている。あれ、傑ってこういうの好きだっけ。思わずふはっと気の抜けた笑い声を漏らしながら傑の表情を伺おうと、隣を覗き込んだ。傑も、私を覗き込んでいた。

 傑の高い鼻の先が、私の鼻筋に触れる。そのままぐっと私の顔の正面に割り込むようにして傑が身体を屈め、は、と生温い息が唇に振れたと思ったら、柔らかな湿度が私の唇を軽く挟み込むように包んだ。唇の表面を擦り付けるように少しばかり弄んで、ちゅ、と甘い音を立てて離れる。恐ろしいまでに真剣な眼差しを私に向けていた鋭い瞳が、至近距離を保ったままで私に微笑んだ。

「…これで、君のファーストキスは私だね」

 囁く声は、確かに笑っていた。ときめきというよりも恐ろしい執着の一端に唇で触れてしまった気がして、心臓が怯えるように深いところで鼓動を奔らせる。せめて素直に赤面して恥ずかしがれればいいものを。それすらできずに呆然とする私を置き去りに、傑が立ち上がる。

「卑怯だったね、ごめん。私のこと嫌いになってもいいよ」

 そう言う彼の声には、不自然なくらい起伏がない。

「…でも、今のキスは二度と忘れないで」

 新聞を畳む乾いた音と一緒に、傑はことも無さげに私をそう呪った。呪ったつもりはないのかもしれない。でも、抑揚のないキャスターの声も、インクの匂いも、柔らかすぎるソファも。この瞬間の全てが傑の香りと温度と一緒に、私の人生の最も青い箇所に刻み込まれてしまった。「おやすみ」そう告げて傑は立ち去る。私はきっともう二度と、悟との事故で感じたあの感触を思い出すことができない。

あの瞬間をゆるさないで

(君が死ぬまで、私は君の初めてだ)
2020.11.20