もう僕で良くない? などと寝言みたいなことを言うから、私は咄嗟に「良くない」とそれを撥ねつけてしまった。五条は溶けた氷でいくらか淡い色になったメロンソーダのジョッキを一度持ち上げ、少し考えてから、それに口をつけることなく卓上へと戻す。私はやきとりへと箸をつけた。五条の視線が私の動きを追っている。

「だってオマエ、僕以外の男で失敗するのそれで何人目なの?」
「五条で成功した試しもないけどね」

 塩で味付けされたぼんじりをひとつ、ぽいと口に放り込んで咀嚼しながら温いビールで流し込む。ビールは冷たいに限るけれど、夏の室温に温められたこれからは縁日のような味がするので好きだ。どこか心を浮つかせるような、足取りが軽くなるような心地になる。だからといって、五条の口車に乗って間違いを犯すほどの馬鹿にはならないが。
 五条がテーブルに頬杖を突いた。オーバル形のサングラスの上から、青い瞳がじっとりと私を見つめている。学生の頃から変わらない、本気なんだか冗談なんだか分からない顔。

「それは僕を試したことがないからでしょ。お安くしとくよ? 敷金、礼金、ついでに後腐れもなし」

 五条が飄々と語る。交際関係に敷金、礼金システムがあったら恐ろしすぎる。敷金がそっくり返ってくる交際関係なんてありえるのだろうか。少なくとも、私の経験してきた恋愛にはそんなクリーンで綺麗なものはひとつもなかった。テーブルの上で私のスマホが震える。煌々と表示された、元カレの名前。実は妻子持ちだったことが三日前に発覚して、君を選ぶから、なんてどこから目線か分からない追い縋り方をしてきた男。

「……僕ならそうやって追い縋ったりもしないし、妻子もなし」

 青い瞳が私のスマホのブルーライトを反射しながら、意地悪に笑う。この男には一杯目のビールを流し込みながら事のあらましを語ったばかりなのであった。私は三杯目のビールジョッキを空にしながら、ぶっきらぼうにスマホの通話を切る、つもりが、中指が触れて緑色の表示のほうが引っ張られてしまった。通話時間が一秒、二秒と進み始める。あ、やばい。やばいやばい。くぐもった音声が私の名前を呼んでいる。早く切らなきゃ。
 空のジョッキを携えたままでスマホに手を伸ばす。しかしそれは寸でのところで、大きな掌に攫われた。「あっ!」思わず声が出る。五条はそれを意にも介さず、スマホを自分の耳元に当てた。

「はーい、もしもーし? ……誰? 僕のこと? 誰だと思う? ……アハハ。この状況下で僕のことの家族だと思えるの流石に能天気すぎるでしょ」

 信じられない。普通に通話が開始されてしまった。席を立ってテーブルに手を突き、五条からスマホを奪おうと試みる。五条は空いた左手で簡略化した印を結んだ。私の手は見えない壁にぐにゃんと沈み、五条のところまで届かない。こんな……こんなところで無下限を使うな……!

「んー……それも違うんだよねえ。僕はオトモダチだよ。ただのオトモダチ。から失恋話を延々と聴かされるだけのね」

 唐突に言葉のトゲが電話の向こうだけでなく、こちらにも向けられる。それは、とても、昔から申し訳なく思っている。呪術高専を卒業しておきながら呪術師にならなかった私は“窓”として彼らに協力しつつ一般企業に勤める身だが、五条と硝子とはお酒を――ひとりは必ずソフトドリンクだが――定期的に交えている。そうなった時に私が大体失恋話や男の愚痴を語るので、これはもう私の十八番のようなものだった。

「……嫌なら、言ってくれれば良かったじゃん」

 私は不機嫌を隠しもせずに言い放つ。硝子は私のダメ男ホイホイっぷりにいつも呆れながらも心配してくれていたし、五条は毎回ゲラゲラ笑って「ダメ男しか引っかかんないフェロモンでも出してる?」だとか煽ってくる始末だった。私もしんどい失恋を毎回エンタメのように笑い飛ばしてもらえるのが有難くて、この席でなら、と話すようにしてたのだけど。そんな風に嫌味を言われるくらいなら、喋らなければ良かった。
 硝子が急患対応で来れなくなる、なんてことはこれが初めてではない。でも五条とサシで会うのはこれきりにしようと、私は伝票に手を伸ばした。五条が無下限を解除して、左手で私の手を伝票ごとテーブルに縫い留める。

「嫌だったに決まってるじゃん」

 五条が私の口調を真似てそう言った。

「僕以外の男に傷つけられてヘラヘラ笑ってさ、面白いでしょーって下手な作り笑いするオマエの顔を見るの、すんごいイヤだったよ」

 それは低くて落ち着いた、大人のひとっぽいトーンだった。あの頃の五条からは想像もできないような声色。しかも私をじいと見る瞳からは笑いが完全に消えていて、ひどいやつだと笑い飛ばそうとした私が怖気づいて引っ込んだ。分厚い掌が、きゅ、と明確な意思を持って私の手を握る。彼の耳元のスマホからは、男が何かを怒鳴っているのが聴こえてくる。

「……そう? 僕は少なくとも妻子持ちだってこと隠すようなクソ野郎じゃないからさ。コイツのことは僕に任せて、アンタもちゃんと自分のケツ拭きなよ」

 じゃあね。音符マークすら付きそうな明るい調子で言ってのけて、五条が通話を切った。握られていた手が急にくるんとひっくり返されて、露わになった掌の上にスマホがぽんと返却される。

「クソ野郎にケツ拭きなーだってさ。我ながら上手いこと言っちゃった。座布団何枚くれる?」

 さっきまでの真剣な面持ちやガチトーンはどこへやら。悪ガキの顔で笑う五条に、私は両肩の力を抜いて彼と同じように笑った。ふと目を落とした先の液晶で、元カレの連絡先が五条の指先によってブロック操作されている。さよなら、クソ男。下水処理されてきてください。

「さて、それじゃあどこ行こっか」

 私の手を開放して早々に伝票を取り上げ、五条が席を立った。どこ、行こっか? このあとなにか予定していただろうか。

「夜景の綺麗な公園でもいいし、どっかのホテルのラウンジでもいいよ。オススメは僕の部屋だけど、さすがにちょっと急だよね。オマエ嫌がるでしょ」

 夜景? ホテル? 僕の部屋? 何がなにやら分からない。ぽかんとする私の手を引きながら、五条は伝票を持つ手で器用に私の荷物を攫った。見上げた先の白い髪は居酒屋のオレンジ色を受けて、夏祭りの夜に食べる綿菓子を彷彿とさせた。

 訳のわからないままにお会計を終え、五条に手を繋がれたままでお店を後にする。気持ちの良い「ありがとうございましたー!」に背中を押されながら足を踏み入れた夏の夜はひどく蒸し暑くて、焼き鳥のにおいがした。歩きながら「涼しいところがいい」と口走った私に五条が快活に笑って「大胆だね」だとか言う。だから私はかぶりを振って、湿ったアスファルトを見下ろした。ネオンを弾いてピンクやオレンジ、紫色に輝いている。この時間帯の都心は地面すら騒がしい。

「えー……五条は恋人にするには性格悪いからなあ」
「でも十年くらいオマエのこと好きだよ」

 は、とは私の口から咄嗟に出た音だった。びっくりして見上げたら、五条の唇がヘの字に曲がる。ああ、それ、照れてるときにするやつだ。私の視線に気づいた五条がサングラスの端からちらりと私を見下ろして「ムカつく」などと不条理なことを言いだした。そんなことを、言われましても。

「……それで、どこで口説かれたいの? あと三秒で答えなきゃ強制的に僕の部屋になるけど」

 動揺した私はものの見事に答えそびれてしまい、彼の呼んだタクシーにぎゅうと詰め込まれる羽目になるのだった。

君がほどけた夏のよる

(ここぞとばかりに小指を絡めて)
2021.11.03