私の足元に、三角形の札がコンと音を立ててひとつ置かれる。それはよく刑事ドラマで見るような大きく数字が書かれたもので、たまにファーストフード店で渡される“この番号でお呼びしますのでお待ちください”の札に似てるなと思った。役者さんではない、本物の鑑識さんが続けてアスファルトに黒々と残るタイヤ痕へと札を立てる。そう。私はそのタイヤ痕を残した車に轢かれた。慌てて右折してきた軽トラックが、横断歩道を歩いていた私を撥ねた。身体全体に鉄の塊がぶつかって、あっ、と思ったときにはもう、私の意識はここにあった。

 私の身体は既に運ばれたあとなのだろう。赤黒く路面に残った血痕の広さを見るに、助かっていないのかもしれない。いや恐らく、きっと、助かっていない。助かっているなら多分、私の意識はこうして現場に置き去りにされていない筈だ。路面を日光が照らす。大きな陽だまりに、交通整理を行う警察官の汗がぽたりと落ちる。遠回りをさせられた車や歩行者が、何事かと現場をじろじろ眺めながら過ぎ去っていく。私はそんな彼らを現場の真ん中から申し訳ない思いで見つめていたけれど、一度たりとも目が合うことは無かった。ついさっきまであんなに嫌だった夏の陽射しが肌をじりじり焦がす感覚が、もうない。暑くも寒くもない。街路樹で喚き散らす蝉だけが、私に今が夏であることを実感させた。これが、死ぬということなのか。思っていたよりも随分と呆気なかった。

 鑑識さんたちの動きを眺めているのにも飽き始めた頃、不意に背中に視線を感じた。視線なんか感じるような存在ではなくなっている筈だが、霊という存在のなかには視線に敏感で“私が見えている”と勘違いして憑いて来てしまうものがいることも知っている。かつてそれを祓う側にいた私は、勘違いして憑いていって迷惑を掛けるような悪霊には絶対にならないぞ! なんて誰に聞かせるでもない決意を固めつつ、そちらを振り返った。夏空を思わせるクリアブルーの双眸が、こちらを見つめていた。
 街路樹の作る木陰のなかから、懐かしい面影が呆然と私を眺めている。白銀の髪は些細な風で揺れるほど柔らかく、その日本人離れした綺麗な顔立ちと見事なモデル体型に、それまで事故現場を見ていた女性たちの視線が二度見を経てその男――五条悟へと吸い込まれていくのを目撃した。わかります。二度見しちゃいますよねあんなの。私も入学式で五条を二度見して、なんだオメェオラ、だとか因縁つけられたのは良い思い出でありトラウマだ。大人になった彼は自分へと向けられる視線を全て無視して、真っ直ぐに私を注視している。だから私はつい嬉しくなって、右手を掲げて大きく振った。十年ぶりかな。彼なら確実に、私のことが視えている。
 五条が、きゅ、と端正な眉を歪めた。それから顎で、ついて来い、と言わんばかりに後方をしゃくった。私は慌てて札を蹴ってしまわないようそれらを跨ぎつつ歩道へと向かい、街路樹をすっと透過した己の肩を視認してから、そういえば避ける必要なんてなかったなと思い直す。五条の背が、適当な路地の隙間へと消える。私は走ってそれを追う。不思議と足の裏にアスファルトを蹴る感覚があるのは、今まで何十年も生きて来た記憶によるプラシーボ効果なのかもしれない。

 路地を二つ曲がったところに五条は居た。不機嫌そうに壁に背を預けるその様が、あまりにも十年前のままで。なんだか嬉しくなって笑ってしまった。五条の視線がこちらへと投げられる。あ、怒ってるな。祓われちゃうかな。

「…………それが死んだやつの態度かよ」

 たっぷりと言葉を選んだ果てに毒を吐かれて、私は更に笑った。

「あ、やっぱり私死んだの?」
「知るかよ。なんでオマエが把握してねーの」
「なんでだろ。久しぶりだね五条、元気にしてた?」
「文脈」

 心底呆れた様子で言いながら、五条がサングラスを掛け直す。レンズは相変わらず漆でも塗ってるの? ってくらい真っ黒だけど、その形は記憶にあったまんまるからオーバル形へと変化していた。

「あれ、サングラス変えたんだ」
「何年前の話してんの」
「そっちのほうが落ち着いてていいね、似合ってるよ」
「丸いほうもたまにしてるよ。つーか何、アレ似合ってないなと思ってたの?」
「どっちも似合ってるよ。めんどくさいな」
「思ってても言うなっての」
「めんどくさいな」
「残すのそっちじゃねーだろ」

 今のは良いツッコミだった。ご機嫌になった私が声を上げて笑うと、五条が眉間に集めていた皴たちをふっと解散させる。やれやれと首を横に振って、それから携帯をポケットから取り出して時間の表示を確認した。真っ青な瞳にブルーライトがちかちか瞬いて、水面のようだった。

「とりあえず、場所は移すか。ここじゃ人目につきすぎる」

 五条はまだ私に時間を割いてくれるらしい。私はパンと手を打って「いいね!」と言ってしまった。「いいねじゃねーだろ」と私の頭をぐしゃぐしゃ撫でる五条の掌は大きくて、あったかくて、思いのほか自分の身体が冷えていることを自覚する。五条がちょっとだけ目を見開いたのは、私の体温がなかったせいだろうな。そうだった、私、死んでしまったのだった。

* * * * *

 どの会社の面接でも、大体の面接官が私の出身校の名前を読み上げながら首を捻っていた。東京都立呪術高等専門学校。表向きには宗教系学校となっており、呪術師としてのアレコレを学びながら得た宗教というものへの知識をちらちらと喋れば、なるほどねと曖昧ながらも納得してもらえる。でもそうやって誤魔化しながら、本当は呪霊との戦い方を、人の救い方を沢山学んでいたんですよ、といつも心のなかで付け足していた。個性の強い同級生や先輩、後輩に恵まれて、彼らに囲まれながら私は呪術師を目指していたんです。本当に、彼らと共に呪術師になりたかったんです。
 その目標が揺らいだのは、目の前で先輩の身体が文字通り“弾け飛んだ”ときのことだった。最後の言葉も何も残さず、彼女は目の前で真っ赤な霧になった。直後に助太刀に現れた五条、夏油のお陰で私の命は助かり、そして後日彼女の葬儀にも出席した。彼女の両親と、彼女の同級生である男の先輩が目を真っ赤にして泣いていた。彼と彼女が恋人関係にあったことは、私たちの誰もが知っていることだった。人目も憚らず涙を流すその姿に思わず自分を重ね、そして五条を重ねた。でも、きっと五条はあんなふうに泣いてはくれない。出棺を渋って「もう少し」と言うことだってないだろう。縋りつくあの柩の中に彼女の遺体がないことも、分かっている筈なのに。
 私は突然、呪術師として死ぬことが怖くなった。それまでどうでも良かった『普遍』が欲しくなった。結婚して、子供を生んで、愛する人たちの涙を見ながら死にたいと、心からそう思ってしまった。

「好きにしなよ。オマエの人生だろ」

 あのとき私が言った「呪術師を辞めたい」は即ち「別れよう」と同義だったのに、五条は私の目も見ずにそう答えた。だから私は「わかった」と答えて、お言葉に甘えて好きにすることにした。学校を卒業してから一般企業に就職し、合コンなんかにも参加して、適当に彼氏を作って色んなところにデートに出掛けてみたりして。結局そうして足を運ぶどんな場所でも、五条と来たかった、と思うことがやめられなくて、どの彼氏とも長くは続かなかったけれど。

* * * * *

「ここならおあつらえ向きでしょ」

 そう言って五条が足を止めたのは、青山にある高層マンションの屋上だった。膝元には広大な墓地が広がっており、都心の輝きと喧騒は遠いところで瞬いている。ここに来るまでに五条が「どこにしよっかなー」などと言いながら原宿や表参道、六本木あたりをふらふらするので、すっかり日が暮れてしまった。なんだかんだ一緒に東京の街並みを楽しんでしまった私は不思議と脚にしんどさを――これも恐らくプラシーボだが――覚えながら、五条の隣でフェンスに寄り掛かった。五条のように、フェンスをかしゃんと鳴らすことはできなかった。

「墓地の真上で死霊と対話! ホラー映画っぽくていいね」
「霊がそんなフランクに喋るんだから、ホラーでもなんでもないよ」

 五条が笑い交じりに言いながら、サングラスを外して夜空を仰いだ。私もつられて天上を見上げる。そこには都心では信じられないほどの数の、星、星、星。私はびっくりして、咄嗟に顔を五条へと向けた。五条は私の様子を見て、にやにやと笑っていた。

「いいね。オマエ今、すっごく乙女っぽい顔してたよ」
「いやいや、乙女だよ」

 正確には、乙女だった、かもしれないが。意地悪に笑う五条をよそに、もう一度夜空を見上げる。墓地の存在とこの建物の高さのせいで、周囲の光源がここまで届いていないのだろう。だから、都心なのに星がよく見える。

「……ここで何人口説いたの」
「オマエが初めてだよ」

 五条悟という男は、歌うように嘘を吐く。

「オマエさあ……なに交通事故なんかで死んでんの。普遍的な幸せ掴んで家族に看取られながら死ぬんじゃなかったのかよ」

 だからそれもいつもの軽口のひとつだと思って、私はハハハと苦笑いした。「笑ってんなよ」と唸られてやっと、五条の様子がおかしいことに気が付く。慌てて口を閉じて、視線を恐る恐る夜空から五条へと移した。月のささやかな明かりに照らされた彼の表情からは、感情らしいものが読み取れない。

「僕がどんな思いでオマエを手放したと思ってんの」

 早口で、捲し立てるように五条が続ける。胸が切迫して、うまく息を吸うことができない。五条が、どんな思いで? そんなの知る訳ない。私はあの日、冷たく突き放された。裏切者とさえ言われたような気持ちになった。

がそうやって生きたいって言うから」

 あの日、こちらを見もしなかった五条の後頭部が。冷や水を浴びせるような物言いが、ありありと蘇ってくる。そんな風に言うくらいなら。

「……ねえ、五条、なんで、」

 なんであの日、あんなに冷たく――そこまで言ってから、ひとつの憶測が脳裏を掠める。五条が私をああやって突き放してくれたから、私は迷わず呪術師という道を諦めることができたのではないか。まさか。あの五条が、私のためにわざと冷たい態度を取ってくれたのか。
 五条は昔から、粗暴で性格が悪かった。他人の感情を顧みず、己の思うがままに進むひとだった。でも、本当にすごく、優しい人だった。私はそんな五条が好きだった。そんな答え合わせを、今更しないでほしかった。すべてが遅い。遅すぎる。私にはもう、君の髪を揺らす夜風の温度すら分からないのに。視界が滲んで、鼻の奥がツンとした。遠くのネオンライトが歪んで、夜空と五条の境目が曖昧になって。

 ぼたり。先に雫を落としたのは、五条の瞳の方だった。

「……五条?」

 眼前の異常事態に驚愕するあまり、私の方の涙がひゅっと引っ込んだ。五条は「ア?」などと不機嫌そうな声を出すが、相変わらず青空みたいな瞳からはボロボロと大粒の涙が零れ続けている。うそだ。信じられない。あの五条が泣いている。

「え……? 泣いて……?」
「泣いてねーよオマエの目は節穴かよ」
「…………えっ? あ、あー……うん、そっか……」

 本人が泣いてないと言い張るので、それは涙ではないらしい。どう見ても涙だが。仕方なく私は納得してみせながら、地面へと吸い込まれていくその水分を見送ることにした。今の私には、それを拭ってあげることもできやしない。五条はといえば、サングラスを掛け直してそっぽをむいた。それで誤魔化せているつもりなのだろうか。

「……なんでもクソもないでしょ」

 あの頃に比べて随分と柔らかくなった言い方で五条が呟き、自分の両手を見下ろした。

「だって、手放すのも『あい』の一つだって思ったんだ」

 まるで、且つてそこにあった『あい』の形を確かめるような、そんな言い方だった。手放したせいでもうそこには存在していない、それ。私はそれを『あい』だと理解しないまま生きていた。五条の瞳からは相変わらず星屑みたいな涙が流れている。その涙が且つて私を手放したことへの後悔と、愚かなことにうっかり命を手放した私へと向けられていることを、私は知っている。ああ、そうだ。あの五条が私のために泣いているのだ。なんで。あのころ喉から手が出るほど欲しかったものが、今になって。

「なんで、いまなの」

 私はどうして死んでしまったの。どうして死んでしまってから五条は会いに来たの。どうして。どうして。……どうして。想いの洪水が堰を切ったように瞳から流れ出し、世界と夜空と五条がぜんぶ視界の中で混じり合ってしまった。そしたら五条が私をその両腕で包んで閉じ込めるから、あまりの暖かさに涙がもっと止まらなくなってしまった。ずび。五条が鼻を啜る。ほら、やっぱり泣いてるじゃん。

「……私たち、次こそ間違えないようにしたいね」

 来世があるかは分からないけれど。でも五条が私の頭のてっぺんに唇をつけて、直接注ぐみたいに「来世まであいしててあげるよ」と高圧的なことを言うので、私は再び笑ってしまった。私は死んでからの方がたくさん笑っている気がする。

 五条の体温で溶ける氷みたいに、自分の体積が縮むのが分かった。あったかい。ねむたい。きもちいい。ねえ、五条、私もあいしてるよ。

* * * * *

 断続的な電子音が目覚ましの音に聞こえて、ちょっと不快な気持ちになりながら瞼を持ち上げ……うわ、瞼、すごく重い。それでもなんとか無理矢理持ち上げると、そこには真っ白な世界が広がっていた。天国かな。そう思った私の視界に、びっくりした顔の看護師さんが映り込む。

「あ! うそ! 意識! さんの意識戻りました! 先生!!」

 思わずうそ!だなんて声を上げるくらいだから、私は相当目を覚ましそうにない状態にあったらしい。でも一応、四肢に感覚は、ある。ベッドシーツは生温くて、さらさらしている。……ああ、大変だ。私。生きてる。
 別の看護師さんがぱたぱた走っていく音を聞きながら、びっくりしたままの看護師さんが私の手を握った。

「分かりますか!? さん、今先生呼んできますからね! あと、ご家族にも連絡を」

 私は看護師さんの手を、やんわりと握り返した。肺が、ちょっと痛い。上手く喋れるか分からない。でも、お願いします。家族以外にももう一人、私の生存を連絡して欲しい人がいるんです。どうしても。

あまりにきれいな星の死骸

(さあ、きせきみたいな恋をしよう)
2021.11.03
※フォロワさんの一枚絵からお話を書く企画より。夜船さんありがとうございました!