メールの誤送信は、たまにある。補助監督さんに送る筈だった到着時間の報告を夏油に送ってしまって「そうか、頑張って」と返信を貰い新幹線の中でひとり笑ってしまったり、母に送る筈だった元気でやってるよメールを夜蛾先生に送ってしまい「たぶん送り先を間違えてたぞ」と翌朝に苦笑いと共に教えて貰ったりする。でも私だって一応気を付けてはいるので、致命的なミスというミスは今のところ一つもない。業務的な意味では。…私生活的な意味では、私はたった今、或るひとつの『心の死』を迎えたところである。

 状況を整理したい。私は歌姫先輩と、メールで私用のやりとりをしていた。Reが並びすぎて最初のタイトルがなんだったか思い出せなくなるくらいの応酬を経て、私たちは恋の話に至った。歌姫先輩は私が五条悟に恋をしていることを知っているので、時節の話題から『五条にチョコ渡すの?』と簡素な絵文字を一つ付けて尋ねて来た。五条悟といえば、夏油傑とニコイチの問題児且つクズ野郎としてこの界隈では名を馳せている。私が始めに好きな人が五条と告げたとき、歌姫先輩はそれまでのワクワクキラキラさせていた表情から一変、目を細め眉を顰め何故か下あごを突き出すという大変治安の悪い顔になられてしまった。たぶん今、携帯の向こうであの時と同じ顔をしてるだろうな。私は想像して笑いながら、滑り込んできた業務連絡をこなしたあとに『その予定です』と返信した。

 歌姫先輩の返信は早かった。『予定って何の?』今度は絵文字すら付いていない簡素な内容。白々しくもあるそれに私は、歌姫先輩かなり五条のこと嫌いだからなあと深く考えないままに『五条に本命チョコ渡す予定ですよ!』とハートの絵文字まで添えて送信した。次いで現れた送信完了画面。送信先。五条悟。

 歌姫先輩とのやりとりの間に挟まった業務連絡は、五条悟と明日の任務について打ち合わせる内容のものだった。実習を兼ねた明日の任務の集合時間を、緊急治療指令が入った硝子の代わりに五条が教えてくれただけの業務的なもの。だから私は了解ですと返信したつもりで――ちゃんと返信した?送信済みボックスを開く。送信履歴に三連で五条悟の表記が並んでおり、私は返信のために開く受信メールを誤ったらしいと気付いた。なるほど。原因が分かれば反省できる。次のミスを発生させないことに繋がる。しかしながら。私が五条に本命チョコを渡す予定というハートマーク付きのメッセージが五条悟に届いているだろうことは、変えようのない過去であり結果なのだった。

 携帯電話が着信を告げ、驚きのあまりアハァと間抜けな声が漏れた。相手はもちろん五条悟だった。私は瞬間的に言い訳を大量に考える。電話に出れなかった言い訳は、トイレに行ってたから、でいい。問題はメールのほう。五条にチョコを渡す予定の女の子の相談に乗ってて、急にしらばっくれたから私が…いや、だめだ。直前のその予定ですから私の誤送信は始まっている。五条は無駄にクレバーで性悪なので、こういう矛盾には絶対にツッコんでくる。ああ、私が遠隔術式の使い手でさえあれば五条の携帯を今すぐ爆発させるのに。冥冥さんにお願いして鴉で携帯を奪って貰おうかな。多分無下限使われちゃって駄目だな。震え続ける携帯を手にしたまま、ベッドに寝転ぶ。コンポでつけっぱなしのラジオ番組では軽薄そうな歌声が「一気にいったれ」などと歌い上げている。無責任だ。

 ごんごん、と部屋のドアを乱暴にノックされたのはその曲が終わろうという瞬間のことだった。携帯はまだ震えている。私は慌てて身を起こし、ほとんど脊椎反射で電話を耳に当てて受話ボタンを押下した。それは、彼の居場所を確かめるために他ならなかった。

『無視してんじゃねーよ、開けろオラ』

 ごんごん。ノックの音が受話器越しとリアルのどちらからも響いてきて、ホラー映画の様相を呈している。居留守は使おうにもラジオの音や部屋の明かりが漏れている筈だから、きっと無理だ。私いま部屋に居なくてーなんて述べるよりもドアを破られるほうが早い。

「なんで女子寮にいるの、通報するよ夜蛾先生に」
『勝手にしろよ。そしたら俺は事情説明っつってさっきのメールを教員全員と傑と硝子に見せるし灰原と七海にも転送して』
「お願いしますやめてください後生です」

 この男に口論で勝てる訳がなかった。高速で詫び、五条が納得したように鼻を鳴らしたことに安堵するも束の間。私は先ほどのメールの内容までもを“認め”させられてしまったことに気付いて頭を抱えた。五条がせせら笑う。ドアがみしりと鳴いて、彼があの向こう側に背を預けている様がありありと想像できた。

『……それで?』
「………ハイ」
『チョコ、くれんだ?』
「………ハイ」
『しかも本命』
「そ……れは、」

 私が黙ったら悟も黙った。ラジオで女性シンガーばかりが愛を歌っている。こんな、本命とも言わずに本命チョコを渡して一人で満足して終わりにするつもりだった恋を。ドア越しの尋問で終わらせることになるなんて思わなかった。

「……う、」
『は?泣いてんの?』

 嗚咽が噛み殺しきれず、賢い五条に二秒で察知されてしまう。だってこんなのあんまりだ。メール送り間違えて、本人に届いて、その本人が目の前まで来てこの恋の息の根を止めようとしている。私は俯いて、唇を噛み締めた。恥辱と哀しさと、それでもこんな時間に聞く五条の声にときめいてしまう自分に、とめどなく涙がぼろぼろ落ちる。五条はこういう女が嫌いだってことも分かってるのに、自分でそんな面倒な女になっていくことがやめられない。

『いーから開けろって。別に取って食いやしねーから』
「でも、ふられる」
『ア?』
「ふら、れる」

 こんなこと二度も言わさないでよ。嗚咽に溺れかける私に、五条は深々と溜息を吐いた。私の恋の寿命が近付く。電話越しに振られるくらいなら、直接振られるほうがマシだったかな。うそだ、どっちもしんどい。

『オマエさあ、泣くほど俺のこと好きな癖に電話無視するわメールも返さねえわドアも開けねえわなんなのマジで。そんならいいよ、俺も言いたいこと言うわ。ホントは超気紛れで直接言ってやってもいい気分だったけど、もう二度と言ってやんねーからな。オマエの本命チョコなら受け取ってやるから絶対に寄越せ。じゃあおやすみ、明日寝坊すんなよ』

 ぶつ、と電話が切れて、ドアの前の気配がすっと退いたのが分かった。私は弾かれるようにベッドから立ち上がり、ドアに駆け寄ると錠を解いてドアを押し開く。そこには青い瞳を優しく細めた、意地の悪い笑顔。

「…オマエも、なんか言うことあるだろ」

 いつも恋焦がれていたあの大きな掌が、私の頬から涙を拭った。

せめてそれを欲しがるぐらい、

(ゆるしてほしい、すきだから)
2021.09.04