欲しいものが目の前にあるのに手中には収まらない、というのは思っていた以上に歯痒いもので。しかもそれが他所の男のものになろうとしたものだから、当時十七そこらの若くて無鉄砲な僕は焦りに任せてと最低最悪な盟約を結んでしまった。
 今でも鮮明に、袖の下で僕の手から逃れようともがの筋肉の動きひとつひとつまでもが思い出せる。どんな呪霊にも果敢に挑んでいたあの瞳が僕のことを怯えの色と共に映すから、俺は呪霊以下かよと内心で舌打ちしてしまった。…違うな。僕はそのとき彼女にとって、呪霊以上に恐ろしい存在だった。

「悟、なんで」

 なんで。それは高専でずっと一緒にいた僕ではなく最近出会ったどこの誰とも分からないような男と付き合い始めたオマエにこそ似合う言葉だと思うけど。怒りにも似たそれは乾燥した空気と一緒に肺の奥底に仕舞い込み、代わりに今しがた思いついたアイディアを吐息に載せて声にする。僕はこの瞬間を思い出す度に顔を覆い、今すぐにやめろ、と当時の僕を引き裂いてやりたくなる。

「…これ以上オマエの隣は求めないから、初めては俺に頂戴」

 本当に、最低最悪の悪手だ。僕の手元には彼女の初めての男というトロフィーだけが残り、彼女の恋人の座を獲るためのレースからは永遠に除外され、それでも傍に居続けることだけならできるという無味無臭の毒を飲み続けるような約束事。けれど当時の若くて馬鹿な僕は、彼女の初めてという称号が喉から手が出るほどに欲しかった。それでの人生に残る僕の名前が何よりも濃く、深いものになると信じて疑っていなかった。目元に涙を浮かべたは、ほとんど僕に脅迫されるような形で頷く。だから僕は浮かれきって、彼女のことをそのまま抱いた。信じられないほど柔らかい肌も、熱いほどの体温も、ぬるついた粘膜も。そのすべてが甘ったるくて僕は何度も酩酊しそうになり、彼女に侵入した最初の男という称号を素直に喜んだ。ホント、愚かしいことこの上ない。

 そうして無事に僕の初恋はあの日、僕の手によって窒息死した。その死骸を小脇に抱えたままで大人になり、埋葬したいなと思い続けながら、それでも彼女の傍にいることがやめられないでいる。せめてこの毒に少しでも甘味があればなあ。今日も今日とて真面目に仕事をこなすの横顔を穴が開くほど見つめ、でも無味無臭でいいですと言い出したのは僕の方だしなあと思い直す。彼女の瞳が、ディスプレイから僅かに逸らされて僕へと向く。ブルーライトが瞳孔のなかでつるりと光り、その視線に鋭さを加える。

「…五条さん、サボるなら他所でやってください。私まで怒られるので」

 補助監督という道を選んだ彼女は、職場では僕のことを他人行儀に呼ぶ。僕はサングラスを少し下にずらすと、上目遣いに彼女を見た。

「サボってないよ。オマエがサボらないか見張ってるだけ」
「私がサボったことなんか一度もないですよ、ねえ伊地知くん」
「……そこで私に振るんですか……」

 隣のデスクに積み上げられた書類の山が弱々しく喋った。僕のことは五条さんなのに、伊地知のことは伊地知くんなのもいまいちなんでか理解できない。じゃあ僕のことも五条くんで良くない?いや普通に悟で良くない?こうやって分かり易い形で一線を引かれると、あの日の盟約は未だに息をしているんだなと思い知らされてゲロを吐きそうになる。

「…あーあ、オマエが一緒に休憩とってくれるまでここに居座って山手線の駅を延々と読みあげたい気分になってきちゃった。いくよー。鶯谷、上野、御徒町、」
「………休憩頂きます」
「ハイ…行ってらっしゃい…」

 彼女がスマホ片手に立ち上がり、書類の山がそれを見送る。僕はずっと占領していた誰のものか分からない椅子から腰を上げ、事務室を後にする彼女の背を追う。後ろ手に戸を閉めたら、突然彼女が思い出したように吹き出して笑った。格子窓から日の差し込む木造の廊下を背景に、僕を振り返るその姿はあの頃のまま。

「なんで鶯谷スタートだったの」
「…鶯谷デッドボールって知ってる?」
「まさか教え子にその話してないよね?」

 僕、某有名風俗店の話を教え子にするような教師だと思われてんの?心外だな。そんな思いを視線に乗せたら、そのすべてを享受してくれたの瞳が穏やかに笑って「虎杖くんとかにはしてそうじゃん」と軽口を叩いた。ああ、本当にオマエのそういうところだよ。僕は恋心の死骸を抱え直して、渋々出て来たわりには足取りの軽やかな彼女の後ろについて歩く。その指に新たなアクセサリーが増えていなくて安心した朝が四千回。その手をいつか握るのが僕じゃないことに絶望する昼下がりも、これで四千回目。

「今日は何食べようかなあ」
「なんでもいいよ」

 オマエの隣で狛犬みたいに、そのポジションを空席のままで守っていられるなら。含ませた意味に彼女は気づかず、丼ものがいいかな、だとか呟いている。なんでさっきのには気付いてこっちには気付かないんだよ。呆れと諦め、色んなものをごっちゃにして溜息にする。そしたら彼女が突然、あっ、と声を上げた。僕は面食らって足を止める。

「鶯谷の美味しいお餅屋さんなら知ってるよ」
「……どこに話題回帰してんの」

 それなら知ってる、月光だろ。何百回も行ってるけどオマエのこと連れてったことなかったっけ。あークソ、マジでくだらない。僕はこの瞬間にもその唇がいつ“彼氏ができたよ”って動き出すか、気が気じゃねーってのに。

「今度行ってみようと思ってさ」

 そこで“今度連れて行って”とさえ言ってくれれば、オマエを連れてく用意ならできてたよ。飲みなれた本音は引っかかることなく胃へと落ちて「いいんじゃない」へと鮮やかにすげ変わった。じゃあそうする、と言って彼女はスマホの液晶を覗き込む。僕はその画面を一緒に覗き込んで、たくま、の表示を見つけてはすぐに目を逸らした。最悪。男の名前だった。軽やかに文字をフリックするその細い指が、僕の背にどんなふうに爪を立てたか知らないだろ、“たくま”。
 見えもしない男に悪態を吐きながら、僕は抱えた恋心の重たさを思い知る。腐敗して骨になってくれればいいのに、これは肥え太るばかりだった。

どくを飲み続ける日々

(にがい、はきたい、はけない、)
2021.08.14