正直なところ、最初はとても浮かれていたことをここに告白したい。
 だって季節は夏だ。真夏だ。それなのに私たち呪術師の卵は夏休みをとるどころか、日々過酷さを増していく任務と訓練の隙間に貰える休日でどうにか息継ぎをしながらこの夏をなんとか生き延びようとしている。『生き延びようとしている』なんて強い表現をしてみたが、これは比喩でもなんでもない。私たちは少しでも気を抜くと、本当に死んでしまう。呪術師という道を選んだ時点でそうなる覚悟はしていたから、まあ、非術師たちのように夏を楽しめないという点については諦めもつくのだけれど。ちょっとしたイレギュラーのせいもあり、心のどこかで私はこの夏に何か楽しみが持てないかなと期待もしていた。

 ちなみにちょっとしたイレギュラーとは、同学年の五条悟と交際関係になったことを指す。

 きっかけは覚えていない。五条もよく分からないと言っていた。でも私たちは確実に惹かれ合い、両想いとなり、バレンタインデーに渡したチョコレートを「本命だったらどうする?」なんて駆け引きで包装してみた結果、「……付き合うか」なんて一言を五条から引き出すことに成功してしまったので、交際関係となった。……なった、のだが。五条は夏油とツーマンセルで動くことが多く、私も硝子と後方支援系の任務に派遣されることが多いため、必然的に私たちは一緒にいられる時間が減っていった。私の術式が五条と肩を並べてバリバリ戦えるような代物じゃないことは自分でもよく分かっている。協会が意地悪したい訳じゃないのも分かっている。適材適所なのだ。けれど、もっと近くなると思っていた横顔があの頃よりも遠ざかってしまった現実が、私はただ哀しかった。こんなことなら交際してなかった方がマシだったかもしれない、とも思った。

 そんな時。急に舞い込んできた任務が私と五条の二名を指名しており、しかも行き先が観光地として有名な某海岸ときた。こんなの浮かれずにどうしろというのか。「浮かれんなよ」と一言目に釘を刺して来た五条に「浮かれるわけないじゃん、任務だよ」と返しつつ頭の中では水着を新調しようと決意を固めたりしていた。

 無論、現実はそんなに甘くない。

 日夜問わず人を引き摺り込むというその海の怪奇現象を監視、発見するため、現地に到着した私たちにはライフガードさんと同様の装備が渡された。広い砂浜で無邪気に遊ぶ数百人もの観光客のうち、いつどれが突如海中に引きずり込まれてもおかしくない。簡単にライフセービングの心得と作法を習い、本当に危ない人がいたら笛で知らせて本職のライフセーバーを伴って海に入るようにと言い聞かされた私と五条は、その場で解散して海岸の南と北に陣取った。夢中で芋煮状態の海面を見張っているうちに日差しは白から黄金、そして橙色になり、それが紫色になって観光客の数もかなり減った頃、北側で呪力がボンと爆ぜるのを感じた。近くにいたライフセーバーのお姉さんが無線機を片手に歩いてくる。「一緒にいた男の子が解決したって」恐らく細かい事情は何も知らないだろう彼女の小麦色に焼けた肌と楽しげに笑う口許が、なんだかとても、羨ましく思えた。

 私と五条は結局、慣れない潮風と紫外線に体力を奪われて目をシバシバさせながら、とっぷりと夜に包まれた海岸を後にした。ざざん、と波音が追いかけてくる。ぼくで遊ばなくていいのかい、と語りかけるようなそれに隣の五条をちらりと伺ってみたけれど、彼はもう煌々と明かりを放つ海沿いのホテルのことしか見ていなかった。正しくは、そのなかに用意されているだろう夕食のことしか、だが。

 夕食は「お疲れでしょう」と気を遣ったオーナーさんが私と五条それぞれの部屋に運び込んだため、豪勢だったけれどひとりで食べることになった。大浴場も素敵だった。無駄に新調してしまった部屋着で自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ瞬間、虚しさを通り越して笑いが込み上げてきてしまった。そうだよ。これは任務だもん。私は何を期待していたのか。寝て、起きて、新幹線に乗って高専に帰る。普通のことだ。普通。普通のカップルって、どんなことをするのだろう。何をもって、交際関係と呼ぶのだろう。
 哲学の海に沈みかけていたとき、私の部屋のドアがノックされた。ちょっと乱暴な音だったので、それがホテル関係者のものでないことはすぐに分かった。ベッドから飛び起きてドアへと駆け寄る。短気な彼が部屋に引き返してしまう前に応えなければ、と必死だった。

「はい!」

 勢いよくドアを開けた先で、予想通りの銀色が少しのけ反った。驚かせてしまったらしい。

「オマエ……急に開けんなよ、危ねー……」
「ご、ごめん……どうしたの? 明日の新幹線の話?」

 任務中であることを己の肝に銘じつつそう尋ねるも、五条がハァ? と言いたげに眉根を寄せたので焦る。そういえば五条の今の服装だが、寮でよく見るくつろぎ姿……ではなく出掛ける時のような私服にみえる。

「外」
「……そと?」
「外、出んぞ」
「うそ、もしかしてまだ呪霊が……」
「そんなわけねーじゃん馬鹿」
「ばか……」

 呪霊が活性化するのは夜だ。だから今まで呪霊を泳がせてた……とかそういう展開を予想したのに、本気で顔を青くした私を五条がなじった。そこまで言わなくてもとは思うけれど、昼間のアレで呪霊はきちんと祓われていたのなら安心だ。じゃあ、これから外に出る理由は?

「……散歩。付き合えよ」

 哲学の海のなかでじっとしていた私の恋心が、クロールで水面まで上がって来て「ちょっと待ってて!」と五条に声を掛けた。

* * * * *

 思いがけず無駄にならなかった新しい私服で、暗くなった砂浜を歩く。「海のなにが好きなんだよ」と訊かれて最早海なんてどうでも良くて五条と二人で歩けることが幸せですねとは言えず「広くて青いところかな!」なんて頭の悪い回答をしてしまった。「小学生じゃん」と五条が笑う。ああもう、永遠に小学生でいいです。五条が私の隣で笑ってくれるなら。
 ビーチサンダルは今日一日で随分と裸足に馴染み、一歩ゆくたびに砂の起伏を柔らかく圧し潰していく。潮騒に誘われるがままに波打ち際へと足を運べば、五条が慌てた様子で私の腕を掴まえた。海に飛び込むとでも思われたのか。私は笑って、五条の方を振り返る。

「大丈夫だよ、五条。波打ち際をちょっとぱしゃぱしゃっとしたいだけ」
「俺もやる」

 てっきり呆れられると思ったのに、五条はそう言うと私の隣に並んだ。腕の辺りにあった手がそろそろと下りて、まるで加減を伺うかのように、ゆっくりと私の左手に指を掛ける。波の音は意外にもひそやかで、私の心音は五条の耳に届いてしまっているかもしれなかった。怖いくらいどきどきする。でも、いいよ。言葉にする代わりに、私は五条の手を緩やかに握った。確信を得た彼の手は、私の手を無遠慮にぎゅうと握り返す。すごいな。これが、恋人になる、ということなのか。
 私たちの足が海に近づくにつれ、より深く砂に沈むようになる。濡れた砂が冷たくて「ひっ」と声を漏らしたら、五条が私のことをちょっとだけ引き寄せたのでまた「ひっ」と言ってしまった。気が付けば五条のサングラスが外されていて青空みたいな瞳が楽しそうな色を浮かべているし、今夜はかなり、心臓に悪い要素が多すぎる。

「……クソ呪霊、出るならもっと早く出ろっつーの」

 打ち寄せて来た波を蹴飛ばして、五条が不満げな声を出した。本当にその通りだ。呪霊が午前中に姿を現していれば、午後は五条と一緒に海で過ごせていたかもしれないのに。飛沫を脚で感じながら、私もそれを真似る。

「ホントだよ! クソじゅれっ……あ!」

 足を振り上げ過ぎた。すぽんと足から抜けたサンダルは波の上でくるくる踊ったあと、引き波にサーッと没収されてしまう。気に入り始めていた白と黄色のそれはあっという間に黒に呑まれて、見えなくなってしまった。暫しの沈黙。どうしよう、という思いで見上げた五条は、完全に笑いを堪えている顔をしていた。

「……ブハッ! ははは! ダッセェー!」
「ちょっと! そんな笑うことないじゃん!」

 五条の笑い声が暗い海岸線にこだまする。焦って私も大きな声を出すけれど、文句を言いたい気持ちが楽しい気持ちに負けてしまい、笑い声交じりの迫力もクソもないような声音になってしまった。裸足で踏んだ砂はとても冷たくて、しっとりしていて、足の甲に積もったそれを生温い海水が洗い流して運んでいく。片足だけ無防備になってしまったアンバランスな自分の足元を見下ろしていたら、五条も同じように私の足元を覗き込んだのが分かった。

「どうしよう、五条」

 相談するつもりで顔を上げる。至近距離に蒼穹。白い睫毛がふわっと動いてそれが五条の目だと理解したとき、私の唇に柔い衝突。びっくりしてまばたきをひとつする間に、彼は爽やかな香りだけを残して身体を起こし、視線を海の方へと投げていた。

「……オマエさ、いつまで俺のこと五条って呼ぶ気?」

 月明かりに白く照らされた彼の耳たぶが微かに赤くなっていることに気付き、私の体温が急激に上昇する。まって、それはオーバーキルだ。これまでの停滞が嘘のように目まぐるしく『恋人らしさ』が押し寄せてくる。左掌には手汗をかいているが離してもらえそうにない。見上げれば大好きな人。その向こうには零れんばかりの星屑。足元には海。言いたいことがあるなら言っときなよと囁きかけてくる、静かな波音。今、やっと私たちは恋人になれたのかもしれない、と思った。

「私、悟と恋人になれて本当に良かった」

波間をくるくる泳ぐみたいに

(迷い惑うも、また青春)
2021.08.08