五条悟と、うっかりキスをしてしまった。

 昨日の私は珍しく少し凹んでいて、早く帰ってお風呂に入ろうと思っていたところを五条さんに捕まり「シュトーレン今すぐ食べれなきゃ夜泣きしちゃうよ僕」というアホでしかない我儘を達成するためだけに赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットまで連れ出されてしまった。暖色の壁に囲まれた広場には赤と緑で飾られた出店がぎっちりと軒を連ね、透明なテントに覆われた暖を確保できるタイプのテーブルがその奥にいくつか並んでいる。
 道行く女性の手元から温めたワインの甘酸っぱい香りがして、あの屋台ではウインナーを焼いていて、そ このおじさんはビーフシチューのようなものを手にしている。夏祭りの夜みたいな高揚感で胸がときめいて、 興味津々にあちこちを眺める私のつむじに向かって五条さんが笑いながら「そんじゃ、まず何からいく?」なんてゴーサインを出した。気が付けば凹んでいた気持ちが賑やかさと食欲の前に霧散していて、この人は 私の扱いが本当に上手いなと思ってしまった。こうなれば乗せられてしまおう。私は五条さんの服の裾を引 き、ブッシュドノエルの看板を指差した。五条さんの目がサングラス越しにニンマリ笑う。「さすが、わかってんね」お互い様ですよ、とは言わないでおいた。

 そうしておなかを満たした私たちは、クリスマスのイルミネーションでキラキラに満たされた横浜の海辺を雰囲気に酔わされるがままに散歩した。なんとなく帰りがたくて、どうでもいい話でお互いのことを繋ぎ留めながらゆっくりと歩く。豪華客船が大桟橋のほうへと入港していく様を見て、いいなあ、とこぼしたら五条さんが私を見下ろして「乗ってみる?」と言った。「僕とならあそこまで行けるよ、これだけ暗ければ周りにもバレないって」…いや、豪華客船の無賃乗船など前代未聞だ。それも五条悟だから為せる力業だなあと思って、私は大笑いした。五条さんも笑った。やめときましょう、と言おうとして彼を見上げたら、月明かりを抱きかかえてふんわり輝くその髪が、雪景色みたいで。綺麗だなあ、と目を奪われている数秒の間に、五条さんがサングラスを外して私の進路に回り込んだ。足が止まった。青い瞳がおちてくる。真っ白な吐息は最早、どちらのものか分からなくて。外気に冷やされていた唇が、湿った生暖かさに包まれた。

 その瞬間のすべてが、ロマンチックと呼称するに相応しいものだった。私を自宅前までタクシーで送ってくれた五条さんが、おやすみ、とあっさり帰っていったのもポイントが高かった。しかし。しかしながら。 あれは五条悟なのだ。キスしちゃったなあとぽやぽやしていた頭が今朝はスッキリと冴え渡り、その思考はどうしたものかという方向へ塗り替わっている。まず、私は今日高専に行く用事がある。どんな顔で挨拶を、いや、会わなきゃいいんだ。高専生の学び舎には近づかないように今日という日を過ごそう。万が一出くわしても、相手も大人だし。きっと何事もなかったかのように接してくれる筈。

「おはよ、。あの後ちゃんと眠れた?」

 私の期待は高専に着いた瞬間に二つとも弾け飛んだ。 ちょうど出て行こうとしていたらしい五条さんに出くわしてしまった上に、昨日の話題を蒸し返されている。正直言えば恋のような感情で胸が落ち着かず、なかなか寝付けなくて寝不足気味ではあるけれど。嘘でも眠れましたと答えて流してしまうべきかで迷い、口をまごつかせてしまった。五条さんの掌が、そんな私の頭を優しく撫でる。…なぜ。

「眠そうじゃん。さては寝れてないな?なんで?どう したの?」
「な、んで教えなきゃいけないんですか…」
「いやあ、僕も寝不足気味なんだけどね」

 頭にあった温度が左頬を滑り落ち、顎に至ってはグッと私の顔を強引に上げさせた。青空を背景にした五条さんが、形の良い唇を悪戯に歪ませて笑う。

「多分おんなじ理由だからさ、答え合わせしようよ」

 そうやってわざとらしく甘い声を作るから、いつもであればハイハイと流せるものを。髪に輝きを乗せた美しいひとと唇を重ねる瞬間の映像がフラッシュバックしてしまい、血液が急激に顔面へと集中した。彼の手を振り払おうと右手を振る。五条さんはおどけた素振りで手を退いた。

「し、ま、せん!」
「アハハ!真っ赤!カワイーね。そうだ、今夜なんだけど銀座に気になるとこあるから付き合ってよ。よく行く寿司屋が暖簾分けしたらしくてさあ」

 この人の発言には脈絡がないし、恐らくそもそも会 話をする気があまりない。どうしてそこから今夜の話 になってしまうのか。私は今夜家で鍋をつつきながら 金曜ロードショーでホームアローンを観たい気分なの で、その誘いには乗れない。

「あとオマエ明日休みだよね?今夜そのままウチおいで、映画観よ。今日の金ローは毎年恒例ホームアローンだよー」

 流れるように自宅にまで誘われて瞠目する。まって、と静止の声をカラカラの喉で発したものの聞き入れられない。五条さんはまだ喋り続けている。

「ちなみに僕、休日はゆっくり寝たい派なんだけど行きたいところとかある?」
「ちょ、ちょっと待ってください!なんで全部私の同行が前提なんですか!」

 翌日の予定まで押さえられそうになったところで漸く私の声帯が仕事をした。五条さんが、こてり、と大きく首を傾げる。あなたがその仕草をするのはおかしい。私の方こそ、疑問に満ち満ちて内側から破裂してしまいそうなんですけど。

「逆になんで?」
「逆に…?」
「僕たち、キスしたよね」

 オブラートに包めえ。心の中の千鳥ノブが渋い顔でそう言い放った。キスはした。間違いなくしたんだけど、キスをしただけで別に交際を約束した訳でもないし、そもそも好きだなんて言葉の欠片すら頂いていな い。確かにあの瞬間は、五条さんとならいっか、みたいな気持ちになって大人しく唇を受け入れてしまった ところは…あるには、ある。だからといってそんな、急に彼氏みたいなムーブをかまされるのは困る。私はありったけの勇気でキスの話題に正面から立ち向かう羞恥を乗り越え、クレームを入れることにした。

「いや、あの。キスしか、してないですよ私たち…」
「ハーァ?オマエ、誰にでもキス許せちゃうタイプだっけ?」
「違います!五条さんこそ…」

 尻軽のように言われてカチンと来てしまった。そんなことを言う、そちらはどうなのか。あのムードの中なら、私じゃない女の子にもキスしてたんじゃないか。 衝動的にそう訊きそうになったが、心臓のあたりでつっかえて声になってくれなかった。ああ、情けない。 そうだよと言われるのが、少し、怖くなってしまった。

「僕が、なに?」
「ええっと…」
「好きでもないのにキスできるタイプなんじゃないかって?」

 五条さんにはすべてお見通しだった。私は何も言えず、頷くことも出来ず、ただ黙って視線を泳がせる。 五条さんの深くて長くてわざとらしい溜息が聞こえてきたのは、そんな沈黙が十秒ほど続いた後のことだっ た。気配もなく彼の掌が顔のすぐそこに現れ、両頬が両手で包み込まれる。逸らすことも逃げることも出来
なくなった私の顔に、ぐいっと五条さんの顔が近付いてきた。額が合わさる。翳った視界のなかで、彼の目 元を覆う目隠しに皺が寄った。たぶん、眉を顰めている。

「そんなこと金輪際言えなくなるぐらいぐっちゃぐちゃにされなきゃ分かんないか。しょうがないな。あーあ。僕、には優しくしようと思ってたのに」

 言葉のチョイスが怖すぎて、私はときめくよりも前にびびってしまった。こんなのは愛の言葉じゃない。暴力だ。好きだと一言いってくれるだけで、かなり状況が変わってくると思うのだけど。この人にはその発想がないらしい。
 五条さんの温度と顔が離れていく。時計を少し気にしたので、そういえばどこかに出かけようとしてたな、と今更思い出した。

「…じゃ、今夜は銀座ね」
「あのですね...色んな大事なステップを…」
「僕さあ、空歩けるから。階段あんまり必要ないんだよね」

 そういう問題じゃない。尚も今夜から明日にかけての予定を敢行する気でいるらしいその人は、私の横を すり抜けてさっさと歩き出してしまった。まずい。このままでは本当に寿司からの金ローからのぐっちゃぐちゃで朝チュンコースだ。 「五条さん!」強い語気で呼び止める。五条さんは振り返り、にっこりと笑った。

「安心してよ。披露宴は豪華客船の上でやったげるからさ」

 いや…更にステップ踏みこさないで…。抗議の声は呆れと困惑のあまり発することが出来ず、私はただ茫然と、昨夜から勝手に私の彼氏となり果てた長身の男を見送ることしか出来なかった。

オマエの隣に三段飛ばしで

(今更イヤだなんて言わせないよ)
2021.01.06