「好きだよ」と溢された熱に浮かれるようなその声を、私は咄嗟に「気のせいだよ」と笑い飛ばしてしまった。その瞬間、夕陽で橙色に色づいた酸素が私と悟の間でぐらりと揺らいだ気がした。隣で夕焼けを見上げる白色の気配が、口を噤んで息を詰めたのが分かる。彼からはそれ以上の弁明もなければ言い訳もない。やっぱり、と私は胸の奥深いところでほんの僅かに落胆しながら「いま、雰囲気がいいもんね」と悟の代わりに言い訳をした。悟は何も言わない。

 そうしているうちに伊地知くんが取りたての免許でよろよろと運転する車が迎えに来てくれて、私たちは押し黙ったまま彼の車に乗り込んだ。慎重すぎるその運転に「もっとガーッと踏めよ伊地知、マリカーを思い出せ」なんて理不尽なことを言う悟は既にいつも通りの彼だったので、私は笑いながらあの瞬間のことは綺麗さっぱり忘れてしまうことにした。あの五条悟が平凡な私を好きになるなんて、私の都合のいい妄想でしかない。ありえることではない。


 まあ、実際には綺麗さっぱり忘れることなんて勿論不可能で。あの日みたいな夕焼けをあの頃よりもすっかり落ち着いた悟と見上げているせいで、空気感とか悟の声の感じとか、胃の辺りがきゅうと委縮して緊張を覚えたこととか、あの瞬間の全てをありありと思い出してしまった訳なのだけれど。

「綺麗だね、明日も晴れそうだなあ」

 私がちょっと気まずい思いをしていることなど知る由もなく、悟は間延びした声で中身のないことを言いながら夕焼け空を見上げている。今日に限って悟はいつもの目隠しではなく、サングラスを選んで着用して来ている。あの日と同じだ。悟が目隠しを着けるかサングラスを着けるかは本人の気分次第なので、私は己の不運を呪うしかない。悟のサポート役を請け負って訪れた任務地が夕焼けの美しいロケーションで、あの日とそっくりな状況になってしまったという、千載一遇の不運。

「夕焼けが赤いと翌日も快晴なんだっけ?」
「え、そうなの?」

 中身のない会話でこの場をやり過ごそうと適当に返したら、もっと適当な返事が返ってきて思わず破顔して笑ってしまう。会話の流れが高田純次のそれだ。

「適当も大概にしてよね…」
「えー。僕だってたまには真面目なこと言うよ」
「うそつき」

 好きだなんて最大級の適当発言をぶっこいたくせに。口には出来ない部分を胃の中へと押し戻しながら、スマホを取り出して画面を点灯させる。伊地知くんが迎えに来るまであと十五分くらいあるけど、彼のことだから五分は巻きで到着してくれるだろう。そのままパスコードを解いて、LINEをチェックするつもりで指をスライドさせる。見慣れた黄緑色のアイコンをタップしようと親指を動かしたら、私のスマホ画面を悟の大きな掌がすっぽりと覆い隠してしまった。…こうやってスマホチェックを妨げる猫の動画、観たことある気がするなあ。なにすんの、だとか軽口に近い文句を叩こうと悟を見上げる。悟の表情は、無、だった。いや、ちょっと怒ってる寄りかもしれない。

こそ、たまには真面目に聞いてくれたっていいんじゃないの」

 斜陽が黒いガラス面を透かして、輪郭の大きな眼を曝け出してしまっている。長い睫毛に縁取られたそれと視線がしっかりぶつかった、と思ったらサングラスが取り外されてしまい、六眼と見つめ合うことを余儀なくされてしまう。海の浅瀬にも似た、淡く深い輝き。夕陽の中では赤みを帯びて、さざ波を立てるように揺れている。

「人の一世一代の告白を冗談扱いしてくれちゃってさ、僕があの後どんだけ枕濡らしたと思ってんのマジで」

 顔は真剣だし雰囲気だって緊張感があるのに、その口から出るのは軽妙で軽薄なそれである。やはりこの男には真面目に聞かせる気がないなと心の半分で思いつつ、一世一代の告白といえばあの日の出来事しか思い当たらなくて、心の半分がびっくりして震えだす。スマホはすっかり悟に握り込まれて、操作不能になってしまった。

「確かにね、あの時すぐに本気だって言えなかった僕にも落ち度はあるよ?それでも告白直後にアハーって笑って気の迷いだなんてさあ、ひどすぎると思わない?それでも血の通った人間なの?」

 悟の口は止まらない。あれから七年か八年経つのに、まるで昨日のことのように滑らかに不満が飛び出してくる。私も決して口喧嘩に持ち込みたい訳ではないし、今回に関しては完全に私が悪いのだけれど、見過ごせない細かいニュアンスの違いに気付いてしまっては口を挟まざるを得ない。静かに息を吸う。悟が私の唇の動きに注視しているのが、分かる。

「…気の迷いじゃなくて、気のせいって言った」
「……覚えてんだね、ちゃんと」

 そのニュアンスの違いすら悟の張った罠だったと、溜息交じりのその声で気が付いた。しまった。動揺するも時すでに遅く、悟の眉間には深い皴が寄っていく。私は思っていた以上にあの頃の悟の純情を傷つけていたらしい。謝るなら今しかない。私は、おずおずと頭を下げた。

「も、申し訳ありません…」
「詫びならいいから最後まで聞いて」

 えっ、まだあるの!?素直な驚きを顔いっぱいに広げながら頭を上げる。私への告白は冗談では無かった、だから私に鼻で笑われて傷ついた。それ以上に私、なにかやらかしてたっけな。怯えを滲ませる私をじっとりした目で観察していた悟が、は、と短く息を吐いた。

「…オマエに言われて、当時思春期で心がグラッグラに不安定だった僕は本当に気のせいだったのかなとか思っちゃったわけ」

 純粋でしょ。そう付け足しながら、悟が自嘲的に笑う。彼の頭上の空が薄紫色を帯びて、夜の到来を告げている。

「でね、ちゃんと向き合ったんだけど…結論から言って、ちゃんと好きだったんだよね。オマエのこと」

 私はその文字列に真正面から殴られた。悟が、いかに私を好きだったか。それを今どれだけ語り聞かされてもあの夕焼けの日はもう帰ってこないし、私が素直に“私も好き”と言えた場合の未来だって今更掴みようがない。知りたくなかった、そんなこと。青と黒と橙で曖昧になった空の色が、水のフィルターでじんわりぼやける。鼻の奥がつんと痛んで、泣きそうになっている自分を自覚しては下唇を噛みしめた。

「あーあ、だから最後まで聞けってば」

 スマホが解放されて、代わりに頬を両手で包み込まれる。ぐっと無理矢理顔を上げさせられて、涙目で鼻の頭も赤くなって不細工極まりないだろう私の顔を真上から覗くように、悟の顔が降ってきた。

「僕ね、今もオマエのことが好きなんだよ。…もう八年も経ってんのにだよ?ウケるよね」

 光源が減り、悟の瞳のなかで青色が深みを増す。世の中よりも一足先に夜空を見上げている気分になりながら、今しがた耳に入ってきた言葉をゆっくりと咀嚼しようと努力する。…心臓がうるさくて、上手く咀嚼できない。八年越しに好きだと言われたという事実を、私の心が理解こそすれども信じようとしていない。

「…これでもまだ、気のせいだと思う?」

 何も言えずにいる私に、悟が追い打ちを掛ける。私は勢い良く首を横に振った。悟は笑う。地平線に消える間際の金色の輝きが悟の髪を縁取って、煌めかせている。この人は、こんなにも美しい。手に入れてはいけないと思っていたその人が、自ら手を広げて私のことを待っている。ゆっくりと手を伸ばして、悟の頬に触れてみた。柔らかくて、暖かい。人の体温だ。

「…お詫びにさ、ちゅーくらい許してよ」

 伸ばした手をそっと包まれて、悟の顔が今までにないくらい近くなる。ダメともイヤとも、いいよとも言わないままで、私はその体温を受け入れることにした。あの日揺らいだ橙色が、唇の間で融けて消える。あんなに強気にたくさん喋ってたくせに、与えられた口付けがあまりにも繊細で優しくて笑いそうになってしまった。

 二人きりの任務も夕陽の綺麗なロケーションも、いつまでも迎えに来ない伊地知くんも。すべて悟の計略のうちであったことを知るのは、それから三日後のことである。

夕陽と夜空を足して割ったひと

(まさか空の方から降ってくるとは)
2020.11.20