。カレシ、できたんだって?」

 ひょろりと背の高いこの人類最強の男は、いつだって気が付くと気配なく私の横か後ろに立っている。いつもは間延びした声を耳にしながら、ああ悟いたんだ、と彼の存在を知るのだけれど、今回ばかりは違う。声より先に、視界に長くて黒い棒状のものが現れた。靴底と木製の壁がぶつかる、こん、という軽い音を聞いてようやく、私の目の前にゴールテープよろしく出現したこれが誰かの片脚であることに気が付いた。きわめつけに耳元で囁かれ、これは五条悟だと彼の顔を見上げずに確信する。そちらを見上げるには少々、顔が近すぎる。

「ねえ、だんまりじゃ分かんないんだけど」

 近かった距離を更に縮め、追い立てるように拗ねた口調で悟が言う。相変わらず距離感がバグっている。私は彼の気配と吐息から逃げるようにして壁際へとスライドするも、身長一九〇オーバーの男にとってそれは身を屈めるだけで簡単に埋まる程度の距離だった。私の進路を妨害している、壁に突いている彼の脚の膝が深く曲がる。顔が近い。

 そもそも私と悟は高専で顔を合わせることこそ多いけれど、互いに良いオトナだ。カレシができたとかそうじゃないとか、そんな話題に大騒ぎするような歳じゃない。ましてやこんな風に進路を妨害されてまで、壁に追いつめられてまで尋問されるような事柄じゃない。

「できたよ、カレシ」
「僕を差し置いて?」

 間髪入れずにそう返されて、心外のあまり反射的に悟の顔の方を見遣ってしまった。やはり近いし、こういう局面での目隠し着用は狡いと思った。彼の口許にこそ笑みは乗っているが、黒い布の向こう側にある青い瞳は恐らく笑っていない。

「ソイツって僕より強いの?」

 それは問いかけではなく、明白に私を責めるような言い方だった。何を言い出すやら。五条悟よりも強い人類がこの世にいる訳がない。私は顔を悟の脚の方へと向けながら、冗談めかして笑う。

「そんな訳ないでしょ」
「じゃあ僕にしなよ」
「……ん?」

 さも当然というように言われたそれをうまく理解することができなくて、老人の如き緩慢さで訊き返してしまった。はああ、とわざとらしい溜息が耳元のすぐそこから聞こえる。

「僕にしろって言ってんの。意味わかんなくないよね?最終学歴僕と一緒だもんね?それとももう一回言って欲しいの?欲しがり屋さんだね、いいよ」

 会話のキャッチボールならぬ、豪速ピッチャーマシンが目にもとまらぬ速さで5球くらい連続で放ってきた。まってまってバット振れない追い付けない。ぐ、と悟の黒くて広い胸板が壁の如き圧迫感で私に迫る。私は私自身がバグって壁にめり込みでもしない限り、これ以上逃げることが出来ない。すー、と悟が息を吸う。追撃の予兆に、私も何かしゃべらなくてはと慌てて口を開いた。

「さ、最終学歴は悟と同じだけども…」
「ハーァ?何言ってんのオマエ、絶対そこじゃないでしょコメントすべきところ」

 仰る通りです。でも悟のそれに気楽にウンイイヨ!と頷くことは即ち、昨夜ディナーしながらおずおずと交際を申し出てきた素敵なあの人と別れてこの傍若無人オトコ五条悟と交際開始することを意味している。年齢的にも婚姻を意識せねばならないし、そうなった時に私はあの五条家の跡継ぎを生むという責務を負うことになる。無理だ。無理、無理。六眼持ちの子を生めなかった暁には一族から死ぬまで溜息を吐かれまくることになる。

「学生の頃なら頷けたかな」

 そうやって口からするんと出た回答は私の本心そのままだった。あの頃ならば何も気にせずに、五条悟と恋愛できたかもしれない。私にとって五条悟は最低男である反面、ずっと憧れの対象ではあったから。
 視界の隅で悟の気配が動く。目隠しを外したらしい。さらさらと銀色が降りて揺れた。

「ヤダね。オマエそれ、別れる前提で頷くやつだろ」
「それは…」

 別れる前提、と言われてみれば確かにそうかもしれなくて返答に詰まる。学生時代の交際ならば気軽に行えた、と思ったのはオトナになってからのそれのような責任を負わずに済むと思ったからだ。つまり、学生からオトナになるまでずっと交際し続けて婚姻する、という可能性を私は無意識に排除していたことになる。

 悟が本日何度目か分からない溜息を吐いた。私の進路を横切っていた脚が引っ込められる代わりに、目線の高さに悟の腕が伸びて来て壁に手を突く。これの名前ならば知っている。壁ドンだ。

「あの頃に言わなくて正解だった」
「へ?」
「僕にしとけって話だよ」

 悟は呆れ切った様子でそう言った。なんだかまるで、学生の頃から私のことが好きだったかのようなセリフだけど。この男に限ってそんなまさか。なんとなくずっと一緒だった女に彼氏ができて、友達が取られちゃう!って焦りを恋愛感情と取り違えてるだけだろう、多分。

「…ってさあ、昔から僕に確認もせずに勝手に自己完結しようとするよね」

 思考を見透かされた。動揺して身を凍らせる私の視界に、青いきらめきが映り込む。昔から見上げるばかりだったあの目が、私を覗き込んでいる。

「ほら、こっち向けよ。逃げようもないくらい愛の言葉をくれてやるからさ」

 あまりに好戦的な言い方すぎて、愛の言葉をくれそうな感じがしない。そこには一ミリも優しさなんてものはなく、豪速ピッチャーマシンがボーリングの球を放ってくる映像が脳裏にちらついた。パワープレイだ。暴力装置だ。さすが五条悟、こんなところも力押しとは。…なんて、現実逃避し続けられる状況でもなくなってきた。

 顔が熱くて心拍が疾い。そっちを見ちゃいけないのは分かってるのに、私の視線が吸い寄せられるように悟の顔の方へと勝手に向いてしまう。視界いっぱいに綺麗な顔が広がって、白い睫毛に縁取られた大きな瞳と視線が合わさったとき、悟が目を細めてニンマリと笑った。

「十年熟成ものだから死ぬほど甘いよ」
「……カビ生えてんじゃないの」

 やっぱり悟は十年間それを熟成させていたらしい。腐らせずに取っておけるなんてすごいな。私があの頃に悟に抱いた憧れは、あらゆる諦めのなかで蒸発して氷砂糖のように結晶化して心の奥底にこびり付いてしまっている。それを指先で掬って舐め取るように、悟の指先が優しい手つきで私の頬に触れた。

「まずね、オマエのそういうとこが好き」

 見上げるばかりで追いつきようのなかったあの瞳が、私と視線の高さを合わせて微笑む。昨日交際を開始したあの人の決め手が高身長だった、とは誰にも言わずにおいて良かった。私の意地汚い諦めの悪さが、代わりで納得しようとした心の虚弱さが露呈するところだった。
 ポケットのなかでスマホが震える。多分、あの人だ。悟の大きな掌が、ポケット越しに私のスマホを包む。

「俺を選べ」

 自分を選ぶだろうと確信を得ておきながらそう言う悟の声は、怖いくらいに魅力的だった。

限界糖度を致死量程度まで

(まだまだ、思い知らせてやるよ)
2020.11.10