無下限呪術。1を2分していくといつまでもゼロに辿り着けない要領で、対象との間に無限の隔たりをつくる術式。幾度も実戦や組手で目にしたそれは、俗な言い方をするとチートだなという印象だった。振りかざした拳が見えない壁にぶつかるでもなく、弾かれるでもなく、重たい空気にゆっくりと沈み込んでいくような。不気味で不可解な感触が忘れられない。その拳に無限の概念がねっとりと絡みついたような気さえして、傑の上着で手を拭ったら硝子が分かるわあと零した。気味悪いよね。続けて言われたそれにそうなんだよねキモイと返せば、不満げな顔の悟に言い方あんだろと凄まれた。傑は私が手を拭った部分を掌で撫でたあと、私の肩にべっとりと塗り返してきたっけ。今はただ懐かしむことしか出来ない、ちょっと美化された、青春の一幕。
「……なあに、どうしたの」
眼前の悟の顔は、いわゆる童顔という部類のせいかあの頃からあまり変わっていない。けれど彼は私の掌に大人しく頬を圧し潰されながら、にこにことしている。昔の悟ならなんて言うかな。ンだよ、って怒られる可能性が2割。そもそも無下限を使われて頬を触らせてもらえない可能性が、8割。
目隠しではなくサングラスを身に着けた悟と、彼に降り注ぐ木漏れ日の眩しさや芝生の青さが、私の心に憧憬のひとつ向こう側にある感情を呼び起こさせてしまった。気まぐれにこんなところで雑談を始めてしまったのが良くなかった。その場におあつらえ向きにベンチがあって、自然と並んで腰かけてしまったのも、良くなかった。
「…悟、優しくなったなあと思って」
教鞭を取る悟なんて想像もできなかった。あのまま成長して、荒っぽい大人になって、最強の名の通りの戦い方をして界隈をブイブイ言わせるものだと思っていた。それが今や“僕”だなんて一人称を用いて、このほっぺたの触り心地のように柔らかい喋り方をする。悟はサングラス越しに睫毛を伏せて、穏やかに微笑んだ。
「そう見えてるなら良かったよ」
そんな言い回しも、表情も、すべて昔の悟には無かった。アァ?ってガラの悪い声で訊き返して、威嚇するように片眉を上げて六眼を爛々とさせながら俺は元から優しいんだよってイジメっ子の顔をするのが五条悟だった。どこがだよって笑うのが硝子ちゃんだったし、優しかったことあった?って煽るのが私で、そんな時、柔らかな物言いをするのは。
記憶の隅で、黒い髪が翻る。
ああ、そうだった。昔の悟は、むっとしていてもオラついていても別に良かったんだ。彼の代わりに目上の人と丁寧語で話し、年下の子に怖がられないような言い回しをしてくれる相棒が、あの頃の彼にはいたから。ふたりは、ふたりで最強だった。今の悟は、その役目を自分自身で負わなくてはならない。もう、あのひとはどこにも居ない。
「なんでそんな顔すんの?」
喉に刺さった魚の骨みたいにずっとそこにあった違和感が、するりと解けていく。そうしたら逆に悟の柔らかな物言いが哀しい何かに見えてきて、たぶんいま、私は泣き出しそうな顔をしてしまっている。そうして凹んだ私を茶化すみたいに笑ってくれるのも、かつては夏油傑の役割だった。私が、もし。悟の背を護れるくらい強くなれていたなら、悟が背負わなくてはいけないものを、ひとつでも肩代わりできただろうか。
「無力でごめんね…」
「え!?今更!?そんなの十年前から知ってるよ!?」
私の切ない気持ちを鷲掴みして天高く放るようなテンションで、悟がわざとらしくびっくりした声を出した。ちょっと、今、シリアスなこと言ったんですけど私!きっと今の言い方には私がこれ以上泣いてしまわないようにという配慮も、ある、多分、いや分かんないな。シンプルに馬鹿にされたかな。どちらにせよ涙は引っ込み、代わりに眉間には皴が寄った。
「そういうとこだよ…!」
「オマエもそういうとこだよ」
ずいっと顔が寄って来て、私は咄嗟に身を引いた。悟のほっぺに置き去りにしてしまった右手は手の甲側から悟の右手に包まれてしまい離脱が叶わない。サングラスのブリッジが悟の鼻筋を少しだけ滑り落ちて、白い睫毛と青い瞳が僅かに露わになる。ていうか、オマエって、久しぶりに呼ばれたような。
「いいんじゃないの、そろそろ。今の僕を愛してくれても」
この男は、歯の浮くような台詞を吐いても許されるタイプの顔をしている。挙句に捕えた私の掌に頬を摺り寄せて甘えるような顔までするものだから、ときめきを通り越して腹が立つ。
「なんで愛されてる前提?」
「ノリで肯定するかなと思って」
ほら、そうやって誤魔化すばかりで確実な言葉をくれようともしない。昔から、惚れた?だの、見蕩れてた?だの、思わせぶりな言葉と行動を繰り返すだけ繰り返して動揺する私をオモチャにする。心にも無下限張ってますかってぐらい、本心には触らせてくれない。
ノリで肯定なんてしたが最後、悟は私が死ぬまで“僕のことが好きな癖に”と揶揄ってくるに違いない。ほとほと嫌気がさしていた私は、悟をあしらってしまおうと口を開いた。
「悟は」
そして、出だしを盛大に間違えた。血の気が引いて、視線を足元へと逃がす。違う、間違えた、私の莫迦。これだけは確かめてはいけないからと、口には出さずにいたのに。十年間。もしかしたらという淡い希望で保っていた恋心を、自分で叩き割ってしまわないようにしていたのに。
「…いいよ」
吐息みたいな、静かな声が降って来て、私は慌てて視線を上げた。悟がサングラスを外し、改めて私の顔を見る。否、見られているというよりも、覗き込まれている。私は六眼を通して世界を見たことが無いので分からないけれど、私が絶対に言うまいとしてきたそれも、恐らく悟には既にお見通しなのだろうと思った。
「いいよ、訊いて。答えはずっと昔から用意してる」
蒼穹のような双眸が、嘘みたいにまっすぐ私を貫いて逃げ道を奪った。そんなことを言われたら、期待してしまう。悟に届かず、無限のなかに沈んでいく拳の感触が蘇る。無限の隔たりが薄っぺらいのに分厚くて、届かないくらいならと私は諦めきっていた。揶揄ってくれる距離感が心地よくて、私にたくさん意地悪を言うあなたが好きだった。
十年越しの失恋が怖い。けれど、昔から私に用意されていたというその答えが気になって、私は遂に唇を開いた。
「悟は、どうなの」
惚れた?と訊かれるたび、莫迦じゃないのと眉を顰め続けるばかりで、私は一度もこうやって聞き返すことが出来なかった。
瞬間、悟が笑う。あどけない、子供みたいな笑い方。私が恋した悟がそっくりそのままそこにあって、彼は何一つ変わっていないのだと知った。心臓の破裂する音が肋骨の内側で響いて、どくどくと泣き喚いて暴れまわる。温度のない無限を貫いて、向こう側へと指先が届くような、漠然としたイメージが脳裏に浮かぶ。
「もちろん、に惚れてるよ」
柔らかな、あの頃にはない言い方で悟がそう言った。白い頬が今一度私の掌に押し当てられる。さっきよりもそれが熱いのは、気のせいではなさそうだった。今まで自信満々に私を見ていた青い瞳が、ふと右下あたりへと逸らされる。睫毛の影が、木漏れ日の中で瞬いた。
「…埃かぶるとこだっただろ」
少しむくれたその言い方は、昔の悟そのままだった。
君との間に横たわる無限の隔たりについて
2020.11.10