あの超絶多忙な五条悟が「ヒマすぎる」と天井を仰ぐので、私は特に何も考えずに散歩を提案した。彼の相棒である夏油傑は先日取り込んだ一級呪霊についてなんやかんやあるとかで京都校に呼び出されているし、私の仲良し家入硝子は急患の対応で明日の朝までは処置室から出て来れない。互いに相方を欠いた私たちは適当にドラマやニュース番組をザッピングしつつ消灯までの時間をたらたらと過ごしていたが、五条が思いがけず「いいね、散歩」と前のめりな姿勢を見せるので、私たちは揃ってソファから腰を上げて防寒具を取りにそれぞれの部屋に戻ることになった。
 寮の出口で、見慣れないダウンジャケットに身を包んで私を待つ五条に少しだけときめいてしまったことは永遠に内緒にしておきたい。

「オマエそれで寒くねーの?」
「寒くないよ、大丈夫」
「ん」

 しかも私の服装に気を回すだなんて、らしくない。そういえばこんな風に五条と二人で出かける機会が任務や実習以外に無かったことを思い出す。今更、なんだか、こう、緊張してきてしまった。入学した頃に比べ、すっかり見上げるようになってしまった彼の横顔を恐る恐る眺めればその耳の端に赤色を見つける。五条は私を待っている間に、随分と冷やされてしまったらしい。

「五条こそ寒いんじゃない?」
「ヘーキ。とりあえず適当に歩くか」

 紺色のマフラーの上から、彼の吐いた言葉がふわりと白く色づいて霧散する。すっかりそんな季節だなあと、私もまた白く霞んだ「そうしよう」を吐き出しながら彼の横を歩き始めた。外出届は出していない。でも、一緒にいるのが五条なのでなんとなく大丈夫そうな気がした。

* * * * *

 まあまあ予想はしていたけれど、私たちの会話にはまるで色気がない。暗い森には正真正銘の“夜の帳”が下りていて、この薄暗さがどうにも私たちに戦いの記憶ばかりを呼び起こさせる。あの森で戦った呪霊なんだけど。そういや昨日の任務でさ。一昨日また同じところで被害起きたっぽくて。ああ近々任務入るかもなソレ。私の術式だと近接がさあ。分かる、オマエはもうちょっとフィジカルを――
 五条が私に夜蛾先生みたいに指導を行おうとして息を吸ったとき、彼の向こう側にきらめきが見えた。咄嗟に私が「あ」と声を漏らす。今しがた呪霊の話ばかりしていた五条は、大層動揺した様子で「あ!?」なんて声を荒げて恐ろしいまでの勢いでそちらを振り返る。

「…なんもいねーじゃん」
「っふ…ごめ、…池が見えて…んっふふ…」

 あんなに五条がびっくりするとこ、初めて見た。笑ったら怒られるのは分かってるのに、マフラーに口元を埋めても笑いが噛み殺しきれず肩が小刻みに震える。案の定、五条の掌が夜空に翻ったと思ったらぺちんと私の頭を叩いた。音が派手な割に、そんなに痛くない。ツッコミの高等技術だ。

「紛らわしい言い方すんな」
「ごめんって…。結構歩いてきたんだね、私たち」

 息を整え、笑いをなんとか仕舞い込みつつ、五条の向こう側を覗き込む。月明かりを受けて池がきらきらと輝いている。あの小さな池を車の窓から見下ろすことはあれど、こんな風に見るのは初めてだ。もうちょっと近くで見たいな、と思ったときには五条の足がそちらに向かって動き出していて、気が合うなあと思ってしまった。こんなところまで話に夢中になって歩いて来てしまうくらいだから、私と五条の相性は悪くないのかも知れない。…まあ、話題は可愛くなかったけど。

「……わあ」

 近くで見た池は、思いがけず綺麗だった。元々高専が人里離れた立地ということもあり、目視できる星の数が多い。冬の空気は澄んでいるから星空がいつもよりも近くて、水面に映ったそれらがそこに小規模な宇宙を広げている。

「綺麗だねー…」
「…そーだな」

 五条にも綺麗という感性はあるらしい。そこで私は、今ならずっと思っていたアレができるんじゃないかと思ってそわそわしながら五条を見上げる。五条は私の様子を感知してか、気味が悪そうに片眉を上げると私へ視線を向けた。

「あのさ、五条の無下限であの上歩けたりする?」
「あー……できる、な。できる」

 無下限術式。自分と相手の間に無限を作り出す、五条家相伝の術式。足の下にそれを展開すれば空が歩けるかも知れない、と彼が零したときから羨ましいなとずっと思っていた。その要領で水面も、と思ったらやっぱりできるらしい。頷いた五条に私の期待が高まる。そんな私の眼前に、ぶっきらぼうに彼の大きな掌が差し出された。

「…俺の術式は」

 続きを待たずとも、言わんとしていることが分かった。私はそれに命を助けてもらったことが何度かある。ポケットにずっと入れっぱなしにしていた右手を、ゆっくりと引き抜いた。

「……触ってる人までが有効範囲」
「そういうこと」

 肯定の言葉を聞きながら、五条の掌に私の左手を重ねる。こんなにも寒いのに、そこだけがやけに暖かくて落ち着かない。握手とは違う握り方で、五条の手が私の手をぎゅっと握る。私も平静を装って、これを離したら最悪夜の池にポチャンするから仕方ないよねと自分に言い訳して、強めに握り返した。五条の手は、思ってたよりもずっとごつい。

 五条の爪先が、そろっと水面に差し出された。掌越しに、彼が繊細に呪力を調節しているのが伝わってくる。それがある一点で凪いだと思ったら、腕を引かれた。二歩、三歩と水の上を渡る彼の半歩後ろにくっついて、私もまた知らないうちに水面を歩いている。四歩、五歩、六歩。私たちの靴底から波紋が渡り、真っ白な月がぐにゃりと歪む。それはあまりに現実離れした、夢のような景色だった。

「すごい…本当に歩いてる…」
「さっきみたいなのはナシな。俺の集中力で今浮いてんの忘れんなよ」
「あっはは!思い出させないでよ!」

 すごく驚いた顔の五条を思い出して、つい大声で笑ってしまった。私の足元から大きめの波紋が渡って、それを最後に私たちはその場に立ち止まる。波紋が岸について、ぴちゃんと軽く跳ねた。静かになった水の上に、星と月と夜の森と、手を繋いだ私たち。空を仰げば、降り注がんばかりの星空。絵本の挿絵みたいで、近頃めっきり沈黙していた私の“少女”の部分が両腕を振り上げて喜ぶのが分かった。ロマンチックだ!

「すごいなー…上も下も星空だ」
「少女漫画かよ」
「たまにはいいじゃん、少女だもん」

 私は呪霊と戦っている。明日も死地に赴くし、今朝の任務で負った擦り傷は未だに痛む。だけど、たまにはこうやって思い出したい。私だってときめきたいし、恋もしたい。根本は普通の女の子、なのだ。
 五条の手が、きゅっと一層強く私の手を握った。

「……悪くねーな、オマエと二人ってのも」
「それは光栄ですね」

 五条と夏油、で最強コンビ。その片割れに悪くないと認められて、光栄以外のなんと言えようか。五条の横顔に視線を向ける。サングラスの脇から覗いた青い瞳と意図せず目が合って、私がびっくりするよりも先に視線を逸らされてしまった。

「…五条はさあ、今後口説きたい女の子が現れたらコレやった方が良いよ」
「は?」

 今の目が合った瞬間、間違いなく私はきゅんとした。怪訝そうに私を見下ろし直す五条の顔に、人差し指を突き付ける。

「好きな子連れ出して、水の上をデート。五条にしかできないデートじゃん、最高だよ。それで、口説き文句のひとつでも言えたら天才」

 私の言ってる意味が分かってるのか、分かってないのか。ぽかんとした口元が間抜けで、その目元も覗いてやろうと五条のサングラスのブリッジに指先を引っかける。その瞬間、足元がぐわんと揺らいだ。「わ!?」悲鳴が漏れる。五条の手が私を慌てて引き上げて「ッ、!!」息を呑むような音と同時に、抱きすくめられた。
 靴下がちょっとだけ濡れて、冷たい。押し付けられた五条の胸板はマラソンしてるみたいにドッドッドッドと忙しなく震えていて、危うく池に落ちかけた私は縋るように彼の背に腕を回してしまっている。ああ、びっくりした。落ちるかと思った。

「…なにに動揺したの、今」
「……べっつに動揺してねーよ」
「絶対嘘じゃん」

 今の無下限の調節ミスは五条の精神状況がモロに影響しているに違いない。足元がしっかりと水面の上についていることを確認しつつ、身体を離して五条の顔を見上げた。ズレたサングラスの上から、ガラス玉みたいな瞳が困惑ともつかない曖昧な色を湛えて私を映している。

「オマエさあ……」

 五条の右手が伸びてきて、私の頬を柔らかくつねる。白い睫毛がふわっと伏せて、彼の表情に悪戯な笑みを浮かび上がらせた。青白い月光のなかで見上げるそれは妖精かと思うくらい美しく、そういえば五条がとんでもないイケメンであることを今更ながら思い出した。

「自分が口説かれた自覚ねーだろ」

 自分が、……えっなんて?
 瞠目した私に舌打ちをして、五条が身を翻した。さっきよりも大股で水面を渡り始めた彼の後ろを、小走りになりながらついて行く。速い、速い。脚が長くてコンパスがでかい。

「え、ねえ、五条、それって。さっきの、悪くねーなってやつ?」
「解説求めんなアタマ悪ぃなちったァ考えろ帰るぞ」
「まってまって情報量多い」

 一呼吸に四単語は多い、処理できない。それでも五条が私をあの最高のロケーションで口説いたらしいという事実は揺るがなくて、私の前を行くこの人の身長の高さや白くてふわふわした髪にまで胸がときめきを覚え始めてしまった。足が地面に着いて、ざっと土を踏む音が鳴る。私の足の裏にも、土を踏む柔らかい感触が戻って来た。五条が私をちらりと振り返り、ふはっ!と息を漏らして笑う。その笑顔と漏れた白い息が眩しくて、くらりとした。握り合ったままの手には、手汗をかき始めている。どうしよう、どうしよう。心臓がいたい。血の巡りが早い。

「あの、手…」
「ヤダ」

 水面離れたから離してって言おうとしたのに、言う前に拒否されてしまった。どきどきする。息が切れる。どこか上機嫌になった彼の耳はやっぱり赤くて、私の頬も今同じくらい赤いのだろうなと思った。この気持ちを言い表す言葉が見つからず、はあ、と息だけを吐く。今の吐息は、薄っすらピンク色をしていたかもしれない、と思った。

きみとふたり星屑のうえ

(できればこのままずっと!)

2021.04.10