夏油傑の髪は綺麗だ。艶よし、切れ毛なし、痛みなし。さぞ良いシャンプーをお使いなのだろうなと思って好奇心で銘柄を尋ねてみたところ、傑はニコニコ笑いながら小首を傾げた。「気になるなら、使ってみるかい?」私はすぐさま頷いて、早速それを借りる約束を取り付けた。

 その晩にお風呂上がりの傑から手渡しで受け取って、初めて使ったそれは当たり前なのだけれど非常に傑の匂いがした。お風呂で、全裸で、シャンプーで泡まみれなのにすぐ隣に傑がいるみたいでちょっと落ち着かない。でもやっぱり仕上がりは上々で、ブローした髪の一本一本がきらきらつやつやと輝いているような気がした。さすが、髪伸ばすだけあってこだわってるんだなあ。関心すらしてしまいながら傑にシャンプーを返したら、傑も私の反応を喜んでくれた。「またいつでも貸すよ」私はその言葉に素直に甘えて、また近いうちにこのシャンプーを借りようと決めた。いや、借り続けるのも悪いかな。傑と分かれ、部屋に戻る道すがらで携帯電話を取り出してあの銘柄を調べる。…んん、シャンプーとトリートメントで…六千円…。

「あ?」

 急に、ガラの悪い唸るような声と共に右腕を引かれた。携帯の画面に意識を落としていた私は前後不覚に陥り、びっくりしながら歩みを止める。肘のあたりを掴む、大きな手。それを辿るようにして私を引き留めた相手を見上げたら、私と同じくらい見開いた青い瞳と目が合った。白い睫毛がバサリと音を立てそうなくらい、大きくまばたきをする。

「えっ、なに」

 私が驚くのは分かる。歩いてただけで急に腕を引かれたから。でも、悟も同じくらい驚いてる顔をしてるのが分からない。動揺したまま尋ねたら、悟が私の肘をそのまま自分の方へと引き寄せた。壁みたいに広い胸板に、彼に比べてだいぶ弱々しい私の身体が元気良く衝突する。

「うぶっ!なに!」

 私が声を荒げても悟は何も言わないまま、顔を俯けて私の髪に鼻を埋めた。いくらお風呂上がりとは言え、急に乙女の頭を嗅ぐなんて不躾きわまりない。私はさらにびっくりして、悟の胸を突き飛ばした。悟の身体はぐわんと揺れるだけで、解放してはくれなかった。

「…傑の匂いじゃん」
「そうだよ」
「なんで」

 なんで?急に饒舌に喋り出した悟を、訳が分からないという顔で見上げる。至近距離で私を見下ろす悟もまた、訳が分からないという顔をしている。

「借りた…から」
「シャンプーを?」

 そう。傑の艶髪が羨ましくてシャンプーを借りた。事実通りのそれに頷いてみせるも、悟は私の腕を掴んだまま離してくれない上に「そんだけ?」なんて圧を強めてくる。近いし怖いし顔が良い。今の情報のどれが悟の心の琴線に触れてしまったのか分からなくて、私は思いつくままに喋ることにした。借りた、っていうのがなにか、許せなかったのかも知れない。

「あ、でも良い感じだから自分でも買おうかなとは…」
「は?」

 しまった地雷だった。一層低くなった悟の声に、肩を竦めて気持ちばかりの防御姿勢をとる。本当に、なにに怒られているか分からない。きっとこんな時はあれこれ考えてしまわず、尋ねてしまった方がいい。私は軽くツッコミを入れるような気持ちで、悟の胸を押し返した。

「いや、それ何ギレ…?」
「ハイ」

 今度はいやにあっさり離してくれた。けれどすぐに、ボトルをふたつ押し付けられる。よく見れば悟の手元にはお風呂セットが提げられていて、これから浴場に向かうつもりだったらしいことが伺えた。…けど、このお高そうなシャンプーをなぜ私に?

「それやるから洗い直してきて」
「……髪を!?」
「もしかしてシャンプーで身体も洗う派?」

 オッサンじゃん、と追撃をかましながら笑う悟に、慌ててシャンプーとコンディショナーを突き返す。たった今お風呂に入ったのに、もっかい髪を洗うなんて馬鹿な話があるものか!しかも今の私は傑のお陰で髪のコンディションがとてもいい。…のに、悟はボトルふたつを受け取ろうとはしてくれない。

「別にシャンプーくらい私の勝手で…」

 文句を言ってる最中に、ボトルふたつが再び私へと押し遣られた。悟が私の手を掴んで、無理矢理にボトルたちを握り込ませる。抗おうにも力の差が大きすぎて、結局私は素直に五条悟の御用達シャンプーとトリートメントを抱きかかえさせられてしまった。悟がぐいと身体を折り畳むようにして、私の顔を真上から覗き込む。空みたいな瞳が、爛々と輝いている。

「いーから使えよ。オマエが傑と同じ匂いしてんのキモチワリーから」
「だからなんで」
「それ使うまではオマエとは口利きマセーン」

 気持ち悪いと思う理由くらい話してくれてもいいものを、悟はさっさと私に背を向けると男子寮の方へと向かって行ってしまった。廊下に、シャンプーを抱えた私だけが取り残される。…明日の朝、シャワーでも浴びるかな。抱え直したボトルのノズルから、悟の香りが漂った。


* * * * *


 ふとの肩に触れた傑が、表情を凍らせたのがここからでも良くみえた。俺はサングラスを直す素振りで口許を隠しながらほくそ笑む。あー、わかるわかる。そりゃそんな顔もするよな。自分と同じ匂いになってる筈の好きな女から恋敵の匂いがしたら、ビックリもするだろうな。昨日の俺も同じだっつーの。からオマエの匂いがして心臓止まるかと思ったわ。フザケンな。勝手にマーキングすんなよ。まだ誰のモンでもねえんだわ、ソイツは。

 俺の視線に気づいた傑が、唇を薄く動かす。「…やられた」眉間に皴を寄せ、苦笑いを浮かべて俺のことを睨むでもなく眺めている。だから俺は遠目でも分かるようにできるだけ唇を大きく動かした。「ざまあ」…でも、まあ、アイツの髪から自分と同じ匂いすんのは結構クるよな。その気持ちだけは、よく分かる。

「陰湿だな」

 俺の後ろを通りがかった硝子がぽつりと零す。

「なんのことか分かんねーな」

 俺は適当に答えながら、の髪が風に弄ばれる様をぼんやり眺めていた。俺の髪も揺れて、いつも通りの匂いがする。なんとなくそれが擽ったくて、にやけそうになる唇を隠すように俯いた。やべえ。コレ、ハマるかもしんない。

シャンプーでもめる話

(※傑と悟が)
2020.11.10