「さすがホークス、社交辞令もお上手ですね」

 動揺をぎゅっと最高圧縮率で腹の奥へと押し込んで、私は涼しい顔で微笑みながらアイパッドをホークスの手元へと差し出した。彼は分厚い手袋に包まれた指先で、私の手からそれを攫う。

「このご時世、ヒーローに社交性は必須ですからねえ」

 社交辞令であることを暗に認めながら、彼の視線はもう液晶上の文面を追っている。ああ、危なかった。彼の「俺とランチなんてどうですか?」なんて軽口を真に受けなくて良かった。少しどきりとしてしまったけれど、そこは私も公安の一員。上手く隠せていたと信じたい。

 窓の外に目を遣る。駅前にはホークスが起用された腕時計の広告が大々的に貼りだされ、先程から老若男女問わず多くの人が足を止めてはスマホのカメラを向けていた。速すぎる男だなんて異名を付けられているが、彼の魅力は『速さ』だけに留まらない。事態収束までのスマートさ。人々への優しさ。そして、誰ひとり見捨てない確固とした正義感。清濁併せ呑まねばならないケースも少なくない公安に於いては、彼の存在が稀に眩しすぎることがある。いや、主語が大きすぎた。私にとっては、の間違いだ。九州に配属されてからホークスと連携を取ることこそ増えたが、ランチデートに誘われるほど近しい仲になんかなっていない。そこまで思い上がれない。相手は十代から二十代の女性を中心に大人気のスーパーヒーロー。ホークスなのだ。

 ランチまだなんですか? と訊いた手前、まだです、という回答をヘェだけで済ますことに気後れして、適当に誘ってくれたに違いなかった。気遣いありがとうホークス。一瞬、良い夢が見れました。報告書の承認欄にさらさらっとサインを書いたホークスが、タッチペンと併せてそれを私に差し出す。私は受け取って、サインに誤りがないことを確認しながら自分のデスクへと戻ろうと――四歩ほど歩いて、ホークスが雛鳥よろしく私の後ろをついて来ていることに気が付いた。足を止める。ホークスの足音も止まる。振り返れば、きょとんと丸まった蜂蜜色の瞳と目が合う。なんであなたがその顔するの。

「……えっと……?」
「ランチ、まだでしたよね? それ仕舞ったら一緒に行きましょ」
「んん……?」
「あ、ホントに社交辞令だと思いました? すみませんね、つい売り言葉に買い言葉っていうか。さんがここに配属されてから結構経つのに、そういう交流一回もしたことないでしょう。俺たち」

 よくもまあ、そんな言葉がするすると。交流がないのは当然といえば当然だ。私は公安を隠して編集社に潜入している身――今日もホークスに報道に関する相談をするていでオフィスに来てもらい、公安への報告書の修正部分の確認をしてもらった――だし、彼は少しでも街を飛び回れば黄色い声があちこちから響く人気者である。おいそれと交流して妙な関係を疑われてしまうのも困る。公安だからね、と言いかけた私の動作を遮るように、ホークスが身体を折り曲げて私を下から覗き込んだ。ばさ。真っ赤な羽根が視界の隅で揺れる。

「っていうのは全部タテマエで。俺が個人的にさんとご飯食べたいだけなんですよ。どうです? ランチミーティングってていで、ここはひとつ」

 目の前で、お願い、とばかりに手を合わせるイケメンに眩暈を覚える。自分の立場がどうとか以前に、こんな男にこんなお願いの仕方をされて断れる独身女性が存在するのだろうか。ランチミーティング。確かに、彼を呼びつけた理由と時間帯的な都合を合わせれば、弊社の人たちも違和感なく私たちを送り出してくれるだろう。数秒の沈黙。ホークスはお願いの姿勢を崩さない。

「……わかりました」

 結局、折れたのは私の方だった。じゃあ早速! とどこかに電話を掛け始めたホークスを追い抜いて会議室を後にし、上長に「ランチに出ます」と報告をする。「あれ? ホークスはどうしたの?」「一緒です」そう応えた私に、近くの席の同僚が「ホークスとランチ!?」と叫んで両肩を跳ね上げた。わかる。そういう反応にもなるよね。お仕事の話してくるだけだから、と曖昧に笑った私の肩をホークスが抱いて「お借りしますね」とか言うものだから、オフィスを出るまでにアホほど注目を浴びることになってしまった。流石人気ヒーロー。話題に事欠かない男である。

 * * * * *

「この仕事してると、いつ死んだっておかしくないでしょう」

 晴れやかな昼下がりの青空と、美味しくて豪華な焼き鳥ランチ。それらに不釣り合いなほど重たい話題を、これまた不釣り合いな明るさで喋り出すから、私はどうしたものかと困惑した。ホークスの目元がそんな私の顔色を見て、にこ、と笑う。安心してください、とでも言いたげだった。ゴーグルをしていないせいか、彼の表情はいつもよりも豊かな気がする。

「そうなった時に、あーさんと飯いっときゃ良かった、ってなるのイヤだなと思って」

 なるほど、そういう文脈になるのね。ランチコースのデザートとして提供されたバニラアイスを口に運びながら、私はふうんと鼻を鳴らした。正直ちょっとどきっとしてしまったけれど、相手は社交辞令の鉄人だ。思わずそこに色恋めいたものを期待してしまいそうになるが、きっとそういうことじゃない。だからクールを装って彼の発言を受け流そうとしたのに、アイスを掬おうと視線を下げた先、テーブルの上に彼の手がすっと出てきてトントンと木目を叩いた。注意を引かれるがままに、彼の眼へと視線を動かす。そこにあったのは、会議中かと思うくらい真剣な眼差しだった。

「……ちゃんと本心ですんで、これ」

 だから真剣に聞いてくれ、ということらしい。ウソだ、と咄嗟に思ったのは現実が信じきれない卑屈な私で、もうひとりの私が心のうちで卑屈な私をビンタする。我らが一等星のホークスが本心だって言ってるのに、何を疑うの! 卑屈な私が頬を押さえて首を振る。だって! あのホークスが後悔したくなくて私のことを食事に誘ったなんて! そんなの、まるで……。
 ……まるで、恋でもされてるみたいだ。
 脳裏に浮かんだ甘やか過ぎる妄想を掻き消して、でも死ぬ前に思い出すくらいならって相当じゃない? なんて今一度期待をしたりしてしまいながら、私は今の沈黙を満たせるだけの言葉をかき集めた。調子に乗らず、期待もせず、でも感謝を伝えられるような言い回しを、なにか。

「わ、……私にとって、ホークスはその……すごく、遠い存在で」

 喋り出しに失敗した。本心ではあるが、何が言いたいのか分からない。すぐさま話題の進路調整をする。

「……ホークスの貴重な一時間を、私にくれてありがとう」

 無理矢理に感謝で締めくくったら、ホークスがクックッと声を殺すようにして笑った。彼の表情に笑顔が戻ったことにひとまず安堵して、私は半端な高さに掲げ続けていたスプーンをテーブル近くまで下ろす。自覚は無かったが、かなり肩に力が入っていたらしい。

「文脈。めちゃくちゃですよ」
「そこはもう勘弁して欲しいです……自分の人生に起きると思ってなかったイベントだからこれ……」

 これも本心中の本心だ。我らがスター、ホークスと直接仕事ができるどころかランチに誘われて後悔したくなかったとまで言われる。もしもこれが全て夢で、この瞬間に目を覚ましたとしても、私はきっと納得してしまう。そのぐらい、この状況はラブロマンスのワンシーンとして出来過ぎている。……が、私の手の中で役目を果たしきれない銀色のスプーンが体温を吸って生温くなっている。どうやらこれは夢ではなさそうだった。
 視界のなかで、ホークスのシルエットが崩れるような形に動く。食器類を脇に除けた彼が、テーブルに頬杖を突きながら首を傾げたらしい。

「ちょっとだけ食うと余計に腹減ること、ありません?」
「えっまだ食べるの?」
「そうじゃなくて」

 ランチ、結構な量だったけど!? 驚いて声を上げたら、ホークスがイヤイヤと首を振った。柔らかな金色をした前髪がゆるゆると揺れる。

「欲しがりたくなるっていうか。欲張りになる気持ち」

 そう言いながらこちらを覗き込む蜂蜜色は、なんだかちょっと甘たるいというか、甘えているようなとろけ方をしていた。そういうお顔も隠し持ってたんですか……。それとなく手元に視線を逃しながら、私は首を傾げる。

「分からなくは……ない、です?」
「そんな感じなんですよね、今」

 そんな顔で、そんな優しい声で、そんな感じと言われましても。そろそろ心臓がもたない。私の心臓だけがギャーと叫び出して肋骨を割って飛び出した勢いで窓を突き抜けて遥か彼方まで飛び去ってしまうかもしれない。そしたらホークスがびっくりしましたとか言いながらも私の心臓を掴まえてきてくれるかもしれない。
 どうしようもない妄想はさて置き、私は一旦、食べ足りないんですか? みたいな顔で手元のアイスを差し出した。ホークスがそれを見て、腹を抱えて笑う。

「アッハッハ! 違いますって!」

 なあんだ! みたいな顔で、私はどろどろになったアイスをスプーンで掬って口の中に流し込んだ。ああ、甘い。いま、この空間にあるものすべてが、食道を焼いてしまうんじゃないかってぐらい甘い。

さんのお名前、さんで合ってます?」
「! あ、あってますが……文脈……」

 急な話題転換に驚いて、文脈どうなってるんですか、と言いかけてやめた。私もさっき、ハチャメチャ文脈で発言したばかりなのだった。人のことをとやかく言えるような立場に無い。
 ホークスはくすぐったそうに肩を竦めてニコニコ笑った。

「そこは勘弁してくださいよ。俺もこんなの初めてですし、こんなイベント起きると思ってなくて浮かれてるんです、さん」

 あ、やられた。見事な意趣返しに遭ってしまい、挙句には名前で呼ばれ、上がった体温を下げようと残りのアイスを口に放り込んだけれど、それは冷たくも固形でもなく、ひたすらに甘いだけだった。厭になる。こんなの、どうやって言い訳したらいい。どんなふうに逃れたらいい。彼をこれ以上好きにならないために、私はどうしたらいいのだろう。
 空っぽになった器を見て、ホークスがひゅんと赤い羽根を一枚飛ばした。それはテーブル端に置いてあった伝票を浮かし、彼の手元へと迅速に運んでくる。

さん、俺が連れ出したのでここは俺に払わせてください。あとさんの斜め前のデスクに座ってた男性、多分さん狙いなので気を付けてください。肩抱いたときに剛翼がちょっとだけピリッとしたんで」

 本当は労わりも兼ねてこちらでお支払いしたかったけど伝票を取られちゃ仕方ないなとか、斜め前のデスクの同僚からちょっとヨコシマな目を向けられていることには気付いてたよとか、言いたいことはあるのだけれど彼の声が私の名前を連呼するので思考がまとまらない。

さん?」

 ダメ押しの疑問符。私は耐え切れず、抑えて、という意味を込めて懇願するように彼を見た。

「……すごい連呼しますね、私の名前」

 ホークスの目が、ぱっ、と開いたと思ったら、すぐに無邪気な笑顔になった。誕生日ケーキを目の前にした子供がちょうど、こういう笑顔を浮かべるよなと思った。

「ハイ。嬉しいので」

 …………うん。嬉しいならしょうがないか。
 私は「そうですか」と答えるに留めて、店員さんを呼ぶホークスの声を聞きながら窓の外を眺めた。こんなの初めてですし、と彼は言っていたっけ。もしも彼が抱いている感情が初恋なのだとしたら、私はどうしてあげるのが正解なのだろうか。舌の奥に残った甘味を流し込もうと緑茶を一口煽る。だめだ、なんか、緑茶すらあまい。

ご機嫌ハニーメルト

(もっと知りたい、もっと近づきたい)
2021.11.05