「私のはじめてをもらってください」

 思い切って言ってみたら、ホークスさんはキョトンと双眸を丸めた。緊張で掌に汗をかきながらそれを見た私は、本当に鳥みたいだ、と思った。公安直属の若年ヒーロー育成プログラム。それの先輩にあたる彼が「訓練所卒業のお祝いになんでもあげるよ」なんて魅力的なことを言うから、本当に文字通り“思い切って”自爆も嘲笑も覚悟で飛び込んでみたのだけれど――思ったよりもナシでは無さそうで、ついつい前のめりになった。ホークスさんが眉毛を片方だけ上げて、ええと、とか零しながら丁寧に言葉を選んでいる。一言目がだめとか嫌じゃないだけで、私の心が勝手に期待で膨らみ始める。

「……そんなキラキラした目で見られても困るよ」

 男のひとらしい掌が、困ったように彼の前髪を撫でつける。あの手が、指が、いつか私に触れてくれる日が来ないかなと、ずっと思っていた。そんなふうに困られたって逆にこちらが困ってしまう。私の目がキラキラしているのだとしたら、それはあなたが断らないからだ。ノーだと言わないからだ。いつもみたいにワハハと笑って、そんな冗談言うようになったんだねえ、って言ってくれたら、こっちだってエヘヘとか言いながら笑って誤魔化す算段はついていたのに。
 もしかしたら私はさっき、自分が思うよりもずっと真剣な顔をしていたのかもしれない。私がそんな顔で絞り出すように言う本音を、ホークスさんが笑い飛ばしたり無視したことは一度もなかった。いつかトレーニングが孤独すぎて寂しいと伝えたときも、彼は他の大人みたいに「でも頑張りましょうね」って愛想笑いをすることもなくて。目線を合わせてくれてから「わかるよ」と真面目な言葉をくれた。思えば私がホークスさんに恋慕みたいな気持ちを抱き始めたのはあの時だ。たぶん。ホークスという男のひとは魅力だらけだから、正直自分でもいつ恋に落ちたのかが分からない。いつ落ちていたって、おかしくないのだった。
 彼の指先が不意にこちらへと向けられる。

「えっと、まず、情報の齟齬があったらいけないから確認するけど」
「あ、初めてのセックスはホークスさんがいいですっていう」
「うん、齟齬なかったね」

 私の言葉を遮るようにして言いながら、ホークスさんがしっかりと頷いた。今ので冗談めかしたことを言っておけば逃げられたかも、なんて一瞬考えてから、こんな風に向き合ってくれてるのだから逃げるなんて失礼だ、と考え直した。それから、自分で言いだした癖になんで逃げようとしているのだろう、と疑問に思った。ひとり混乱する私の前で、ホークスさんも混乱している。蜂蜜色の瞳が、訝しげに細まって私の目をじいと見つめた。

「……なんですか」
「…………ハニトラだったりしない?」

 ハニトラ。ハニートラップってそんな略し方するんだ。私はなるべくいつも通りに笑ってみせた。

「アハハ! 身体つかませといてそれをダシに揺すり続けようなんて思ってないですよ」
「それをさらっと暗唱できるのが怖いなあ」
「公安なので」

 そう、私は来月から正式に公安という組織に所属するのだ。ヒーローとしてのノウハウや一般教養と一緒に、人の効率的な殺し方を教わっている。会長は私にそんなことまで教えたくなかったみたいだけれど、大丈夫ですよと伝えて教えてもらうことにした。ホークスさんは賛成したとも反対したとも言わずに、なんかあればなんでも言って。飛んでくるから、とかヒーローを通り越した王子様みたいなことを言ってくれたっけ。やっぱり私が恋に落ちたのはそっちの瞬間だったかもしれない。

「だから、今のうちに貰われておきたいんですよ。大尊敬するホークス先輩に」

 なんにせよ、私がただの女の子でいられるのは今週いっぱいまでなのだった。
 それまでへらへら笑っていたホークスさんの口角が、すっと下がる。だけど眉尻も同じくらい下がるので、どうやら私の期待しているような回答は望めなさそうだった。

「外泊届けは?」
「…………エッ」

 あ、ちがった、真逆だった。事態が思いがけない進展を見せるので、びっくりして声が裏返った。ホークスさんが私の顔を真似るようにして目を見開く。

「エッ、うそ、施設内でするつもりだった?」
「そんな訳ないでしょ!」

 今度は直接的な表現にびっくりして大きな声が出た。ホークスさんが口を大きく開けて、アハハと笑い声を上げる。確かに施設内に宿舎として設けられたこの部屋には、プライバシー尊重のためとして監視カメラや盗聴器は設置されていない――とは説明されているが分からない。でもホークスさんがここまでおおっぴらに喋るのだから、きっと本当に設置はされていないのだろう。それにしたって流石に、こんなところでそんなことには及べない。
 私の勉強用チェアに座っていたホークスさんが立ち上がり、大きな掌でぽんと私の頭を包んだ。

「じゃあ次の水曜でいいか。夜から朝まで予定空けられるようにしとくから、外泊届け出しておいで。俺んちまでって言えば送ってもらえるから」

 そう言って、ホークスさんは器用に畳んだ真っ赤な翼を私に向けると部屋から出て行った。私はベッドに座らせていた身体を、そのまま脱力させて仰向けに倒れた。ばたん。寝慣れたマットレスが私の体重を吸収する。ああ、どうしよう、お願いが、のまれてしまった。水曜に外泊届け出して俺んちおいでって、言われてしまった。やばい。それってつまり、そういうことだよね。
 心臓がサーキットトレーニングをした直後みたいに早い。血液が身体中を駆け巡り、端々にまで熱が灯っていく。見上げた天井は真っ白だったけれど、そこに私に覆いかぶさるホークスさんを思い描いてみる。
 ……えっ!? 無理じゃない!?
 堪えきれず枕に手を伸ばし、顔の上に置いて視界を遮った。これは、大変なことになってしまった。

* * * * *

 ホークスさんがお住まいのマンションは凄まじく綺麗で大きくて、凄まじくセキュリティがしっかりしており、鍵がないとエレベーターすら呼べない仕様だった。リストバンドみたいな端末をピピッとやると、大理石張りのフロントに私の「わあ!」なんて感嘆詞と一緒に反響した。珍しくジャケットも手袋もゴーグルも着用していないホークスさんはそれにケラケラ笑うと「俺も久しぶりにコレやったよ」と言った。彼の部屋には専用の滑走路みたいな出入り口があるんだろうな、とは自然に想像することができた。

 そして彼の部屋は、酸素が薄くなるんじゃないかってぐらいの高層階にあった。

「いらっしゃい。おなかすいてない?」
「お邪魔します、へーき、でし」

 噛んだ。緊張のあまり口が回っていない。さっきまではマンションの無機質な感じが施設に似ていたこともあって比較的普通に話せていたのだが、玄関を開けてもらったらもう、そこからホークスさんの匂いがしてしまって駄目になった。見慣れた靴が何足か並んでいるし、扉を開けておいてくれるホークスさんが妙に近い気がしてどきどきするし、私の後ろで鍵を閉めるがちゃんって音すら私から逃げ場を取り上げるようで、この場に存在するすべてが心臓がばくばく暴れる要因に繋がっている。このままではもたない。命が。

「ならよかったでし。風呂はどうするでし?」

 なのにホークスさんは私の言い間違いをからかってそんな言い方をする。緊張すると笑う性質の私はここぞとばかりに声を上げて笑い、冗談めかしてホークスさんの肩をどついた。薄いインナー越し、普段よりも体温が近くて、呼吸が止まりそうになる。

「は、はいる」

 今度はカタコトになった。そしてどもった。なんで私はこう、緊張をというヤツをうまいこと隠すことができないのだろうか。呼吸深度による心拍の調整や体内酸素量の調整方法は習ったし知っているが、この場で使うべきものでないことも分かっている。ホークスさんが唐突に私の顔を覗き込んだ。金髪がきらめいて、目がちかちかする。

「そんな肩肘張らないで。テキトーに自分ちだと思ってくつろいでいいから」

 にこり。包容力さえ感じる余裕の笑みに、私はといえば頷くことが精いっぱいだった。手元から荷物が攫われ、空いた手で靴を脱ぐ。彼の背からひゅるりと飛んできた赤い一枚の羽根が私の前を旋回して、導くように廊下の中ほどにある扉へと飛んでいった。

「バスルームはそこ。俺ので良ければ使っていいよ」

 剛翼とは便利な個性だとつくづく思う。感心していたら「ヒゲ剃り以外ね!」なんて蛇足も蛇足がリビングルームの方面から聞こえてきたから、今度は自然に笑い声を漏らしてしまった。

「使うワケなくない!?」
「アハハ!」

 笑い声ひとつで人を安心させてしまうのだから、やはりホークスとはヒーローになるべくしてヒーローになった男である。

* * * * *

「それで、はじめてをもらってくださいって件についてなんだけど」
「!?」

 導入が唐突すぎる。ホークスさんにもらった天然水のペットボトルの飲み口から慌てて口を離し、吹き出しそうになった唇に力を込めてきゅっと閉じた。そのまま、信じられない、みたいな顔で隣に座るホークスさんを見上げたら、ホークスさんのほうも私そっくりの顔をした。部屋着とおぼしきジャージ姿――たしか去年の秋にホークスさん自身がコマーシャル出演していたやつだ、そのとき貰ったのだろう――で、ソファの上であぐらをかくこの人は、普段のヒーロー姿よりもちょっとだけアウトローチックというか、端的に言えば柄が悪い。

「いやいや、キミが言い出したことでしょうに」

 まあ、あの、そうなんですけども。私が返答しあぐねていると、洗い立てでいつもよりふわふわになった彼の髪が、首を傾ぐ仕草に合わせてふわんと揺れた。大変だ。いつもかっこいいんだけど、割増しでかっこいい。

「……俺はさ、どっちでもいいんだよ」

 ホークスさんの目が、つう、と鋭い形になった。声音が低くなって、私はつい条件反射で背筋を伸ばしてしまう。この声は訓練中にホークスさんが真面目なことを喋る時の音色そのままだ。ふわふわ浮ついていた気持ちを慌てて回収し、腹の底に押し込め、彼の方へと向き直った。そんな私の鼻先に、ホークスさんの鼻先が、軽く触れる。うそ、速い、気配すらなかった、まって、ち、ちか、い。

「冷たい言い方になるけど、なんでもあげるって言ったのは俺だから」

 ホークスさんの生温い息が肌に触れた。ソファがぎしっと鳴って、私の身体が徐々に後ろ向きに倒されていっていることを自覚する。やがて背中がぴったりソファに寝そべったとき、見上げた視界があのとき思い描えた景色そのままで、ときめきを通り越して三半規管が異常を起こしてくらくらし始めた。

「愛がなくたって抱いてあげることはできる。でもさあ、もっと貪欲になってほしいんだよね。ちゃんにはさ」

 黄色い獰猛な瞳が笑った。いつの間にか私の手の中にあったペットボトルは消え、代わりに湿った熱が絡みついている。彼のてのひら、だった。

「考え直して。こんなところでそんなカード切らなくたっていいんだよ、公安になっても人生は続いてくんだから」

 口では私を諭すのに、瞳の奥には熱が揺らめいていた。確かにこの人は、私を愛していなくてもこのまま抱くことができるのだろう。ああ、なんでちょっと落胆したんだ私は。最初から分かっていたじゃないか。ホークスさんが私になんの感情も持っていなくても、それでもいいから『はじめてをもらってほしかった』のではないか。勝手に過剰な期待をして、勝手にがっかりするな。
 自分を叱責して、それでもいい、と言おうとした。言えなかった。ぴくりとも動かせなくなった手が、乗せられた体重が、向けられた色情が、急に恐ろしく思えてきてしまった。ホークスさんの唇が、私の首筋に触れる。

「ん、ッ!」

 呻き声が漏れた。くつくつと、ホークスさんが喉の奥で笑う。

「……そういうこと。自分のこと好きじゃない男の人って、怖いでしょ」

 ね。と同意を求めながら、ホークスさんが身体を起こした。掌からも熱が逃げていく。私はじんわり水分を蓄え始めた目で、ホークスさんを見つめる。くやしい。でも、今の私に言える言葉はひとつもない。私の恨みの篭った視線を受けて、ホークスさんは困ったように笑った。

「そげんこつ顔せんと、ほら、映画でも……」
「そげ……?」
「あ、ごめん地元の言葉。そんな顔、って意味」

 「恥ずかしいね」なんて言い足しながら早速テレビのリモコンを探し始めた横顔には、焦りも熱の名残もなにひとつ無くて、悔しさが噛み殺しきれなくなった私は起き上がった勢いでぴったりとホークスさんに寄り添った。ホークスさんは「何がいいかな」と呟きながら自然と私の身体を抱きよせて、あやすようにぽんぽん叩く。ちくしょう。いつか抱きたいって思わせてやる。公安になったって、人生は続いていくんだもの。

尊敬じゃなくて恋慕をくれよ

(……ホントに、人の気も知らんと)
2021.11.04