押し開けたドアに何かがぶつかった、と思った瞬間、向こう側から「ッ、た!?」と予想だにしない声が飛んで来た。
 開いたドアには思いのほか勢いがあったらしい。通りすがりにドアをぶつけるなんてこれは失礼なことをしてしまったと、慌ててドアの向こう側を覗き込んだ。そこには思ったとおり、額を押さえて蹲る若い男の姿。けれど彼が顔を上げた途端、長時間のデスクワークで朦朧としていた意識が瞬く間に色を取り戻した。黒い短髪、長めの前髪、生意気な目つきと、白い耳を彩るカラフルなピアスたち。彼はいつも以上に不服そうな顔で、下からわたしをじとりと睨みつけている。

 驚きのあまり喉を突いて出そうになった心臓を空気と一緒に飲み込み、わたしは恐る恐る彼の名を呼ぶ。

「…ひ、かる?」
「……他の誰に見えるんすか」

 彼は低い声でそう応え、額に当てていた手を外すと改めてわたしを睨んだ。前髪の隙間から見える額が僅かに赤くなっている。
 うん、これは間違いなく財前光くんだ。四天宝寺の2年生、財前光くんだ。見間違いようも無い現実を疲弊した頭で何度も確認したあと、わたしは腕時計を確認する。時計の短針は11に近いところを指し示している。わたしは今しがた残業を終えたところだし、彼の背に広がる暗闇とそれを照らすネオンたちから、これが昼の11時であるということはまずない。
 それからもう一度彼の方へと目を向ける。彼は制服にラケットバッグを背負った、まさに“学校帰りそのまま来ました”というスタイルである。
 …ということは、つまり?
 ああ、今日はいつも以上に多くの仕事を任されていたせいか、事態の把握にすら時間が掛かって困る。
 わたしは疲労による頭痛さえ忘れかけている頭に手を遣り、目の前でしゃがんだままの彼にかけるべき言葉を整理する。彼は何も言わず、じっとわたしの唇が動くのを待っている。身じろぎひとつせずに不服そうな視線だけを向けてくる光が、なんだかワンコに見えてきた。なんて生意気な忠犬ハチ公だ、なんて言ったらきっと怒られるんだろうけど。

「まず、ドアぶつけてごめんね。…それで、ええっと、君はここで何を?」

 光は顔を項垂れ、深い溜息をひとつ。
 それから顔を上げて、ひとを小ばかにするようなやり方で小首を傾げてみせた。

「…分からないんすか」
「えー…把握は、できてない、かな」
「…待っとったんすわ。さんを」

 うん、それは見れば分かる。
 …と思わず納得しそうになった自分を慌てて引き戻し、改めて腕時計を見る。夜の11時。彼の部活は、遅くても7時には終わっていたはずだ。あの学校からここまでは30分程度しかかからない、と考えると、光はいつ終わるかも分からないわたしの残業を、4時間近くもここで?
 いつの間にか立ち上がっていた光が、腕時計を見る為に持ち上げていたわたしの手首を攫う。
 ぐい、っと前に引っ張られる力に為すがまま、わたしも彼の後ろを歩き出す。

「帰りますよ」

 有無を言わさぬトーンで彼が言い、つかつかと早足で夜の街を進んでいく。この時間に繁華街を学生服で歩く彼と、それに引っ張られる社会人女性。見ようによっては異様な光景だけれど、誰も気に留めようとはしない。彼に引っ張られるような形で繁華街の雑踏をすり抜けながら、彼の背めがけて、騒音に負けじと声を張る。

「えっ、ちょっと、まっ、待って!光、ずっと待ってたの!?」

 光が先程と変わらぬ不服そうな顔で、ちらりとこちらに視線を遣る。

「あんだけ待たしといて更に人を待たす気なんすか」
「ずっと、って、ずっと!?」
「やかましいっすわ」
「補導とか、されなかったの?」

 そう問いかけたタイミングで急に光が立ち止まり、わたしは思い切り彼の背に激突を決め込んだ。しかし、光は動じる様子も無く赤信号を見上げている。思ったよりも広い背中に、細いわりにしっかりついた筋肉。こういうとき、光もちゃんと男の子なんだなあ、と思う。歳の差のせいか弟のように扱ってしまうことが多いだけに、こんなときどんな顔をしたらいいのか分からなくなる。
 光は信号を見上げたまま、わたしの問いに答える。

「…まあ、声はかけられましたけど。
 家の鍵忘れてもうて帰れんから姉貴待っとるって言うたら、あっさりと」
「ああ、そう…光って賢いというか…なんというか…」
「恋人待っとる、なんて言うたらさんが捕まりますしね」
「それは困るね」

 思わず苦笑いを零すと、光が何か言おうと唇を開いた、ような気がした。けれど信号が青に変わり、彼が前を向いて歩き出してしまったので結局その続きは聞くことが出来なかった。歩くペースが、さっきよりも緩やかなものになる。

「でも、なんで?」
「なんでって」
「なんで、待っててくれたの」

 そういえば根本的な部分を聞き忘れていた。
 光は少しだけ黙ると、準備運動のように溜息を浅く長く吐き出してから少し振り返るようにしてわたしの方へと顔を向ける。その角度からそうやってこっちを見下ろすの、ものすごく格好良いんだけど。どうせ意識も何もしてないんだろうな。これだから男前はずるい。

「最近仕事忙しくて会えん、寂しい…そう言うてたの、さんの方やないっすか」
「…わあ…」

 心に込み上がる暖かい気持ちをどう形容したらいいか分からず、わたしは中途半端にぽかんと開いてしまった唇から言葉になりきらなかった声を漏らす。それはつい昨晩、わたしが電話でちっちゃく零しただけな上に冗談ぽくはぐらかしてしまったことだった。あの本音を、光は上手に掬い上げてくれていた、らしい。
 光が眉根に皺を寄せ、怪訝そうな顔をする。

「なんすかその、わあ、って。なんのわあなんすか」
「素直に感動のわあだよ…光くん男前だなあ…」
「今更っすわ」

 しれっ、と当然のように言えるこの男が色んな意味で憎い。
 その自信は一体何処から来てるんだろう、と今まで幾度と無く考えたことを今一度考えながら、彼に掴まれっぱなしの手首を見下ろす。我侭を言うと、手、繋ぎたいんだけどな。これだけ人もいるし彼は制服だし、これぐらいが丁度いいのかも知れない。歳の差恋愛って、こういうとき、つらいな。

「それに、一言言いたくて」

 完全に手首の方へと思考を移していたものだから、彼のその言葉は些か不意打ちだった。

「なに?」

 言いながら弾かれたように彼を見上げると、光は視線が合った途端、それから逃げるように視線をぱっと逸らした。それから眉尻を僅かに下げ、困ったような顔で、改めてわたしを見る。そんな珍しくも可愛い顔で言いにくそうにゆっくりと開いた唇から一体何を紡いでくれるんだろうと、わたしは期待を込めて彼の唇を見つめる。

「無理、せんといてくださいよ。…一応、心配しとるんすから」

 紡がれた言葉は、わたしの想定以上の糖度を含んでいた。
 びっくりして目を見開くと、光は“ああ言わなきゃよかった!”とばかりに顔を思い切り顰め、ぷい!と顔を前に向けるといきなり歩行スピードをぐんと上げた。つんのめりそうになりながら、わたしも足の回転速度を上げてそれに対応する。わたしの手首を握る彼の手が熱い。彼が今どんな顔をしているのか伺い見ることは出来ないけれど、暗闇を派手に照らすネオンが彼の赤い耳をも暴いてしまっていた。
 早歩きと高鳴る心臓で息が切れる。でも、笑いが噛み殺しきれない。この子はなんて可愛いんだろう。

「光くん、どうしたの」
「なんでもないっすわ」
「なんかいきなりデレ期突入してない?」
「やかましいっすわ」
「ねえ、光くん、耳まっかだよ」
「やかましいって言うてるの聞こえてないんすか」
「聞こえないなあ」

 ずかずか前進しながら冷たい声でわたしをあしらっていた光も、ついに我慢の限界が来たらしい。
 光は通りの真ん中でピタッと止まったと思いきや、勢い良く、今度は体ごとこちらを向いた。
 綺麗な眉は不機嫌そうに吊り上がっていて、目は威嚇するように鋭く細められていて、唇も思い切り“へ”の字を描いていたけれど、暗がりでも分かるような真っ赤な顔が全てを可愛い方向へと台無しにしていた。
 きっ!と歯を剥き、珍しく子供を叱るような少し強めの声で彼が言う。

「あー、もう…寂しかったんがさんの方だけやと思うたら大間違いっすわ」

 言いたいだけ言うと、光はさっさと前を向いてわたしの手首を少し強く引いた。
 呆然としていたわたしは見事につんのめり、光の隣へと並ぶ形になる。

「帰りますよ。腹減りました。メシ作ってください」

 無愛想な物言いが逆に可愛くて、わたしは隣を見上げて頷いてみせる。光は満足げにちょっとだけ目を細めて笑うと、今度はゆっくりと歩き出した。いつの間にか一緒にわたしの家に帰る流れになっているけれど、まあ、今日ぐらいはお礼も兼ねて何か美味しいものでも作ろうとぼんやり考える。部活で疲れてるだろうし、デザートにはおいしいざいぜんでも作ってあげよう。

 手首から離れた熱が指に絡んだとき、幸せとはこういうことを言うんだな、と思った。



なんて甘ったるい世界



(タイトルはGeorge Boyさまより。//2011.09.06)