先生がどっさりとよこしてくださった委員会の仕事の数々を、デートを口実にさっさと帰りやがっ、…お帰りあそばせた友人の分も死ぬ気で取り組み、ようやく終わらせた放課後のこと。さあさっさと家に帰ってガリガリくんにかじり付くぞ!と勢い勇んで昇降口から飛び出したわたしを出迎えたのは、豪雨だった。
 まさに豪雨。ザ・豪雨。雨粒が激しすぎて少し先の景色すら見えないぐらいの、豪雨。
 先程まで透き通るように青かったはずの空は面影も見えないくらいどんよりとした灰色に覆われ、眩しいほどに降り注いでいたはずの真夏日は、そこには一切存在しなかった。

「ジーザス…」

 見渡す限り、グラウンド…と呼ぶよりも寧ろ小規模な海と呼ぶに相応しい光景を目にしたわたしは思わず外人のような独り言を呟いてしまいながら、ヤドカリよろしく、いそいそと体を校舎の中に引き戻して昇降口の扉を閉めた。雨の音が少し遠くなる。けれど、雨の勢いが収まりそうな気配はどこにもない。

 代わりに、わたしの背後でゆらりと人の気配がひとつ。
 視界の隅っこに入った銀色で、わたしはそちらを見ずともこの人物を特定することが出来た。いくらこの学校が頭髪の色に寛容だとは言えども、ここまで見事な銀髪を有する生徒は多くない。
 その人物はわたしの隣に並ぶと、軽く肩をすくめた。そして確かめるように昇降口のドアを少し押し開ける。雨と泥の匂いが滑り込んできた。彼は生温い風にふわふわと銀髪を遊ばれながら、雨音に負けないくらいのはっきりした声量で独り言を呟いた。

「あーあ…土砂降りじゃの」

 つまりそれは、わたしに向けられている言葉のようだった。

「ゲリラ豪雨ってやつだね…」

 当たり障りの無い言葉を同じぐらいの声量で返すと、彼…仁王は大人しく昇降口の扉を閉めた。そんな彼の肩には学生鞄。ラケットバッグじゃないってことは、今日部活お休みなのかな。つまりこれから帰るところだよね。ってことは、もしかして。
 そこまでの計算を瞬時にしたわたしは、ほんの少しの期待を込めて彼を見上げる。

「ね、仁王。傘、持ってたり…」

 仁王は最後まで聞かずに、少し困ったような笑顔で両手を軽く体の横で掲げてみせた。
 それは紛れも無く、何も持ってない、のボディランゲージだった。

「しないよね、はい」

 ですよね!というニュアンスで、わたしは頷きながらそう言葉を完結させた。こいつの性格的に持ってないだろうことは容易に察せていたもの。想定の範囲内だ。柳生くんならまだしも、教科書すらまともに持ってこない男が折り畳み傘を持っているわけが無い。
 仁王は挙げていた手をだらりと降ろし、当たり前のように歩み寄ってきてはわたしの隣に並んだ。わたしは視線を仁王から昇降扉越しの雨へと向け直す。ぶ厚いガラスの向こう側の世界は、相変わらず雨で霞みっぱなしだ。

「まあ、ちょっと待てば止むじゃろうて」

 どうせゲリラ豪雨だもんね、と仁王の言葉に納得して、わたしは頷きながら応える。

「そうだねー…置き傘しておけば良かったなー…」

 昇降口の傘置き場をざっと見渡してみるけれど、残っているのはどれもこれも骨がばきばきになっていたり大きく破けていたりと原形を留めていないものばかりだ。使えそうな傘は一本もない。
 するとわたしの呟きを聞いた仁王が隣で、ん、と短い声を上げるものだから、わたしの視線は自然とそちらへと向けられた。仁王は、何かを思考するように細い指で自分の顎をするりとなぞる。

「置き傘か…部室にあるかもしれん。見てくるナリ」
「うん、よろしく」

 わたしは二つ返事で彼にその行動を委託し、それを聞いた彼はくるりと踵を返して薄暗い校舎の中へスタスタと消えていった。仁王と相合傘したらファンのコらに刺されそうなのでできれば2本見つけてきて欲しいな!、という言葉を伝え忘れたけれど、まあ、この雨の中では目撃者もそうそう現れまい。もし1本だけ持って来たら腹を括るとしよう。

 未だに収まらない雨音を聞きながら、再びぼんやりと昇降扉を眺める。
 今仁王どのへんかな。荷物ぐらい、預かってやればよかったかな。

 本当に。まさに“ぼんやり”という表現がぴったり収まるぐらい、わたしはそうしてぼんやりしていた。
 
 それゆえ、首筋に走った急激過ぎる冷たさへのリアクションがそれなりハードなものになってしまった。

「ひゃあ!!」

 喉からたっかい音が漏れ、肩が震える。いっそ小さくジャンプしたかもしれないが自分では確かめようが無い。慌てて弾かれるように振り返ると、そこにはしゃがみ込んで肩を震わせる銀髪があった。その手には缶のオレンジジュース。咄嗟に首筋を押さえた掌に水滴の感触。なるほど、こいつが犯人でこいつが凶器か!

「お前さんのリアクションはいつ見ても面白いのう…」

 くつくつ。治まりきらない笑いを喉の奥で殺しつつ、仁王が立ち上がる。その表情には悪びれた様子は無く、むしろにやにやと意地悪な笑みをいっぱいに広げていた。
 わたしは目を細め、じっとりと、今の室内と同じぐらい湿った視線で仁王を睨みつける。そういえばわたしが今相手にしているのは悪戯心満載の“詐欺師”だった。気を抜いていたこちらが馬鹿だったのだ。

「傘は無かった。代わりに、ほれ」

 意地悪な顔を崩さないまま、仁王が硬直したままのわたしにオレンジジュースの缶を差し出した。
 これ、今の凶器だよね?でも仁王はこれ1本しか持ってないみたいだし、あれ?
 わたしは可愛らしいキャラクターの描かれたそのオレンジ色の缶と少々睨めっこしたあと、仁王を見上げて確認するように首を傾げて見せた。わたしはこれを、受け取っても良いのだろうか。

「…くれるの?」
「あげるとは言っとらん」
「………」
「冗談じゃ。そう睨みなさんな。ほれ、やる」

 やっぱりこいつ!性格わるい!
 そう確信しながらも、わたしの手は素直に缶を受け取っていた。
 貰えるものなら貰っておこう。ちょうど喉も渇いていたし。

「ありがと」

 お礼を言い、プルタブに指をかける。ぷしゅ、と軽い音がして、プルタブを再度寝かせると早速それに口をつけて傾けた。冷たくて甘いオレンジジュースが流れ込んでくる。埃っぽい雨の匂いを打ち消すような、爽やかな香りが鼻腔を満たす。
 ひとくち分飲み込んで缶を下ろすと、それを待ち構えていたかのように仁王がわたしを覗き込んだ。
 しゃらり。しっぽのように結われている長い髪が、彼の動きに従って流れる。

「礼はいらん。代わりに、ひとくち、よこしんしゃい」

 ひとくち、の部分を強めに発音しながら仁王が言う。
 なのでわたしは、さっきわたしにあんな意地悪を働いたくせに!という気持ちを大いに込めて、缶を大事そうに抱きかかえながら唇を尖らせた。少し声を低くし、不満を全面的に押し出す。

「えー」
「えー、じゃなかろ。それ買ったん俺じゃし」
「でもくれたんでしょ?」
「一口ぐらいええじゃろ、

 な?と、仁王がずいと顔を近づけてくる。
 うわお。ただでさえ綺麗な顔だなーとは思ってたけどこう近くで見るとやっぱり綺麗ですねさすがモテるだけありますよねって違う違う違う。仁王の顔を観察している場合じゃない。こんな場面、仁王のファンなんかに見られたらひとたまりもない。明日にはきっと、わたしの机が窓から投げ落とされてしまう。

「しょうがないな。どうぞ」

 それ以上近付かないでくれ、という意味も込めて、わたしは仁王の体を突っぱねるようにして缶を押し付けた。仁王は、おっと、とか声をもらして苦笑いしながらそれを受け取り、缶に口を付ける。
 綺麗な喉仏が無防備にさらされている。それが、ごく、と動いたのを見た時、わたしの中の悪戯心がむくむくと頭を擡げ始めた。ずっとわたしばっかり翻弄されて、どきどきさせられたりして、そんなのずるいじゃないか。
 さっきまでの仕返しのつもりで、わたしは缶に口をつけている仁王を下から覗き込む。
 そしてわざとらしい口調で、言う。

「あっ、間接ちゅーだ」

 缶を下ろした仁王が、赤い顔をする、のを、わたしは期待したわけだが。
 仁王は涼しげな顔で、ぺろり、と舌なめずりさえしてみせた。

「おう、ご馳走さん」

 挙句には唇の角を少しだけ上げて、眼を鋭く細めたりするものだから。その煽情的たるや、一体なんと表現するべきか。現国の成績が割と平凡なわたしには、ぴったりな言葉が見つからない。なんというか、とりあえず、えろかった。うん、えろかった。

「さんきゅ」

 そして缶がわたしへと差し出され、今客観的に見ていた言葉とか表情とか、か、かっ、間接ちゅーとか、そんなのがそういえば全部わたしに向けられたもんだったと思い返して自覚なんかしたもんだから。もう。
 顔面が熱すぎて仁王を直視できず、手元の缶を凝視する羽目になってしまった。

「…わざわざ自分で墓穴を掘りに行くとはの…」
「うっ!?う、うるさい!」

 いつまでも缶を口に運べずにいるわたしを見て、仁王がしみじみと言った。ので、ムキになって仁王を見上げて怒鳴った。そこでやっとわたしの顔色に気付いたらしい仁王は、少しだけ目を丸めると、ふっと表情を崩して笑った。意地悪じゃない笑い方もできるんじゃないか。最初からそうやって笑ってよ。心臓にわるいから。

 昇降扉の方を見た仁王につられて、わたしも昇降扉を見る。雨の音は、いつの間にかさっきよりもだいぶ小さくまばらになっていた。少し陽射しがあるようにも見える。そろそろ、雨が止むようだ。

「…なあ、。お前さんと一緒なら、雨宿りも悪くない」

 仁王が、静かな声でそういった。
 なにそれ、どういう意味よ?と応える代わりに、わたしは今一度オレンジジュースを口に含む。心はできるだけ無にして、何も考えないようにする。じゃないとなんか、いろいろと、やばいような気がした。
 するとなんの前触れも無く、ぽんぽん、と頭に軽い衝撃を受け、それを見上げてわたしは更に衝撃を受けた。こいつ、わたしの頭を、なでているだと!びっくりしていたら表情にもそのまま思っていたことが出ていたらしくて、仁王にニヤリと意地悪な顔をされてしまった。心拍がひどい。呼吸がつらい。ああ、なんなの、本当に、振り回されっぱなしだ。

 神様がいるなら後生です。早く雨を止ませてください。お願いします。
 じゃないとわたしここで、心臓発作で死んでしまうかもしれない。




ブルー・レイニー・ブルー



(2013.05.20)
(そしてたぶん仁王の鞄には最初から折り畳み傘が入ってる(笑))