机にぐったりと身を預けた仁王は、その陽射しすら見たくないとばかりに腕に顔を埋めていた。

 ぼんやりと見遣る彼の髪は、今わたしの目に襲い掛かっている眠気とかそんなものの都合のせいか、余計にきらきらと綺麗な銀色に見える。陽射しが透けているのに彼の白い頬にはちゃんと髪の影が映るのが不思議だ。猫みたいに丸まった背中は寝息に対応して僅かに上下する。授業を受けてますよーっていう申し訳程度のカモフラージュに立てただろう教科書はぱったりと彼の白い腕に倒れこんでいて全く何の意味もなしていない。
 蝉の声は窓ガラスのお蔭で随分と遠く、クーラーで冷やされた肌に窓から差し込む日差しは程好く暖かい。こんな気候なら、たしかにここまで熟睡するのもしょうがないなぁと思う。わたしだって寝そうだ。それに、先生からしたら迷惑だろうが、わたし個人としては彼に寝ててもらって一向に構わない。だって、どれだけ眺めてたって彼に警戒されないもの。敏感な猫みたいな仁王に近づくのは、足音を消したって難しい。

 窓枠に切り取られた夏の真っ青な青空を背景にした彼は、紛れも無く、一枚の絵画であり美術品だ。

 不意に、わたしの見てる前で彼の尻尾みたいな襟足の髪がするりと後ろ襟から首筋へと落ちた。うわ、くすぐったそうだ。…それでも起きないって、どんだけ熟睡してんのこの人。ぴくりとも動揺しなかった白い首筋を眺めては、ぼーっと握りっぱなしだった右手のシャーペンの存在を思い出した。

「それじゃ、ここんところ…ー。、いるかー?」
「うあ、っ、は、ははははい!」

 今まで遠くに聞こえるBGMでしかなかった先生の声が、突然わたし個人へと向けられた。あんまりにも突然で虚を突かれたものだから、わたしは奇妙な声を上げてしまう。ちょっと席の離れた友達がわたしを振り返って大袈裟にニヤニヤと笑う。…うるさいな、もう。いや友達は何も喋ってないけど、その顔がうるさい。
 返事をしたからには先生の問いに答えるしかなく、大慌てで教科書を視線で弄ってもそこには十数個の問いがあるわけで、どれについて尋ねられてるのかも分からなくて、机の冷たさがやけに現実味を帯びて掌に広がった。黒板に目を遣ってもそこはただ無表情に緑色なだけ。困り果てた視線は、手元でこつりと鳴った硬い音でそちらへと流れる。
 そこには、わたしのものじゃないもうひとつの教科書があった。丁寧な字で問題の解かれたそれらの内のひとつに、乱暴にぐるぐる丸がしてある。びっくりして隣の仁王を見る。仁王は、眠っていた姿勢から微かに上体を起こしてわたしを見て、にっこり笑った。

「………じゅーにえっくす、です」
「そう、正解。この問題のポイントは ― 」

 丸に囲まれた数字と記号を読んだら、先生の意識は問題の解説へ、クラス中の意識はそんな先生の言葉へと移された。やっと動き出した授業に安心するのも束の間、別の意味でどきどきさせられてしまった手元の教科書を見る。それから隣の仁王を見ると、もう寝る姿勢はとっておらず、ふてぶてしく椅子の背もたれに全体重を掛けていた。長い前髪の下で、切れ長の目が眠たげに何度か瞬く。薄いブラウンの瞳が陽射しのせいで金色に見えて、なんだかこういう妖怪を前にしている気分になった。いい意味で、妖怪。同級生のクラスメイトにしておくには綺麗過ぎる。

「ありがと、助かった。すごいね、予習ばっちりじゃん」
「おう、どーいたしまして。…ちゅうかこれ、柳生んじゃし」

 あっさりと白状した仁王の声に、教科書を仁王の机に置いたその姿勢で思わず固まってしまう。仁王は悪戯っぽく笑って、自分の机に返って来た教科書を閉じてくるりと裏返した。そこには大変丁寧な文字で柳生比呂士、と書いてあり、その右上に、feet.仁王雅治、と適当な字で書き足してあった。教科書でまでフューチャリングしちゃうほど仲良しなんだね…いや、仁王が無理矢理書き足した感が否めないけど。
 感謝するべきなのか呆れるべきなのか、いっそ柳生くんに同情するべきなのか。リアクションに困ったわたしを、仁王はゆるりと唇に浮かべた笑みを更に濃くして眺める。わたしの困惑顔がお気に召したらしい。

「そんな顔しなさんなって、。アイツのものは俺のもの、だっちゃ」
「…どーせ、自分のものは自分のものなんでしょ?」
「ピヨ」
「てゆーか、いつの間に起きたの」
「さて、今だったかさっきだったか…どうだったかの」

 今なのか、さっきなのか、ついさっきなのか。眠い目を擦りながら盛大に伸びをしながらも人を煙に巻くことを忘れないなんて、さすが詐欺師と呼ばれるだけある。最初にこのアダ名を友達から聞いた時には不謹慎にも、本当にテニスプレーヤーですか仁王って人は、なんて尋ねたっけ。テニスのプレイスタイルどころか素の性格が詐欺師だと知ったのは結構最近のことだけど。

「いやあ、あつくてあつくてしょーもなかったんじゃ」

 仁王がわざとらしい声で朗々と言う。カーテンの開け放たれた窓から注ぐ光は容赦なく仁王の机を照らしているし、暑いのも頷ける。夏らしい、透き通っていて攻撃的な陽射しだ。そんな陽射しの下でも随分その銀色の髪も白い肌も涼しげだったけどなぁ、ってのは言わずに心の奥底にとどめておこう。ガン見してたことがバレちゃ、もう仁王と目すら合わせられない。
 誤魔化すように窓の外に目を遣って、夏だもんね、だとか適当なこと言おうとしたその瞬間だった。仁王が再び寝る体制をとるように机に頬杖えを突いて、少しばかり下の角度から意地悪にわたしを覗き込む。

「…誰かさんの視線が、な」

 綺麗なくちびるが、綺麗に動いた。囁くような声は無駄に低くて、意地悪に笑うその表情さえ夏の日差し効果で男前度アップなもんだから本気で困った。わたしの半開きの唇から、疑問符とビックリマークの一杯付いた短い声が漏れる。な、とか、う、とか、え、とか。色んな音が混ざっちゃってひらがなにすらならないそれだったけど、脳が沸騰するんじゃないかってくらい熱い顔に比べたらそんな言い損じ、恥ずかしくもなんともない。
 呂律どころか、頭すら回らない。そんなわたしの前で、仁王は一層飄々と笑ってみせる。

「お蔭様で横っ面に穴でも空くかと思ったぜよ」
「…う、…仁王の横っ面なんて、穴、空いちゃえばいいのに…っ!」
「うーわ、そんなこと初めて言われたナリ。グロっ」

 けらり、と擬音が付きそうな明るさで仁王が笑う。ちょっと傾げられた首があまりにも可愛かったので、もう本当に横っ面に穴が空けばいいと思った。それで嫁に行けなくなればいい、そうしたらわたしが貰ってあげてもいいのに。ずるい、仁王はずるい。なんで、わたしばっかり必死にならなきゃなんないの。

「おーい、楽しそうだな。前出て来てこれ解くかー?」

 先生の声が再度、わたしに向けられる。クラスメイトの視線がわたしの額を貫く。クーラーの効き過ぎた教室の冷たい空気の中で、隣の仁王だけが楽しげに笑い声を上げた。このやろう、むかつくな。でもそうしながらも教科書を差し出してくれる白い右腕を見たら、なんだか色々どうでもよくなってきてしまった。もういいや、さっさとやって返って来よう。ごめんね柳生くんありがとう!
 丁寧に教科書をお借りすると、仁王の指先が少しだけ手首に触れた。思ったとおり、それは冷たかった。



    透 き 通 っ た 夏 の 匂 い



「仁王、お前が寝てたのも知ってるぞー。一緒に前出て来ーい」
「……プリッ」





(2009.07.22)