視界の隅で、小さな光の粒が弾けるのを見た。

 咄嗟に自転車のブレーキを握ると、籠に入れているビニール袋の中で缶が数個、がらがらと音を立てる。中身の炭酸の状況を不安に思うことよりもまず、わたしは先程の光の正体を確かめることを優先した。真っ暗な公園にしゃがみ込む後姿。その向こう側でばちばち弾ける光。わたしは彼の後姿に見覚えがあった。
 彼もまたわたしの視線に気付いたらしく、ゆっくりとこちらを振り返っては目を見開いた。暗闇ごしに見つめあうこと数秒間。やがて彼がいつも通りの、その図体にそぐわぬ柔らかい笑顔を見せるものだから、わたしはおつかいという本来の目的をぽいとどこかへ放り投げて自転車を降りた。

 彼がわたしに向かって片腕を掲げる。その振動で、彼の手元にあった光の花が、ぽたりと地面に落ちてしまった。

「…あっ」

 光が消え、唐突に彼の周囲が暗くなる。それで漸く線香花火の火の玉を落としてしまったことに気付いたらしい千歳が、間抜けな声を上げて自らの手元へと視線を遣った。まるで子供のようなそれに、わたしは思わず声を上げて笑う。

「ごめんね、邪魔した?」

 適当な所に自転車を止め、千歳に問う。千歳はさっきと同じ笑顔でわたしを振り返り、ただの紐と化した線香花火を掲げて見せた。

「よかよか。気にすっことなかよ」

 それならお言葉に甘えて気にしないことにしよう、と決めて、わたしは千歳の左側にしゃがみ込みながら改めて周りを見渡した。彼以外に人影は見えない。わたしは、早速次の線香花火に火をつけんとしている彼の横顔を見上げた。大柄な彼はしゃがみこんでいても大きい。

「千歳、ひとり?」
「ひとりたい」
「ひとりで花火大会?」
「そぎゃんとこばい」

 何事もないように、千歳が笑顔で頷く。彼の手元が明るくなって、ばちばちと光の粒を散らし始める。
 これが白石や謙也だったなら、どうしたのひとりで花火大会なんて!もしかして失恋でもしたの!?と不安に駆られる所だけど、千歳はこれが通常運行だ。普段からふわふわとしていて、気がつけばひとりでどこかに行ってしまう。千歳千里とはそういう生き物なのである。わたしは納得するに留めて、彼の手元を眺めた。雫のような形の火花が華を咲かせ、やがて花弁を小さく畳むと、慎ましやかにぱちぱちと暖かな光を灯す。



 千歳がわたしの名前を呼びながら、花火を持っている方とは逆の手でわたしの肩をぽんぽんと叩く。そちらを向くと線香花火の火の玉から目を離せないらしい千歳が視線を花火に注いだまま、左手でずいと線香花火を押し付けてきた。わたしは素直に、少し懐かしい感じのするエンジ色のそれを受取る。

「荷物整理しよったら、線香花火ほうらつか出てきよって。余っとうけん、一緒にどうね」
「ほうらつ?」
「たくさん」
「あ、そういうことね。…なぜか余るよね、線香花火」
「ばってん、俺は線香花火好いとるばい」
「それで余った分を引き受けて忘れてたの?」
「さすがばい。よう分かっとうね」

 そりゃ、あなたのことばかり見てましたから。
 なんて言えるほどの度胸はないっていうかむしろ真夜中に2人で花火大会っていう状況で既に心臓が爆発してそれこそ星になりそうなわたしは、あはは、と笑って誤魔化すことしかできなかった。千歳もつられて笑う。そしたら、彼の手元から灯りが消えた。千歳は砂の上でじりじりと灯りを失う光の粒を少し惜しそうに見つめた後、気を取り直して次の線香花火を取り出した。

「勝負たい、
「…千歳が勝負、って言うとすごい迫力があるよね…」
「ハンデ、必要と?」
「いらない!」
「才気煥発は」
「禁止!」

 線香花火に才気煥発をどう使うのかわからないけど、とりあえず禁止しておくに越したことは無いだろう。わたしの即答に千歳は声を出して笑い、よかよ、とだけ答えた。彼のこういう、柔らかい言葉の使い方が好きだ。
 千歳がライターを手に取り、チッ、チッ、と火を出さない程度に小さく擦る。そうしながら千歳が何かを考えている、というか、迷っているように見えたので、わたしは問いかけようと唇を薄く開く。
 けれどライターの先にオレンジ色が灯ることで、わたしは咄嗟に唇を閉じてしまった。ぼんやりとした灯りの中で、千歳が挑戦的に笑う。そこにさっきの迷っているような表情は見当たらない。いきなり明るくなった視界で彼を捉えたら、本当に今わたしは千歳と2人っきりなんだ、とか余計なことを考えてしまい、頬に熱が宿る。けど、暗いから彼には分からないはずだ。そう信じたい。

「準備、よかね?」
「いつでもどうぞ!」
「んじゃ、…いくばい」

 千歳の持つライターに線香花火を近付ける。ひらひらとした紙の部分が燃え、火花が飛ぶ前に、とライターの上から素早く線香花火を退けた。じゃないと、千歳の手にヤケドをさせてしまう。千歳は自分の線香花火にも火が付いたことを確認してライターを仕舞う。程なくして2人分の線香花火が光の花弁を広げる。さっきよりもずっと明るい。綺麗だ。ああ、一緒にやる人が違うだけで、線香花火って、こんなにどきどきするものなのか。


「っ、へい!」

 わあああびっくりした!すごく意識しちゃってるタイミングで名前呼ばれたもんだから寿司屋の大将みたいな返事しちゃったよ!ムードもへったくれもないよ!ついでに肩も跳ねたけど、わたしの線香花火は依然として火の粉を散らしている。火の玉は無事でよかった、けど、女子としては何もよくないよね今のリアクション…。一瞬にして泣きたい気持ちになりながら、なに?と平静を装って問いかける。千歳は、ふ、と吐息を零すようにして笑うと、それをすぐに引っ込めて、ちょっとだけ真剣な顔をした。

「負けたら、勝った方のいうこと、なんでも聞く。…どげんね?」
「それは…いわゆる、罰ゲーム、ってやつですか」

 肯定する代わりに、千歳がニコッ!とイイ笑顔を見せた。

「なんでも、ってなんでも?」
「もちろんたい」
「男に二言は無い?」
「…なして俺が負けるん前提ばい…」
「うん、いいよ。その勝負乗った!」

 迷う余地なんて1ミリもなかった。わたしは改めて手元に集中力を集める。これに勝てば千歳になんでもお願いできるなんて、夢のような勝負だ。どうしよう、何をお願いしよう。ベタにデート一回!でもいいけど名前で呼んで欲しいっていうのもあるし、わたしとお付き合いしなさい!…って命令するには色んな勇気が足りないけど。でも、肩車してー!でもいいかな。とんでもない高さになりそう。いいなあ、夢は広がるばかりだ。この勝負、負けるわけにはいかない!

 この勝負における罰ゲームが決定された途端、わたしと千歳の集中力は格段に高まった。
 真っ暗な公園に控えめな灯りが2つ。蝉の声を聞きながら、2つの背中がじっと息を潜めて丸まっている。徐々に火の玉が元気玉のようにサイズを増していけばいくほど緊張感は高まり、生温い風が吹けば自然と神経が鋭く尖る。
 もしかして、このまま永久に勝負がつかないんじゃ?と、思考の隅で考え始めた、途端。
 ポケットの中で、携帯電話が震えた。

「ひえっ!?」

 完全に今の着信は不意打ちだった。びくっ!と動いたが最後、紐から千切れた火の玉は公園の地面に吸い込まれ、ただの黒い塊と化してしまう。着信に応えることすら忘れるほどの絶望感が、わたしを包んだ。

「…電話、出んでよかと?」
「…いいの。どうせお母さんだから…」

 そういえばおつかいの途中だったんだっけ…。こんなことなら連絡を入れておけば良かった…。けど、こんな狙いすましたタイミングで鳴らなくてもいいだろうに、とポケットの中で動きを止めた携帯電話に恨みを向ける。

「そうか。遅くまですまんね。親御さん、心配ばしよると?」

 そうすまなそうにわたしの顔を覗きこむ千歳の手元では、未だに線香花火が輝いている。これで明白。この勝負、わたしの負けだ。
 さようなら、わたしの夢たちよ…。先程まで思い描いていた千歳とのめくるめく夢、という名の妄想たちが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。世の中、そう上手くは行かないってことよね。だって、夜に偶然出会って一緒に花火できただけ十分にすごいことだもん。今日のところは諦めよう。わたしは光の消えた線香花火をぶらりと揺らし、彼に苦笑いを向ける。

「それより、わたしの負けだよ。千歳様、なんなりとご命令を」
「ん、…そうたいね…」

 千歳の手元から灯りが消える。さっきよりも割増で暗くなった公園で、わたしは隣の千歳の言葉を待つ。小銭ならあるし、奢れって命令なら聞けるかな。一週間パシリに、っていうならむしろ喜んで千歳の後ろくっついて回るけど。ってそれストーカーやないか。…なんてオサムちゃん仕込みのひとりツッコミを頭の中でぼんやりとやっていたら、いつの間にか千歳がもぞりと動いて、わたしの前に、い、た。えっ、なに、そんな改まるようなお願いをする気なの、この人。
 千歳が少し緊張した顔で、息を吸う。わたしまでつられて身を硬くしていると、千歳がぺこん!と頭を下げた。

「…俺とデートばしてくれんね、
「…う、っそ」

 気がついたら、声に出ていた。
 だって、そんな。こんな都合のいいことが、ある筈ない。それはわたしが千歳にしようと思っていたお願いであって、でもその夢は儚くも叶わぬままになる筈で、なのに、今千歳の口からそれと全く同じお願いが飛び出してきて?これは一体、どういうドッキリなんですか、神様。
 千歳が不安げに顔を上げ、わたしの驚愕一色に染まっている顔を覗きこむ。

「…だめ?」
「違っ!そ、そうじゃなくて…わたしのお願いしようとしてたことと、同じ、で…ね…」

 あんまりにもガッカリした千歳が可愛くて、動揺のあまり言わなくてもいいことを言ってしまったと気付いた時には既に遅し。ぽかん、と口を開いて呆気に取られた表情を見せた彼が、次の瞬間には吹き出して大笑いし始めていた。そうやって無邪気に笑われると言い訳も何もできなくなる。ずるい。

「ふ、っははは!勝負ん意味なかとね!」
「そういうことに、なるね…」

 これは遠回しに好意を伝えたことになるのかな…、と思ったところで、わたしの思考回路がぴたりと動きを止める。もしかして、あの、これは、自意識過剰と言われてしまえばそれまでだけど、千歳も、わたしのことを?
 尋ねるに尋ねられない期待で、心臓がばくりと大きく跳ねる。わあ、今の勢いで口から出なくてよかった…。でもそう思ったら急に気恥ずかしくなって、今まであれだけ会話してたくせに言葉をどう紡いだらいいか分からなくなってしまった。空回るだけの唇を閉じ、千歳お前なんか喋れよこの空気どうにかしてくれ!という気持ちで彼を見遣る。
 そしたら彼が眉尻を下げて、はにかむように笑うものだから。

「そぎゃんね…まあ、これからもよろしゅう?」

 心臓が、きゅんっ、と音を立てるのをこの耳で確かに聞いた、気がした。
 なんだか色々とたまらなくなって、気恥ずかしさとか動揺とかに盛り上げられたテンションのまま、わたしは千歳の髪に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でまくってやることにした。いつもは遥か頭上にある彼の頭を撫でるなんて貴重すぎる体験なので、気の済むまで、わーっとむちゃくちゃにしてやった。
 ぼさぼさになった髪を整えもせず、千歳が楽しげに笑う。だからわたしも歯を見せて笑い、彼の故郷の言葉を記憶の隅から引っ張り出してきて、元気いっぱいに声に乗せた。

「千歳、むぞらしか!」
「なんば言っとーと。お前さん方がむぞらしかね」

 千歳が、目を細める。伸べられた手は大きく、わたしの頭を優しく撫でる。
 引き寄せられて飛び込んだ彼の胸からは火薬の匂いがした。夏の匂いだ、と思った。




いとしき闇は、意外にやさしい


(タイトルはTVさまより。// 2011.08.20 )