そっと触れてみた跡部の手は冷たかった。でも、そのまま血管を滑るようになぞって触れた本のハードカバーはもっと冷たい。そこでわたしは跡部の手に少なからず体温があったことに気が付いた。あんなに白くて綺麗で骨董品みたいなのに、やっぱり血は通っているらしかった。わたしは思わず残念だなぁなんて考えて、表情にも素直にそれがうつるものだから、跡部はわたしを眼鏡越しに怪訝そうな色の目で見た。怪しんでたって跡部の目は綺麗だ。硝子細工みたい。あれこそ触ったら、冷たく澄んだ触り心地がするかな。

 そっと透き通った水色に手を伸ばすと、その指はかつ、と硝子に当たる。眼球に触れんとした指先は目的地の8mm手前で眼鏡に阻まれた、惜しい。 

「…

 跡部の骨董品みたいな手がわたしの手を掴む。今度は暖かいどころか熱い。く、と少しだけ下げられたわたしの手が跡部の唇に触れそうになって思わず息を呑んでしまった。水色の目が探るようにわたしを覗き込もうとする。やっぱり、硝子みたい。

「そこには生温い粘膜しかねぇだろ」

 硝子のようだと思った矢先に跡部はわたしの思いを打ち砕く。そうしながら跡部はわたしの考えていることをも目を通して覗こうとするものだから、わたしの目は結局追い詰められて逃げ回る。少しの間だけ室内をぐるぐる泳いだ視線は、結局跡部の持ってる謎の言語の書かれた皮製のハードカバーの本に着地した。わたしの目の先で、分厚いそれがぱたんと閉じる。無意識にも、紡ぐに紡げない言い訳を我慢するように、わたしの唇はほんの少しだけ尖ってしまう。叱られそうな子供みたいな自分が情け無い。でも、素直に説明するには、わたしは今ひどく歪曲した考えごとをしていた。喋るもんか。

 そう思っていた矢先、跡部の影が降りてくる。はっとして見上げれば、いつの間にか眼鏡を外していた跡部の顔がすぐそこにあった。生暖かい呼吸が混じる。唇が、わたしの唇に僅かに触れる。その一瞬のキスで頑なに閉じていようとしていたわたしの唇は知らぬ間に僅かに開き、心に秘めようとしていた考え事は呼吸のようにするすると漏れ出していた。こんなとき、わたしは本気で跡部は魔法使いなんじゃないかと疑ってしまう。

「跡部が骨董品なら、ずっと傍にいられるのにって」

 跡部は綺麗だ。なのに、生きている。生きているから、気持ちも移ろう。生きているから、やがて、死ぬ。
 もしも跡部がただの美しい骨董品であったなら、わたしはいつか来るだろう別れを不安に思うことも無く、生涯をこの骨董品と添い遂げることができるだろうに。漠然としていた不安が、声に出した途端わたしの心臓をぎゅうと圧迫し始める。苦しい。わたしはただ、跡部とずっと一緒にいたいだけなのに。

 けれど、この男はそんな悩みごとすら鼻で笑い飛ばしてしまう。

 跡部が、ふん、といつも通りの高慢な笑い方をする。彼の手がわたしの背に回り、彼の方へと引き寄せる。より強く跡部の匂いがして、視界が真っ暗になって、気がついたらわたしは跡部の体温に包まれていた。暖かいを通り越して熱い。彼の胸に押し付けられた耳が、彼の心音を拾う。緩やかなペースで命を刻む音。至極当たり前の事なのだけれど、やっぱり跡部は生きているのだと、改めて思った。

「聞こえるか、心臓」
「…うん」

 頷くと、跡部の唇がわたしの耳に近付いてきた。視界に入ったそれは、にやり、と意地悪に孤を描く。

「骨董品に心臓は無い」

 ぎくり、とわたしの肩が震えた。それを押さえるように跡部の腕に力が篭る。
 ああ、どうしてこんな当たり前のことを失念していたんだろう。もしも彼が物言わぬただの骨董品だったなら、わたしはこうして彼に抱き締めてもらうことすら出来ないのだ。甘い声も聞けない。暖かいキスも貰えない。そもそも、ただ美しいだけの跡部を、わたしは好きになっただろうか。

「お前はまだ、俺が骨董品になりゃ良いと思うか?」

 とどめを刺すように、跡部が問う。わたしはすぐに首を横に振り、縋るように彼を見上げる。

「もうしばらく、生きてて」
「当たり前だろうが」

 動かない跡部なんて、もう想像したくもない。わたしの眉間に僅かな皺を見つけると、跡部は呆れたように息を漏らして笑った。こうやって人を馬鹿にするように笑う彼が好きだ。不安も何もかも全部、“そんなちっぽけなもの”とばかりに吹き飛ばしてくれる。どうしよう、そろそろ本気で彼から離れられる気がしない。

 わたしは今一度跡部の胸に耳を押し当て、目を閉じる。
 このままこいつの腕の中で死ねたらいいと、本気で思った。

 

灰と魚とダイヤモンド


(2011.08.19//タイトルは星が水没さまより。)