ほわほわり。思考が空を飛ぶ。くるくるり。視界が目眩めいて眩む。
だるだるり。身体がウイルスのせいで引力に従順になりすぎている。
世間はわたしの引いた風邪を、インフルエンザ、と呼ぶ。
それなりに流行にはついて行きたいお年頃の女の子のわたしだけれど、こんな流行に乗っかるのは正直ありがたくない話である。
運悪く今日に限って親は出かけているし、感染の恐れもあるので代わりに誰かが看病してくれるということも無い。風邪を引くと心細くなる、っていうのはどうやら迷信じゃないみたいだ。
あーあ、京子とか花とか、来てくれないかなぁ。来てくれたら精神的にも元気になれるのに。
でも移したくないし苦しめたくないから、来ないでくれた方がいいのかな。
「…うう…ジレンマだ…」
布団の中で無駄に足を曲げてみたり伸ばしてみたりしながら、ひとり、ごちる。
吐き出す息すらなんだか熱くて、本当にわたしは熱を出しているのだなぁと今更ながらに自覚した。
このまま熱が上がり続けたらどうなるんだろう、死ぬのかな。
額に手を遣ると、さっき貼ったばかりの冷えピタが生温くなっていた。
おーい。お前がんばれよー。お前が冷やしてくれなかったら私はどうして熱を下げればいいのだよ?
冷えピタにすら八つ当たってしまいながら、それをぺりぺりと剥す。おでこがすーすーする。
ぴんぽーん
「お?」
不意に、チャイムが鳴った。それに驚くよりも前に、思わず首を傾げてしまう。
お母さんは夜まで帰ってこないって言ってた。じゃあ、誰だろう。
…もしかして、京子と花、だったり…しないかな?
そう思ったらなんだか急にどきどきしてきて、慌ててベッドから降りて玄関を目指す。
ふらふらするし、フローリングを素足で歩くのは寒いけれど、あの子たちに会えるなら頑張れる!
壁伝いに歩いて、階段を一歩一歩丁寧に降りて、立ちくらみに耐えて。
やっとの思いで玄関に辿り着いたわたしは、勢い良く玄関のドアを開けた。
がちゃっ!
「よっ!」
がたん!
そこには爽やかすぎる笑顔があったので、わたしは勢い良くドアを閉め直した。
…と思ったら足が挟まれてて扉が閉められない!!
「ぎゃあ!足挟んでんじゃないよこの変態が!!」
「ハハハ!意外と元気そうで安心したぜ、」
わたしは今すごく不安になったけどね!元気じゃないよ全力でドン引いたんだよ!
って言うのすらだるくて、わたしは必死にドアを閉めようと力を込める。
ああああ!わたしのバカ!どうして山本の襲来を警戒しなかったんだ!!
いつもセクハラまがい、っていうか全力でセクハラを働いてくるこいつが、わたしの弱っているところを狙ってくるのは有り得ない話じゃなかったはずだ!ちくしょう…花と京子に会いたいよ…!
とにかく山本の足を挟んだままじゃドアは閉まらない。ここは一度ドアを開けて、山本が足を引いた瞬間に素早く閉める作戦で行こう。そうしよう。
わたしは意を決して、勢い良く少しだけドアを開けた。すぐに閉める方向へと力を転換してノブを引く。よし、我ながら完璧だ!…って思ってたら山本は足を引くどころかむしろ突っ込んできやがった!
扉が鈍い音を立てて、思いっきり山本のボディを挟む。
「ひいいいいいい!?」
「邪魔するぜ!」
邪魔するぜも何も身体の半分しかウチに入ってないよ山本!!
思いっきり扉に身体を挟まれておきながら笑顔が爽やかすぎる山本が怖すぎて、わたしは思わず扉から手を離して後ずさった。山本は改めてウチに入り、ばたんと玄関のドアを閉めた。
ああ、終わった…この変態の侵入を、許してしまった…。これで我が家も安全じゃなくなってしまったか…。
急に大騒ぎした所為で、上がった息が収まらない。肩を揺らして吐き出す息が、更に熱くなった気がする。
「…ていうか、そもそも…なんでわたしの家知ってんの…?」
「担任に聞いた!コレ届けるっつったら教えてくれたんだ」
「………」
先生は、山本を爽やかで好意的な野球少年だと思ってる。だからわたしの住所を教えたのだろう。
山本が実はド変態だったと知ったら、先生はどんな顔するかな…。
やだ、頭まで重くなってきた…。片手を頭に添えて、山本をじとりと睨む。
山本は相変わらずの素敵な笑顔を更に深めて、手にしていたビニール袋を持ち上げた。
中にはネギとかなんか色々入ってる、っぽい。視界がぼやけて、何が入ってるかすら分からない。
「風邪引くと心細くなるっていうらしいし、今がチャンスだって黒川に言われたのな」
「…それ本人に言うことじゃないよね」
とりあえず花が山本に追われるわたしを楽しんでいることは分かった。
そもそもチャンスってなんのチャンスだよ…アタックチャンスですか、性的な意味で。
「つーか、マジでだるそうだな。…大丈夫か?」
「うん…山本がいなくなれば元気になれる気がするかな」
「やっぱ寝とくのが一番だって。お前の部屋どこ?」
「無視かよ」
心配するのか変態するのかどっちかにして欲しいな、と、笑顔から一変心配そうな顔をする山本を見上げながら思った。ちなみに、都合の良いことしか聞こえないらしい山本の聴覚には諦めがついている。
溜息を吐くつもりで下を向いたら、そのまま体にすごい引力がかかった。意識に霞が掛かる。視界がモノクロになって、フローリングに突いたヒザが痛くて、どうしよう、だめだ、なにもかんがえられない。
「!?」
「…は、ッ…も、やだ…」
山本の腕のお蔭様で、床への顔面衝突だけは免れた。
これはお礼を言うべきなのか。やだな、山本に借りを作るのは。
山本の掌があったかくて大きいことに気がつきながら、わたしの意識は、沈んでいった。
そして次に瞼を開けたとき、そこには見慣れた自室の天井があった。
くるまり慣れたお布団。額には冷えピタらしき感触。…あれ?もしかして今までのって、夢?まさかの夢オチ?うわっ、よ、良かったぁ…!山本が怖すぎて夢にまで見ちゃったよ!これ立派なトラウマだよね!
ほっ、と胸を撫で下ろすも束の間。わたしと天井の間に割り込むようにして、見たくも無かった笑顔がニュッと生えてきた。起き抜けにもかかわらず、わたしの肩が盛大にビクッとなる。
「ほぎゃァ!!」
「おっ。目ー覚めたか。具合はどうだ?」
わたしの動揺なぞ見て見ぬふり…っていうか本気で気付いてないのかなんなのか。
ともかく、山本はいつもと寸分変わらぬ笑顔でわたしに問いかけた。
あー…これは…山本にここまで運んでもらった、のかな?わたし。冷えピタもこいつが貼ってくれたのだろう。
…なんだそれ。なにその意外すぎる優しさ。下半身のことしか頭に無い変態だと思ってたのに。
きょとん、と山本を眺めていると、山本は一度どこかへ行って、何かを持って戻ってきた。
「…山本…?」
「冷えピタと台所、使わせてもらったぜ。食えっか?」
台所、という言葉で漸く全部を把握した。山本の持つお盆には水と、小さな土鍋。もしかしなくても、わたしのために…おかゆ、作ってくれた、んだよね。これは。どう見ても。
ゆっくり身を起こして枕に背を預けるようにして座ると、わたしのヒザにお盆がそっと置かれる。まるでウエイターみたいに山本が土鍋の蓋を外すと、そこには海鮮たっぷりのすごく美味しそうなおかゆ…っていうか、雑炊?がほかほかと湯気を放っていた。
一口、すくって口に運ぶ。あつい。山本は、わたしの動作を少し不安げに見ている。
おかゆは、和風だしの優しい味がした。なんと…さすが寿司屋の息子だなぁ…。すごく、おいしい。
「…おいしい」
「そっか、良かった!」
感想を述べると、山本は嬉しそうにニッコリ笑った。なんだよ、可愛い所もあるんじゃないか。
山本を見直すのが悔しくて、むぐむぐと、黙って食を進める。山本はニコニコとそれを見守る。
やがて食べきりそうな頃合に、山本がふと思いついたように立ち上がった。
「そういや、薬は?」
「…机の、上…」
「ついでに体温計も」
「ベッドサイドの…本棚のとこ」
「下着は?」
「引き出しの……じゃねーよやっぱお前帰れ」
よかったやっぱりこいつは変態だった!見直す前でよかった!
山本は薬を手にしながら、じょーだんだって!とか笑ってるけどその視線がタンスの引き出しを掠めたことに気付かないわたしじゃない。こいつが帰るまで油断できないな…!くそう!
山本から薬を受け取り、その袋から薬を取り出しながら、カプセル剤の後ろに[インフルエンザ]と記載してあることに気が付いた。忘れかけてたけど、そういえばわたしインフルなんだっけ。
「…移ったら、どうすんの?」
「ん、何が?」
「何がって…!」
一応ちょっとだけ心配してやるつもりで、問い掛けながら薬を飲み下す。すると空になった土鍋とコップを置いたお盆を片付けながら山本が首をかしげた。
何が?もなにもないでしょうに。こいつはどこまで馬鹿なんだ!
「そういや、今流行ってるヤツって空気感染もスゲェらしいな」
「は?」
山本が突拍子も無くそう言うので、今度はわたしが首をかしげた。
ベッドサイドにヤツが座ると、ベッドがそちら側に微かに傾く。ぎし、とスプリングが鳴った。
唇の端を微かに上げて、無邪気な瞳を細めて、黒い瞳孔をちろりとわたしに向ける。
それは確かに笑顔だった。 笑顔だったんだ、けど。
「手遅れ、ってことなのな」
今の笑顔は、爽やかじゃ、なかった。
「………。…それで?」
瞬時に今までとは比べ物にならないほどの身の危険を感じて、思わず肩に力が入る。下がろうにも背には枕だし、山本がいるのと反対側のベッドサイドは壁だ。いつの間にやら追い詰められている。
でもここは動揺を抑えて、クールに流すつもりで山本をじっと見る。山本は、流し目でわたしを見る。悔しいけど、やっぱりこいつは男前だ。
不意に、今までの艶っぽい笑みを掻き消すようにして、山本がニコッ!と笑う。
「いや、どうせ移るならさ。何しても同じだろうなって、今思って」
「!?」
でも、それは更なる悪意の表明でしかなかった。
山本の大きな掌がわたしの肩を掴んで、押す。抵抗する間も無くずるりと寝そべったわたしの真上に、山本の顔が移動してくる。びっくりして山本を押し返そうとしたら、もう一方の手で素早く絡め取られてしまっ、た!
えっ、えええっ、ちょ、ちょちょちょちょっと待てェェエエ!!わたしこんな光景見たことあるよ!少女マンガとかで!でもさあこういうのって普通は同意の上でこうなるもんであって病気で弱ってるとこ襲うとか人としてどうなんだよ山本キサマぁぁああ顔近い顔近い!!
「待て待て待て下がれ下がるんだ山本!今ならまだ遅くない!!」
「かれこれ1時間は看病してたんだぜ?もう手遅れだろ」
「希望は捨てるもんじゃないぞ!帰宅して即行手洗いうがいだ!」
「なぁ、」
山本の手の中にあったわたしの手に、山本の唇が降りる。
「諦めも肝心って、習わなかったか?」
「…っ!!」
いやあああああ!?そのまま喋るな生温い気持ち悪いこわいきもい!!
でも怒鳴る気力すら無くすほどわたしの病態は深刻で、山本の目はマジだった。
いや、そもそも怒鳴ったって無意味なんだよね。他に何か、ある筈なんだ。どうにかして山本を止めなきゃマジで食われるってコレ!熱と混乱で回らない頭を必死に回す。山本の唇が迫る。
何か、何か!なんでもいいから何か言うんだわたし!!
「…やっ、!野球!!野球、できなくなるよ!インフルで!!」
咄嗟に口を突いて出たのは、目の前の彼が何よりも好むスポーツだった。
山本の動きが、ぴたりと止まる。
よし!土壇場にしてはいいこと思いついたなわたし!このまま畳みかけよう!
「わ、わたし、…野球やってる山本が(無害だから)好き、なんだよね…!」
「…それ、マジ?」
野球だけやらせとけば爽やかな青年だもんなお前!そうだよマジだよ!野球やってる山本には青空と芝生と白球が似合うから、好きだよ!
きょとりと意外そうに目を丸めた山本に必死で頷いて見せると、山本は笑った。
笑った、っていうよりも、はにかんだ、っていうか。情けなく眉尻なんか下げちゃって、頬には微かに紅も差してて。なんだか思っていた以上に山本が嬉しそうな顔をするものだから、ついつい思考回路を一時停止してしまった。
「お前がそう言うなら、しょうがねーのな」
山本は、えへへー!なんて擬音が背後に見えそうなくらい上機嫌な顔で、力強く頷いた。
「インフルにかかったら、すぐにタミフル打って治すからな!」
タミフルよりも先に馬鹿を治す薬を打って来てください。
さっきよりも意気揚々と接近を始めた山本の肩を、片腕で必死に押し返す。
「おいィィイ!?そうじゃない!問題点はそこじゃないんだ!予防しろよインフル!!」
「でもすぐに治せば野球できんだろ?タミフルって確か特効薬じゃなかったか?」
「既にタミフル打ってるような飛び具合のアンタがタミフル打ったらダメだ!!」
「心配サンキューな」
「心配なのはむしろお前の頭の方だから!!にっこりすんな!」
「にっこり、っつーか今はむしろもっこりなのなー」
「なんの話!?」
にこにこ、にこにこ。後ろめたさなど何処かに置いて来たかのような表情で人を襲おうとしている山本の笑顔を見上げながら、わたしはもう一度チャイムが鳴ることを期待した。あと3秒、3秒だけ待って鳴らなかったら、こいつに全力の頭突きをお見舞いしてやろう。流血沙汰だって致し方ない。
3、2、…1!
● ● ● はじけたソーダを飲み干す
(わたしには刺激が強すぎる!)
(2009.12.09//80000打感謝リクより、変態山本くんのお話でした!つみれさま、ありがとうございました!)
(結局どうなったのかは想像にお任せします。タイトルは"淑女の吐息"シンちゃんより!)