いつか友人が雨音と揚げ物をしている音は似ていると言っていた事を思い出し、鈴木は僅かな空腹感を覚えた。窓の外は雨天のせいもあって薄暗く、明かりを灯していない室内もまたブルーグレーに似た色合いの暗さに包まれている。雨音に意識を傾けていればそれに混じるように、ずび、と鼻を啜る音が聞こえた。鈴木はそちらへと視線を遣る。そこではぶかぶかのスウェットとTシャツに身を包んだ幼馴染が無遠慮に鈴木のベッドの上で膝を抱えて座り込んでいる。膝の上で重ねた腕に額を預けて俯いている為にその表情は読み取れないが、彼女が未だに泣いていることは容易に予想できた。

 制服のままずぶ濡れで歩いている彼女を見つけた時には、何事だろうと驚き思わず呼び止めてしまった。鈴木の顔を見るなり安心したように泣き出した彼女をとりあえず訳も分からぬまま保護して自室に招きいれ、服を着替えさせた。…が、さて、これからどうしたものか。一言も喋らない彼女は、喋らない代わりに鈴木の服の裾をずっと掴みっぱなしだ。これでは移動も出来やしない。鈴木は彼女のつむじを眺めてから、くしゃくしゃになったYシャツの裾を見下ろし、そこで初めて気が付いた。
 つい数日前まで鈴木に自慢げに見せびらかしていた“銀色”が、彼女の左手の薬指から消え去っていた。

「無くしたのか」

 尋ねれば、主語は無くとも指輪のことを言われていると察知したが静かに首を横に振る。雨に濡れて束になった髪が彼女の首筋を撫で、冷たそうだなと鈴木はぼんやり考える。

「別れたの」

 か細い声だった。普通ならここで悪いことを訊いてしまったと暖かいフォローに周るのが友達だが、これに当てはまらないのが鈴木だ。しかも相手は気心の知れた幼馴染。鈴木は表情を崩さぬまま窓の外の雨を見遣り、低い声で面倒臭そうにひとこと零すのみだった。

「そうか」

 Yシャツが微かに引っ張られるような心地がする。恐らく彼女は少しだけ、握る力を強めたのだろう。
 室内に再び沈黙が下りてくる。はそっと顔を上げ、涙で滲む視界で鈴木の横顔を捉えた。窓にぶつかっては流れ落ちていく雨を眺めながら、彼は何を考えているのだろう。分からない。けれどそれ以上何も訊かず傍に居てくれることが、今のには何よりも心地良かった。見慣れた横顔と一文字に結ばれたままの唇を暫らく観察したあと、の視線もまた彼と同様に窓の外へと向けられる。

「ほんとに、ね。…彼のこと、好きだったのに」
「それを俺に言ってどうすんだよ」
「…鈴木、きびしい」

 鈴木からぴしゃりと返って来た言葉があまりにも冷たくて、は逆に少しだけ笑ってしまった。実に彼らしい。はへらりと力の抜けた笑みを浮かべ、鈴木の方を向く。鈴木は彼女の笑顔をちらりと見るのみで、また雨を眺め始めてしまう。雨脚が少しだけ弱まり始めているようだ。

「お邪魔してごめんね。雨が止んだら、もう、大丈夫」
「それはどういう根拠で?」
「………」

 そうやって全部割り切ったみたいな顔して無理矢理押し込もうとするから尚更ツラくなる癖に。
 鈴木は畳み掛けそうになったその言葉を飲み込み、自分のシャツを握る彼女の手へと目を向ける。
 泣きすぎて真っ赤になった目と涙のあとが残ったままの顔でそんな風に笑みを浮かべられも、無理に繕っているようにしか見えない。幼馴染である自分にさえ弱い所を見せようとしないのこういうところが鈴木は昔から大嫌いだった。つらいならつらいと言えばいい。泣きたきゃ気が済むまで泣きゃいいだろ。
 そんなところが危なっかしくてから目を離せないでいる自分のことは、棚に上げておきながら。



 名を呼べば、が鈴木を見て微笑む。鈴木はそれを見ようとせずに、服の裾を掴む彼女の手にぽんと触れた。の手が驚きで少しばかり震える。彼女の手は氷のように冷たい。こんな状態でよくもまぁ、もう大丈夫だなどと言ったものだ。

「雨が、止むまでな」

 ぶっきらぼうな鈴木の言葉がの表情から笑みを拭い取る。彼に触れられた手にはもう、あれだけ指に馴染んでいた指輪の感触は無い。大丈夫なはずなんて無かった。思っていた以上に愛しの彼との別れに傷付いているらしい自分を自覚した途端、せき止めた筈の涙がまた零れ始めてしまう。は俯き、苦しい気持ちを吐き出すかのように再び子供のように泣き始めた。鈴木の手の下で、彼女の手が更にきゅっと力強く丸まる。

「ありがとう」

 掠れた声でぽつりと零した彼女の泣き顔を、鈴木は今度こそしっかりと見つめた。こうして傷付いた彼女がもたれかかることのできるポジションに随分長らく居座っているせいで、俺にしとけばいいだろ、なんて言葉が冗談にすら出来ずにいる。

 雨は未だ、降り止む気配すら見せない。



抱きしめ方もしらない

(タイトルはキンモクセイが泣いた夜さまより。|2010.10.07、真山)