同い年の男の子がこんなにもぼろぼろと泣くところを、初めて見た。

 人通りの少ない路地の隅っこでブロック塀の陰に隠れるようにして蹲る人陰は、子供と形容するにはあまりに大きすぎる。よく見ればその人影が纏っているのはわたしの学校の制服で、目にした瞬間になんとなく放って置けなくなってしまった。きゅ、と丸まった広い背中。たまに漏れてくる嗚咽。ぐしっと鼻をすする音。

 もしもわたしが彼を放置してこのまま帰路を行くなら、彼は夜になってもこのままここで泣き続けているだろうな。そんな不明確極まりない予測が、わたしの背中をぽんと押す。歩み寄れば、わたしの気配に気付いた彼がまるで夜道で車のライトに照らされた瞬間の猫みたいな俊敏さでこちらを振り向いた。癖のある髪がふわんと揺れる。気の強そうな吊り目は涙で滲み、目尻は赤い。いつもなら吊り上がり気味の弧を描いている眉は、ややハの字状態だ。

 わたしは、彼に見覚えがあった。

「あ、ごめん」

 驚かせてしまったことをとりあえず詫びて、鞄からティッシュを2つほど取り出す。駅前で差し出されるがままに無駄に受け取っておいて良かった。世の中、どこでティッシュを必要とする人に出会うか分からないものだ。パチンコ屋とキャバクラの宣伝が書かれたそれらを2つまとめて差し出すと、彼はティッシュとわたしを見比べるように見た。怯えてるようにも見えるその様子は、わたしを野良猫に餌付けている気分にさせた。

「使う?」
「…すまない」

 言葉を足したら、彼はティッシュを受け取りながら言葉を発してくれた。それも、非常に弱々しい上に掠れていて蚊の鳴くような声量のものだったけれど。一体どれだけの間ここで泣いてたんだろう、彼は。クラスでは常に冷静で、真面目で、いつも淡々としているのに。

 教室ではあまり関わらないせいで声に出すのは初めてに近い彼の名前を、記憶の中から引っ張り出す。

「海藤くん。…ええと、…どうしたの」

 あっ、別に答えたくなきゃいいんだけどね!と慌てて付け加えながら、鼻をかむ海藤くんの横顔をじっと観察する。このひとをこんなじっくり見たのも、初めてだ。遠目に見て、綺麗な顔してるなぁと思った事はあったけど…やっぱりわたしの目に狂いは無かったらしい。
 海藤くんはぐしゃぐしゃに丸めたティッシュを眺め、眉尻を一層下げながら言う。

「…僕は、悪者、なのだろうか」
「へ?」

 脳裏をショッカーがイー!と奇声を上げながら通り去った。どこまでも安直なわたしの悪者へのイメージはさて置き、海藤くんが悪者っていうのは、どういうことなのだろうか。海藤くんは誰よりも真面目で、几帳面で、しっかりもので、優等生の模範回答みたいな子だ。けれど、もしかしたら彼のその真面目っぷりを嫌うひともいるのかも知れない。善の反対が必ずしも悪であるとは限らないのだ。

「んー…どうだろう、ねぇ。ちょっと難しいな」

 なんだか意外と哲学的な問題になってきた。でも難しいことを考えるのはイヤだし面倒くさいので、単純論でいくことにする。海藤くんと視線を合わせるようにしゃがみ込むと、海藤くんは俯けていた視線をわたしに向けてくれた。まだ彼の目は涙で潤んでいる。

「でも、わたしの思う海藤くんは真面目な良い子だよ」
「良い子?」

 すごくざっくりしたわたしの形容を、海藤くんが聞き返す。わたしはこくりと頷いてみせる。

「少なくとも、わたしは海藤くんのこと嫌いじゃないし」

 むしろ好きの部類なんだよね、とは照れ臭くて言えなかった。それも甘酸っぱいような好きとは違う、好感が持てるとかそういう感じの、好き。なにはともあれ今のわたしの拙い日本語で、わたしにとって海藤くんは悪者じゃないよ、ということだけ伝わっていれば幸いだ。

 海藤くんはわたしから視線をそらして、困ったように目を細める。

「…恥ずかしいところを見せてしまった」
「あはは、まぁいいんじゃないかな。たまには」

 というか海藤くんにこんな意外な一面があると知れて得した気分だし。ヒくどころか海藤くんへの興味と高感度はうなぎのぼりだ。へらへらと顔の力を抜いて笑ってみせると、それを見た海藤くんがいきなり顔を顰めた。え、なに、そんなに不気味なニヤケ顔してたかな今わたし!

さん、あのひとに似てる気が…いや、似てると言うとさんに失礼か…」
「うん?あのひと?」
「気にしないでくれ」

 きょとんとするわたしを置いてけぼりで、海藤くんはいっそう不機嫌そうな顔をする。その、あのひと、という人物は相当海藤くんに嫌われているらしい。泣いていたことと何か関係があるのかもしれない。けれどわたしが土足で踏み込んでいっても仕様が無さそうなのでそれ以上の詮索は止めておくことにした。さっきまで弱気にぼろぼろ泣いてた海藤くんはどこかへ行った、今ここにいる海藤くんはいつも通りの海藤くん、これで十分じゃないの。よかった、よかった。ついでに、わたしの名前も覚えててくれたみたいでよかった。

「じゃあ、わたしは失礼するね」

 立ち上がって、路地の間の狭い空を仰ぐ。さっきまで青かった空はオレンジ色に染まり、幾らか冷たくなった風がわたしの膝の裏を撫でていく。ああ、もうこんなに暗い。秋が近いんだ。そろそろカーディガンをクローゼットの中から引っ張り出そう。

 意識を空に飛ばしていたら、海藤くんがシャッ!と凄い速さで下から現れた。そんな勢い良く立つことないのに!スクワットじゃあるまいし!びっくりした!ぎょっとして海藤くんを見上げると、海藤くんは何故か神妙な面持ちでわたしをじっと見つめている。さっきまで見下ろしていた彼に見下ろされるのは、こっちが普通な筈なのに、なんだか不思議な気持ち、だ。なんだなんだ、なんでこんなに見つめられてるの今。そんなに目で語られても汲み取れないよわたし。

さん、………、帰り道、気をつけて」
「…うん、そうする」

 それ、たっぷり間を置いて言うほどのことですか。

 何か別に言おうとしたことを誤魔化したんだろうなぁとは思えど、さっきまで泣いてた相手にそんな意地悪をするほどわたしは悪者じゃない。でも、海藤くんがちょっぴり寂しそうな顔をするもんだから。ひょいと掌を上げて、少し上にある海藤くんの頭をわしゃわしゃとかき混ぜるように撫でてみた。やっぱり思ってた通りだ。海藤くんの髪、ふわふわしてて柔らかい。

 この大きな子供を彼の家付近まで送り届けてから帰ろうと、彼の真っ赤になってしまった耳を見上げながら思った。そろそろ夜が来る。夜の中で泣かれたら、きっとわたしは彼を見つけられない。



午後6時のきせき

(タイトルはキンモクセイが泣いた夜さまより。|2010.10.01、真山)