我ながら、未だによくもまぁこんなカフェでのバイトを続けていられるなぁと思う。

 やっすい時給の割には仕事も多いし店長もイヤミだし、面倒なことも数え切れない。利用者の多いクリスマスシーズンに遅くまで残って頑張ったのに残業手当が出なかった時にはさすがに本社に訴えようかと思った。だからほぼ毎日、タイムカードを切りながら“こんなバイトやめてやる!”と決意を固めて職員用出口からこのお店を後にするのだけれど、結局、翌日の昼間頃にこのお店に現れる“彼”を見かける度にそんな決意などさらっと忘れて“明日も頑張ってバイトに来よう”と改めて違う決意を固めてしまうのだ。

 明るいブラウンのさらりとした髪、青い瞳、整った顔立ち、クールな雰囲気、低い声。初めて見たときから彼のことが忘れられず、ふと思い出してはクッションを抱えてごろごろと床を転がったり意味も無く大声で叫びだしたくなってしまう。…って、これだけ聞くとまるで不審者だけれど、別にわたしは頭の危ない子じゃない。それなりに健全な、ただの、恋する乙女だ。

 そんなわたしだけれど、いよいよついに、本気の本気でこのバイトをやめようかと思い始めている。それは一体なぜか?そんなの想像に難くないだろう。愛しの彼が、ここ1週間ほどお店に来ないのだ。彼に会えないこのカフェでのバイトなんてオアシスの存在しない砂漠に等しい。カラカラに乾ききってしまって今にも萎れてしまいそうだ。

 そんなわたしの脇腹を、同じ制服に身を包んだ女の子がつつく。わたしはレジの横にもたれかかりながら彼女を振り返る。彼女、ちゃんはわたしの顔を見て呆れたように笑った。

「いつにも増して元気ないわね、
「…ちゃーん…今日も彼が来ないよー…」
「そうね、忙しいんじゃないかしら」
「わたしは待ち続けてるのに…ううん…忙しいのかな…」
の会話、傍から聞くとまるでキャバクラよ?」


 コーヒー豆の入った銀色の袋を運びながら、先輩がくすくすと笑う。確かに昼間のカフェには似合わない会話だったなぁと思い返して、わたしとちゃんも顔を見合わせながら声を殺して笑った。そうして気を抜いた途端、自動ドアの開く音が静かに鳴る。わたしよりも先にそれに反応したちゃんがそちらを見た、と思ったら、いきなりわたしの腕を引いた!

 びっくりしながら丸めた瞳で自動ドアを見ると、そこには、日差しを受けてきらきらと輝く茶色い髪の王子様が―否、彼が、立っていた。
 ああああ!待って、ちょっと、待って!ただでさえキラキラして見えるのに久しぶりなせいか一層輝いて見えるどうしよう…!眩しすぎて直視できない!だれか!わたしにサングラスを!

 息つく間もないような心の叫びも虚しく、ちゃんはわたしをドンと押してレジ前に退けた。それと同じタイミングで、彼もレジの前に立つ。レジを挟んで向かい合わせ。あれ?これって、こんなに近距離だったっけ…?あんなに毎日繰り返してた筈の状況なのに、わたしの心臓は今、破裂しそう、だ。

「い、…いらっしゃいませ!」

 ほら!思わず声が裏返っちゃった!みるみる内に上昇していく頬の熱を誤魔化そうと意味も無く必死に目下のメニュー票を見つめてみた。そんなわたしの様子に、背後で2人がフフッと小さく吹き出すのが聞こえた。
 どんなに恥ずかしくても、注文を承る際にはお客様と目を合わせなくてはならない。先輩の見ている前だし、こんなところで失態は犯すまいと必死に平静を装いながら彼を見上げた。やっぱり、長身だ。キレイな青い瞳はガラスみたい。だけど彼はわたしに関心なんて無いようで、メニュー票をさらっと目線でなぞると唇を動かした。

「ホットのカプチーノ、トールでひとつ」

 単調でクールで、いつも通りの彼の声。けれど、ひとつ、と人差し指を一本立てて見せた彼の腕には包帯が見えた。いつもと違うそれにひゅっと息を吸って吐くのを忘れてしまう。すると、彼が不思議そうにちょっとだけ首を傾げた。わたしは慌ててレジのキーに指を置いて、マニュアルどおりの言葉を告げようと彼の目を見た。何百回も繰り返し言ってきた言葉なのに、少しだけ言いよどんでしまう。

「あっ、ええっと、…お持ち帰りで宜しいですか?」
「ああ」


 彼は頷き、わたしが値段を言い、彼が支払う。とりあえずお金に関する部分でミスったら色々と致命的なので、ここだけは、とちょっとだけ集中した。安心するも束の間、隣でオーダーを聞いていたちゃんがさっさとカプチーノを作りに行ってしまう。それなら、とその補佐に入ろうとしたら先輩がさっさと彼女の隣に並んでしまった。先輩がちらりとわたしを見て、彼に見えないように、ひっそりとウインクをする。

 …やられた。というか、やってくれた。レジを挟んで、わたしと彼。見事に2人だけ取り残されてしまった。だがしかし!素晴らしすぎるシチュエーションを用意してくれた彼女らには申し訳ないのだけれど、わたしには彼と喋るような勇気とか度胸とかそんなもんはまったくない。

 そっと彼の方を見る。端整な横顔を盗み見る。…つもりが、なんということか。目が、合ってしまった。
 息が止まったまま、3秒ほどの、沈黙。

「あ、あのっ…!」
「…ん?」

 なんも考えなしに思わず沈黙を破ったわたしのバカやろう!!と必死で話題を探しながら自分を殴りたくなった。けれど思っていた以上に彼が優しい顔で首を傾げて言葉を待ってくれるものだから、むしろグッジョブと自分に親指を立ててやりたくなった。…あ、指と言えば。

「ケガ、してます、けど…大丈夫ですか…?」

 先程ちらりと見えた包帯を思い出してそう尋ねると、彼は自分の右腕を見下ろしてからわたしを見て、唇の端をちょこっと上げながら肩を竦めてみせた。

「ああ、大したこと無い。この程度なら慣れたもんさ」

 彼がわたしに向かって微笑んでるんだけど、これ、あれかな。夢かな。ここでいきなり自分のほっぺを抓りだすわけにも行かないので確かめるのは後にするとして、今度はわたしが彼の言葉に少し首を傾げた。慣れたもん、ってことは…そういう危ないお仕事に就いてるのかな?ってことは、この一週間もそういう危ないお仕事に?っていうか、危ないお仕事ってなんだろう?
 何か訊きたげなわたしの顔をじっと観察するように見ながら、彼は目を細める。

「君の方こそ、いつもより目が腫れぼったいな。寝不足か?」
「わっ!分かるんですか!?」

 夜な夜なあなたを想って眠れぬまま朝を迎えてましたとは口が裂けても言えない。しかしいきなり図星を、しかも顔を見ただけで突かれたとなれば驚きも半端なものじゃなくて。ばっ!と目元を隠すように掌で覆うと、掌の影の向こうから彼の笑い声が聞こえた。恐る恐る掌を外すと、愉しげに笑う彼のきれいな顔が目に入る。笑った顔、初めて見た。クールそうに見えるけど、こんな風に笑うんだ。

「いいや、カマをかけただけだ。…騙されやすいタイプなんだな、お嬢さん?」

 そして、彼は思っていた以上に意地悪な人のようだ。
 彼の外見や物腰からてっきりクールで真面目な人だろうと思いこんでいたわたしには、彼の意地悪は些か衝撃的過ぎた。ビックリして目を白黒させるわたしに、彼は意地の悪い笑みを浮かべてトドメの一言。

「悪い男には気をつけろよ」

 それは、つまり、あなたのことですか。
 咄嗟にそうツッコみそうになったのをぐっと飲み干すけれど、唇は自然にゆるゆると笑いだしてしまう。さっきまでがちがちにわたしを固めていた緊張が確実に少しずつ解かされていく。頬に上る熱もそのままに彼を見上げると、彼はどこか安心しているように見えた。一瞬そう見えた気がしただけだから、気のせいかも知れないけど。
 わたしはさっきよりも少しだけ砕けた口調で喋りだす。

「分かりました。お兄さんみたいなのには、特に、気をつけます」
「ひどいな。俺が悪い男なら、あのまま騙して連れ帰ってたよ」

 彼もまた、さっきよりも冗談っぽさを濃くして返してくれる。それならあなたがとんでもなく悪い男だったら良かったのに、なんて思ってしまうわたしは悪い女なのかもしれない。まさかここでじゃあ騙して連れ帰ってくださいとは言えないので、わたしは訝しむように眉を顰めて見せながら彼の表情を下から伺うように覗き込んだ。

「わたしのこと、からかってるんですか?」
「これは失礼。いじめて欲しそうな顔してたんで、つい、な」

 そんなドエム顔した覚えないんですけど!
 …というわたしの心の声は、つん、とわたしの脇腹をつついたちゃんによって声に出されずに済んだ。危ない危ない。相手がお客様なのを忘れる所だった。ちゃんから出来立てのカプチーノを受け取って、彼の方へと向き直る。これを彼に渡せば、おしまい。彼は帰ってしまう。

「…どうぞ、ホットカプチーノのトールサイズです」
「ありがとう」

 そっと掌から離れていったカプチーノの熱が、わたしの中に芽生えかけていた寂しさや不安に拍車を掛ける。次に会えるのはいつだろう。今度は一週間どころか、もっと、ずっと会えないかも知れない。いや、むしろ彼はもう来ないかもしれない。これからこのお店を出て行く彼を待ち構えているのは、この一週間よりも、もっともっと危ないお仕事かも知れないのだ。わたしは彼の名前も知らない。

 わたしの気持ちをよそに、彼はカプチーノを軽く掲げてわたしに会釈した。

「また来るよ、…

 彼の声で呼ばれたわたしの名前に、わたしだけじゃなく先輩やちゃんまで振り返るのが分かった。それから、ああそっか名札!と咄嗟に思うも、胸に手を当ててからハッとした。うそ、今、わたし、名札つけてないよ!そうだ3日前にチョコレートシロップまみれにしちゃったんだ!彼に最後に会ったのは、一週間前なのに!

「えっ!ど、どっどうして名前…!?」

 どもりまくりで慌てて声をかけようとすると、ちゃんがまたわたしの腕を引いた。今日はちゃんとよくスキンシップする日だなぁ。なんて、どこか楽観的な考えはレジカウンターに残されたレシートを目にした途端に何処かへ飛んでいってしまった。
 カプチーノをひとつお買い上げしただけの短いレシートの余白に、青いボールペンで走り書き。

My name is Leon .

「またのご来店をお待ちしてます!レオン!」

 レシートをぎゅっと握って、自動ドアから出て行く彼の背に大声を上げる。店内のお客さんが何事かとこっちを見たけど気にしない。レオンはこちらを振り向いて、確かに笑うと、ひらりと手を振ってくれた。 

「…つまり、最初から脈アリだったわけね」
「気を遣って損したわ。、もうここのバイトやめちゃっていいんじゃない?」

 レオンの姿が見えなくなるまで見送ったら、笑いながら言う2人の方を向いて、わたしはだらしなく笑って見せてやろう。面倒くさいし労働条件最悪だし不都合の多いこのカフェでのバイトだけど、今日からはもう少しだけここでの仕事を愛せる気がする。
 とりあえず、ちゃんと先輩にはあとでとびっきり美味しいものでも奢ろう。



心臓を掴んだのは誰。

(タイトルは“宴葬”さまより//2010.08.05)