水の都、ウォーターセブン。
 産業都市として栄えるこの街は常に活気に満ち溢れており、今日も人々は笑顔で水路を往来する。
 極稀にアクアラグナと呼ばれる水害に襲われるが、それもきちんと避難すれば恐ろしいことは何も無い。この街にある有名な造船所に船を依頼しに海賊もよく来るが、大抵彼らが暴れ出せばすぐに船大工たちがそれを収めてしまう。この街の住人達は船大工と海列車ですぐのところにある司法の島に守られながら、今日も青空の下で澄んだ水を渡りつつのんびりと生きるのだ。

 そんな代わり映えしない光景をぼんやりと、煙草の煙をくゆらせながら眺める人影がひとつ。彼はいわゆるブルと呼ばれる動物を用いた水路用馬車のようなものでタクシー業を営んでいるのだが…如何せん、暇だった。
 ブルは最早ペットと呼ばれてもおかしくないほど一般に普及しており、まずここの住民は滅多にブルタクシーを利用しない。旅行者も2人乗りのヤガラブル1匹で1000ベリーという安価な貸しブル屋で借りてしまうので、タクシー業に就いているこの男はまさに商売上がったりなのである。
 しかし来週辺りなら仮装カーニバルも始まるし、少しはお客が拾えるかもしれない。
 男は仮面を売る屋台ブルを見えなくなるまで目で追ってから、好物の水水肉を頬張る自らのブルへと視線を移し、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けた。そして、そろそろ煙草代さえ危ういことを思い出す。

「すみません」

 そのとき、ブルの上でくつろぐ男の上に影が掛かった。
 見上げれば、品の良さそうな男が小さく笑いながら自分を見下ろしている。黒いロングコートと黒いスラックス、黒い皮靴に黒いハット、と全身を黒色に包まれているその男はジュラルミンケースを片手に、申し訳なさそうな顔で言葉を続けた。

「造船所の1番ドッグまでお願いできませんかね」

 ハットを脱いだその男の髪もまた黒色で、どこまでも真っ黒な人だなぁとタクシー業の男は思った。
 しかし優しく細められた瞳だけは鮮やかな桃色とも紫色とも取れぬ色をしている。紫陽花のようだ。両耳には無数のピアスがぶら下ったりしがみ付いていたりしていて、紳士的な見た目には随分ミスマッチに見える。
 なんだか胡散臭い上にジュラルミンケースだなんて少し危ない職業を匂わせる風貌だが、何にせよ客は客だ。タクシー業の男は姿勢を正し、その男を後部座席へと誘導する。

「…あ、ああ。どうぞどうぞ」

 すると黒ずくめの男は安堵したように微笑み、後部座席へと腰掛けた。
 既に食事を終えたブルは手綱に従い、1番ドッグを目指して水面を滑り始める。

 今日のウォーターセブンは快晴。初夏を思わせる爽やかな天気だ。黒ずくめの男 ― は透き通った空気を胸いっぱいに吸って、行き交う人々や賑わう町並みを見渡した。
 ちょうど道端でアイスクリームを抱えていた子供が転んでそれをぶちまけ、泣き出すその子を母親が宥める場面に遭遇する。同じくそれを見ていただろうアイスクリーム屋が客もいないのにアイスをコーンによそり始めたのを視界の隅で捉え、は静かに笑う。
 この街は、なんと穏やかなのだろう。そう思った時には既に、そのまま声に出していた。

「随分と、賑やかで穏やかな街ですねぇ」
「ええ。来週には仮装カーニバルも控えてますんでね、賑わいも増すってもんですよ」
「仮装カーニバル…ああ、成程」

 の言葉にタクシー業の男が愛想よく応える。
 最近客を拾っていなかったとは言えど、タクシー業者はタクシー業者。まるで台本をなぞるかのように、客を乗せるたびに口にする台詞を再びここでも口にした。

「お兄さんは旅のお人、で?」
「お兄さんだなんて。ただの中年、所謂おっさんですよ」
「ハハハ、そんなことないですよ。かなり若々しく見えますって」

 事実それはお世辞でも何でもなく、の見た目は30代後半に差し掛かるかどうかぐらいに見えていた。しかし随分と丁寧で柔らかな喋り方をするのでそれよりは幾らか歳が行っているのかもしれないとは思うが、わざわざ言うことでもあるまい。
 今年で41歳になったは世辞に応えるように笑うと、問いに答えるべく少しだけ思案する。

「…んん、まあ…旅の人、ですかね。…配達人みたいなもので」
「…はあ」

 いわゆる“運び屋”なのだが、そう言ってしまってはなんだかアンダーグラウンドなイメージを抱かれかねない。は出来るだけオブラートに包んだ言い回しを選ぶが、タクシー業の男からは納得できていないような返事が返って来た。しかしそれ以上は訊かれないのでも何も言わない。八百屋の声に気を取られ、そちらへと意識を傾けた。
 その瞬間、向かいから着ていたブルが突如加速し、タクシーの側面を軽く掠めて走り去る。大きな波紋が渡り、タクシーが横に揺れた。慌ててブレーキをかけ、走り去る暴走ブルをタクシー業の男が振り返り見る。
 そのついでに視界に入った後部座席からは、銀色のジュラルミンケースが消えていた。

「あ、…あああああ!?」

 男の絶叫には驚いたように肩を震わせ、彼の視線に倣うようにして後ろを振り返る。
 既に小さくなりつつある暴走ブルに乗っている仮装姿の人物は、わざわざブルを止めるとこちらを向いて銀色のジュラルミンケースを天高く掲げた。それは正しく、が持っていたものだった。

「こんな大事そうなもんから目ェ離してんじゃねェよ!!おっさん!!」
「今夜の宴代は頂いたぜェ!!」

 キィキィ頭に響くようなこの騒ぎ方とこの姑息極まりない手口は、フランキー一家の者に違いない。
 フランキー一家と言えばこの街では知らぬ者のいないお騒がせ大迷惑集団だ。何もこんなところでこんなタイミングで、しかも自分の客をターゲットにしなくても…とタクシー業の男は思考を半ば放棄した真っ白な脳内で思う。
 それからハッと我に返り、荷物を盗られた張本人であるのことを見た。盗まれた荷物を見つめたまま何も言わぬ彼の表情は帽子のつばと光の加減で全く見えない。これだけ身なりが整っているのだから、中身は何か高価なものだったかもしれない。いや、配達人と言っていたし…あれには大事な届け物が入っているのではないだろうか。
 考えるだけで心臓が押し潰されそうな心地になっている男の視線の先で、は漸く言葉を発した。

「………やるなぁ」

 気も力も抜けた緩すぎるそのリアクションに、男は人生で始めて素のズッコケを決め込んだ。

「そんな感心してる場合じゃないでしょうに!!今ブルを戻して…」
「ああ、いえ、お構いなく」

 男はフランキー一家のブルを追おうと手綱を手に取るが、本人は相変わらずの柔らかな表情で掌をそっと掲げ、遠慮する仕草を見せた。どう見ても荷物を盗まれた人間の言うこととは思えない。どんだけ危機感が無いんだと逆に怒りそうになりながら、既に90度ほどターンしたブルを止めてのことを再度振り返る。

「はぁ!?だってアレあんたの ― 」
「ぎゃああああああ!?」

 唐突に響いた二人分の絶叫で、男は言おうとしていたことを瞬間的に忘れてしまった。
 慌てて視線を遣ればジュラルミンケースを盗んでいった暴走ブルの背の部分が、真っ黒なモヤに覆われてしまっていた。まるでそこだけ雨雲に包まれているかのようである。そこからたまに腕や足がジタバタとはみ出して見えるので、どうやら先程ジュラルミンケースを盗んだ二人はあの中でもがき苦しんでいるらしい。

「なッ!なんだこれ…ッぶえっくし!!…ぶゥエックショォオン!!ゴホッ!ゴホゴホッ!」
「ッぐ、あ!!目が…かれェ…ッ!!ッ、こ、これ、コショウか…!?」

 くしゃみと咳と涙声と呻りを全部ぐしゃぐしゃに混ぜたような声が聞こえてきたかと思うと、その黒いモヤの中から開いたジュラルミンケースがぽいと飛び出してきて水路に着水した。
 水流にくるくると踊らされながら、まるで水に浮いた蓮の花のようにジュラルミンケースがの元へと戻ってくる。タクシー業の男がそれの中に良く分からないカラクリと僅かに残った黒い粉を見つけ、胡椒の香りをふわりと感じる頃には既にフランキー一家は退散してしまっていた。

「この島には少々悪戯の過ぎる集団がいると聞いていたものでね。
 …とは言え、あからさま過ぎるかなとも思いましたが…引っかかるものだなあ」

 呆然とするタクシー業の男や事の成り行きを見ていた通行人たちを他所に、はそう言いながら当たり前のようにジュラルミンケースを拾い上げ、それをぱちんと閉じた。そして自分に集まった視線を感じ取れば眉尻を下げて申し訳なさそうに笑い、帽子のツバを抓んで軽く会釈する。

「…失礼。どうぞ、1番ドッグへ向かって下さい」

 穏やかな街に訪れた一瞬の静寂は、騒々しいほどの拍手によって再び賑わいを取り戻した。


A tempo rubato


(「盗まれたテンポ」転じて「自由なテンポで」という意味。…らしいです。(笑!)//2010.11.10)