まどろむことさえ許さぬような強烈な喉の渇きを覚え、はベッドから身を起こした。
 枕元の瓶は既に空。は眉間に細い皺を寄せながら、仕方なく自室を後にした。時刻はもうすぐ午前2時を回る頃だが、この船が寝静まるようなことは殆どない。暗い船内を食堂へ向かう途中、明かりの漏れる部屋から笑い声がいくつも聞こえてくれば思わずその唇には笑みが乗る。今夜も、この船内は平和だ。

 しかし食堂への扉を開いてそこにあった姿を目にした途端、の口許からは上機嫌な笑みがすっと退いてしまった。代わりに、彼女と目が合った“その姿”の唇がにこやかに孤を描く。
 彼は手元のグラスを軽く掲げ、桃色の瞳孔をそっと細めた。

「やあ、。良い夜だね」
「……そうだな」

 彼 ― の言葉に冷や水でもかけるようにぴしゃりと返答しながら、は淡々とカウンター席へと歩みを進めた。
 は笑みを崩さぬまま、目の前を通り過ぎた姿勢のいい背筋と翻る黒髪を目で追う。
 そしてグラスの酒を一口煽り、彼女の背に向けて声を発する。

「僕、これからここを出るつもりなんだけど」
「そうか。達者でな」
「…キミは本当に釣れないねぇ」

 少し笑いを含んだ、柔らかな物言い。振り返れば苦笑いを浮かべながら小首を傾げるの姿があるのだろうが、それを見る必要も無ければ用事も無いのでは黙って水差しからグラスへと水を注ぐ。
 はまるで海鳥のように、気紛れに去っては気紛れに現れる生き物だ。どうせそのうちひょっこり現れるだろうし、別れを惜しむような必要は無い。むしろ個人としては“これで厄介払いが出来る”ぐらいの認識である。正直なところ、はこの男の何を考えているか分からなくて得体の知れないところが苦手なのだ。
 そして、一昨日の晩の出来事が更にを“苦手なもの”にした。
 思い出しかけてしまったあの感覚を記憶の底へと流し込むように、はグラスを一気に煽った。少々生温い水が喉を潤す。濡れた唇を手の甲で拭いながらグラスを置くと、その隣に自分のものではない手がそっと並んだ。筋張っていて白く、そして大きな手。

「喉、渇いてたの?」
「っ、!?」

 いつの間にか、を後ろから覆うようにしてがそこに立っていた。驚き、慌てて身を翻そうとするも彼の体によってそれは叶わない。カウンターに突いていた左手の上には彼の左手が重なり、縫い止められてしまった。彼の顔は彼女の顔のすぐ横、丁度肩の上辺りまで俯けられている。
 瞬く間に握られた主導権に絶望する間も無く、耳元に感じた柔らかな呼吸での体温は急激に上昇してしまう。それは一昨日の晩に受けた辱めを思い出すには、十分すぎる刺激だった。

「ふうん。一応、照れたりはするんだね」

 薄桃色に染まった頬と耳を眺め、それから更にそれへと唇を寄せながらが静かに笑う。 

「…それとも、思い出しちゃった…?」

 一昨日の晩のことだと咄嗟に悟り、は目を見開いた。怒りのためとも恥のためともつかぬ熱が、の思考回路を僅かに鈍らせていく。けれど彼女も一端の“戦闘員”。呼吸を繰り返し、冷静な思考を手繰り寄せながらへと言葉を返す。

「…黙らないとその口、永久に開かなくするぞ…?」
の唇で縫い止めてくれるなら、本望」

 の耳に、頬に、更なる熱が灯る。
 不真面目で、上手に本音と建前の間を縫うようなの言い回し。それを真に受けて彼の掌に転げ落ちたが最後、彼はその女を“冗談だったのに”の一言で棄てるのだ。そういう男であることは少し前から知っている。
 だからこそ、彼に周りの女と同じように馬鹿にされているという状況が許せなかった。
 はグラスに添えたままだった右手を勢い良く振り上げ、の呪縛から逃れようと身を捩った。

「……っ!!恥を知れ、!」
「知ってるさ、恥ぐらい。でも、それを偲んでキミに言いたいことがある」

 一瞬だけ彼女から身を離し、振り上げられた右手首を捉え、詰め寄る。
 これまた流れるような動作でスマートに主導権を握られたは、離せとがなるつもりでを見上げた。しかしそこにあった表情に笑みはなく、は口に含んでいた言葉を思わず飲み下してしまった。

、僕と来ないか」

 そう、真っ直ぐに放たれた言葉。
 彼はまた私をからかっているのか、本気なのか、なんなのか。
 真摯に自分を見つめる桃色の瞳孔が、更にを動揺させ、混乱させる。

「…なっ、にを、唐突に…!?」
「こんなワガママ言えるような歳じゃないってこと、分かっちゃいるんだけどさ」

 彼女の左手を右手で包み込み、持ち上げ、その薬指にそっと唇で触れる。密かに、暗喩を込めて。

「なんでだろう。…キミが欲しくて堪らない」

 情欲にも似た輝きが桃色の瞳孔に差し込み、鋭さを増した瞳がを捉える。
 まるで雲のように穏やかで苛立つほど緩いこの男が、こんな獣のような顔をするなんて。
 は呆気に取られ、目を丸めたままされるがままにしていたが、やがてそっと視線を伏せると小さく首を横に振った。彼の言葉が冗談であるにしろ本気であるにしろ、には愛すべきひとがいる。

「私は…行かない」
「…そうか。それは、残念だなぁ」

 意外なほどあっさりと彼女の手を離し、は今までの顔が嘘のようにニッコリと笑う。
 それから身を翻し、先程まで座っていたテーブルまで行くと荷物を持ち上げ、を振り返った。

「じゃあ、またね」

 仕上げに帽子を被り、に向けて軽く手を掲げる。はそれに応えず、カウンターに寄りかかったまま、食堂を後にする彼の背中を見送った。
 苛立つほどマイペースな足音が遠退き、聞こえなくなる。それを確かめてから、どっと緊張感を吐き出すように深い溜息を吐いた。額に手を当て、足元を見つめる。

 あの男は“冗談だ”とも“諦める”とも言わなかった。ただ、“またね”とだけ言った。

 増えた厄介ごとにが二度目の溜息を吐くと、取り残されたグラスの氷がカランと音を立てた。



心を食べてしまえたらいいのに



 そうしたら断られることもなかっただろうか、と思考の隅で考える自分には小さく苦笑いを漏らした。
 夜明け前の漆黒の海に船を浮かべながら、彼女の体温を思い出す。
 この感情につけるべき名前を思い出せた日には、また彼女に会いに来よう。




(黒猫さんちのシェルア嬢をお借りしました!黒猫さんの書いて下さったお話とほんのりリンクさせてみたり。めっちゃ楽しかったです!素敵なお嬢さんを貸してくださり、本当にありがとうございましたー!//2011.01.19)