あれ、降ってきた。と目を瞬かせている間に雨脚はみるみる強まり、雨というかシャワー…というより最早カーテンのような勢いになったそれは(ダッシュで帰ればどうにかなるよね)と楽観的に考えていたわたしの心をぽっきりと折った。今の今まで透き通るように青かった夏空がウソのように、空は暗く沈んだ色をしている。夕立に遭うなんて我ながらついてない。風に乗って吹き込んできた雨粒が両腕と足を少しずつじんわり濡らし始めたので慌てて数歩後退り、本屋のショーウィンドウに背を預けた。両腕で胸に抱くのはたった今購入したばかりの本。この島の本屋に入荷される日を指折り数えて待ち続けていた、大好きな作家さんの新作だ。雨宿りしようと決めた以上、これを濡らすことだけは避けたい。

 というか、むしろ雨が止むまで本屋で暇を潰せるじゃないか。

 ふと思い至れば再度本屋に入店しようとショーウィンドウから背を離し、足を一歩だけ前に出し…たところで、それ以上動くことをやめた。本屋さんよりも都合の良い退屈しのぎが向こうからやってきてくれたから、である。

 ぐしょぐしょに濡れた黒い帽子を抑えながら彼は雨から逃れるように走ってきた。ピンク色にも見える明るいブラウンの髪は水分を吸ってしんなりとしていて、普段の緩いウェーブが更に緩いことになっている。彼はショートブーツでバシャバシャと水溜りを踏み、屋根の下に入ったところで俯けていた顔を上げてわたしを見た。苛立ちに歪んでいた顔が、一瞬にしてきょとんとしたものになる。

「お、じゃねェか。奇遇だな」
「奇遇…というか、お互いツイてないね、シュライヤ」

 苦笑いを浮かべてみせれば、町の便利な何でも屋さんのシュライヤ・バスクードも苦々しい笑みを唇に乗せる。「違いねェ」と低い声で言いながらさり気なく隣に並ぶ彼だったが、どう見ても既に全身濡れ鼠状態だ。それもう雨宿りの必要ないよね?と尋ねかけた言葉は飲み下し、別の話題を雨の中に探す。偶然にも訪れたロマンチックなシチュエーションを逃す手は無い。ふっと心に差した僅かな緊張感に気付かぬフリをしながら、隣の彼を見上げた。わたしの身長が平均よりも…なんというか…低い、せいで彼の身長が一層高く見えてしまう。ああ、わたしに5センチぐらいくれてもいいのに。

「今日もお仕事?」
「ああ。隣町で建築工事の手伝いしてきたトコだ」

 帽子を脱ぎながら彼が応える。水を吸った帽子はそのまま彼の髪も頭のてっぺんから濡らしてしまっている。そうして濡れた髪を大きな手でかき上げ、わたしを見下ろすシュライヤのなんと魅惑的なことか。頬や首筋を滴が伝い落ちる様に目を奪われかけ、慌てて視線を逸らす。…水も滴るなんとやら、ってこういうことを言うのね。

「お前は…また本か」
「別にいいでしょ」

 わたしの抱えているものを見たシュライヤが、からかうような声音で言う。だから少しだけ拗ねるようにぷいと顔をそっぽに向けてやった。彼から視線を逸らす良い理由が出来たと一瞬ホッとした、なんて口が裂けても言えない。視界の外でシュライヤが笑っているらしいことを聴覚で悟る。そしてそれも止み、一拍の間。どのタイミングでなるべく自然な感じを装いながら振り返ろうかと迷いだした頃、シュライヤが息を吸うのを空気で感じた。

「寒くねェか」

 唐突に尋ねられ、そういえば半袖のTシャツから露出した腕が随分と涼しいことに気がつく。家を出る時は快晴と呼ぶに相応しい天気だったから油断して薄着で来てしまったけれど、夕立にその陽射しも陽気も断ち切られてしまった。肌寒い気は、する。でもそれ以上に寒いだろう彼を今一度見上げた。

「…シュライヤの方が寒そうだけど」
「おれは平気だよ。お前は?」
「大丈夫、だけど」

 本当に?と問いたそうにシュライヤが目を細める。いやいや、今その顔したいのわたしの方なんだけど。余す所なく濡れた服はシュライヤの体温を奪っていそうだし、未だに髪からはぽたぽたと水が落ちている。それでも寒そうな素振りを見せずにわたしを気遣う彼の優しさに、わたしはほぼ無意識にくすくすと笑ってしまっていた。彼は不思議そうに片眉を持ち上げる。

「なに笑ってんだよ」
「別に?シュライヤって、本当にお兄ちゃん気質だなぁって思ってさ」

 頼りになるとか、優しいとか。色んな人の“お兄ちゃん”のイメージを集めて固めて人間の形にしたら、まさにシュライヤになりそうだ。見事過ぎるほどのシスコンっぷりも、ある意味では兄の鑑…なのかも知れない。シュライヤも“お兄ちゃん気質”と言われるのは別に悪い気がしないようで、ふっと吐息のような笑いを漏らしては、言う。

「お前みたいな妹は…いらねェけどな」

 本さえ抱えていなければ確実に殴っていた。
 瞬間的に殺意を芽生えさせるには十分すぎる意地悪を悪意なさげにサラリと言った彼の笑顔に、じとーっと文句を存分に孕んだ視線を送る。不機嫌なわたしの顔を見たシュライヤは、まるで企み通りとでも言うかのようにニヤリと笑う。

「すみませんね、アデルちゃんみたいな可愛げがなくて」
「まったくだ」

 まさかの即答だった。気がつけばサンダルのヒールでシュライヤの足を思い切り踏みつけていたけれど脊髄反射なので大目に見てもらいたい。ワザとじゃないのよ、ワザとじゃ。シュライヤは腕組みをしたままビクッと肩を震わせ、笑みを引き攣らせた。

「…冗談に決まってんだろ」
「遅いよ」

 それを聞いてたら踏まなかった、かも。という意味を潜めながらツッコみ、足を退ける。するとシュライヤはくつくつと喉の奥で笑いを噛み殺し始めた。なんだろう、何が彼のツボに入ったんだろう。双眸を丸めてぽかんと彼の笑い顔を見上げていたら、不意にシュライヤの声が降って来た。

「そもそも妹って柄か?」
「ん?どういうこと?」
は…そうだな。良い姉には、なりそうだ」
「ええ!?わたしシュライヤみたいな弟いらない!本気でいらない!」
「誰がおれの姉っつったよ。アデルの、な。アデルの」

 つかそこまで拒否することもねェだろ、と付け足すように言い、シュライヤは視線を降り注ぐ雨へと向けた。わたしも(あー、なるほど、そういうことね)と内心安堵しながら雨へと目を移す。先程よりも雨脚は弱まったように見える。雨が上がるのも時間の問題だろう。

「だって、アデルちゃん可愛いもん」

 わたしがアデルちゃんと買い物に出かけたり、お喋りしたり、一緒に料理を作ってみたり、と何かと彼女に構いたくなってしまうのは偏にアデルちゃんが可愛いからだ。人懐っこい性格、大きな瞳、ぴょんぴょん飛び回るような活発さ。たまに少しだけ口が悪かったりするけれど、それもサバけた彼女の良いところのひとつだと思っている。彼女と一緒にいると、妹ができたみたいで楽しくて嬉しくてしょうがなくなる…って、改めて考えてみると確かにアデルちゃんのお姉ちゃんってすごく魅力的なポジションな気がして来た。

「お前がアデルの姉になってくれりゃ、アデルもビエラじいさんも喜ぶよ」

 わたしの思考回路を見透かしたようなタイミングでシュライヤが言う。なんだかシュライヤに認められているような気がして単純に嬉しい。ニヤケそうな口元を必死で引き締めつつ、わたしは視線をシュライヤの横顔、足元、雨、と落ち着きなくうろちょろさせながら小さな声で応える。

「え、本当?…アデルちゃんの…お姉ちゃんかぁ…」

 声に出してみたら、それは更に素敵な響きに思えた。あ、だめだ、にやけてるぞ今わたし。でもアデルちゃんと、ビエラさんと…シュライヤに囲まれて毎日を過ごせるなんて、どれだけ幸せだろう。そしたら毎晩アデルちゃんと夕飯作ってビエラさんとシュライヤの帰宅を待ちたいな。…ってとこまで妄想、失敬、想像したところでハッと気がついた。それって、シュライヤのお嫁さんじゃないか。

「なんか、プロポーズみたい、だったね」

 シュライヤの、バカなこと言うんじゃねェよ、を期待して冗談めかして言う。けれどツッコミは返って来ず、とりあえずアハハーと緩く笑ってみたりした。…更に反応がない。いつもなら後頭部に軽く平手打ちぐらい返って来てても良さそうなのに。それともプロポーズとかそういう、ちょっと舞い上がった言葉がシュライヤをドン引かせてしまった、とか?だ、だったら…やばい…!
 冗談だよーだとか言おうとして、慌ててシュライヤを見上げる。けれどそこにあった意外すぎる光景の所為で、わたしは何を言おうとしたんだかさっぱり忘れてしまった。
 シュライヤは、思った以上に真剣な顔をしていた。

「え?…ちょっ、ちょっと…」
「あー、そのー…アレだ、アレ」

 え、ど、どうしてこのタイミングでその顔!?と尋ねればいいだけの話なのに、あまりの意外性に声が突っかかって出てこない。見開いた眼で、ちょっと困ってるっぽいシュライヤの顔を見上げるだけが精一杯。やめてよギャグのつもりだったのにそういう真面目なリアクションとか!期待しちゃうでしょ!と心の中で絶叫しつつ今にも顔面から火が噴出しそうなわたしをよそに、シュライヤは濡れた髪をぐしゃぐしゃと乱しながら言葉を探し続けている。わたしと一瞬だけ合った視線をパッと逸らし、雨を見て、わたしを見て、また雨を見て…手元にある水分で重そうな帽子を自分の頭に乗せると、やっぱりこっちを見ないままでぽつりと言った。

「…お前さえ良けりゃ、の話だよ」

 低くて小さな声だった。雨音に掻き消されてしまいそうなそれも、雨の止んだこのタイミングでは非常にハッキリとわたしの耳に届いてしまう。きゅ、と割と本気で呼吸が止まる。心臓が痛い。なんか、もう、どきどきしすぎて、痛い。

「雨、止んだな。帰るぞ」

 帽子を更に深く被り、シュライヤはスタスタと屋根の下から出て行ってしまう。完全に思考回路どころか身体機能もほとんど緊急停止してしまっていたわたしは漸くそれで我に返り、数歩遅れてシュライヤの後を追った。シュライヤは足が長いから一歩が大きい。小走りでも追いつけない。

「ちょっと待ってよ…!」
「待たねェ。アデルが心配してる筈だ、急がねェと」

 呼び止める声をバッサリと断ち切られてしまい、思わずむっとしてしまう。身勝手なこと言って、身勝手に足を進めて、わたしのことは置いてけぼりですかそうですか!かちーんとキたので、死ぬほどドキドキしている心臓を深い呼吸で宥めてから、足の回転を少しだけ速くした。シュライヤの背中に追いつき、それを追い越し、周りこんでシュライヤの顔を覗きこむ。そしてシュライヤのぎょっとした顔に、いーっと歯を剥いて見せた。

「この、シスコン!」
「うるせェよ」

 シュライヤの大きな掌が降ってきて、わたしの頭を押さえつけてぐしゃぐしゃ撫でた。ちょっと乱暴なそれにちっちゃく悲鳴が漏れる。でもシュライヤの顔がちょっとだけ赤くなってるのが見れたので、これぐらいのことなら勘弁してやろうかなんてぼんやり思ったりした。シュライヤの足取りが、わたしに合わせていくらか緩やかになる。

 雲間から青空が覗き、陽だまりがぽつぽつと出来始める。進路方向の陽だまりに現れた少女は傘を差し、更にもう2本の傘を腕に提げていた。少女がこちらに向けて、大きく傘を振る。わたしとシュライヤは顔を見合わせて笑うと、その陽だまりに向かって走りだした。



君に果てない空を見た


(十折さんに捧げます。いつもありがとう!大好きだー!//2010.08.13)
(タイトルは「capriccio」さまよりお借りしました)