「やわらかい髪だね」

 彼の指が壊れ物を扱うように、そっとわたしの髪に触れる。

 わたしは彼の出してくれたカフェオレを黙々と飲みながら、その優美な動作を視線で追った。指の腹で撫でて、絡めて、そっと持ち上げて。あまりにもその一連の動作が丁寧で優しいものだから、なんだか髪がくすぐったい気さえしてきた。持ち上げた髪をどうする気だろうと目で追い続けると、彼は顔をそっと俯けてそれに唇をつける。

「っ、サンジくん」

 非難めいた声音で名前を呼べば、サンジくんは指から髪をさらりと解放した。わたしの困り顔が愉しくて仕方無いらしい彼は、テーブルに頬杖を突いて隣からわたしに微笑みかける。きらきら揺れる金色の髪を見ていたら、そういえば今夜は綺麗な満月だったなぁなんてことを思い出した。

「これは失礼。あまりにも綺麗だったもので」

 ひどくわざとらしい丁寧語でサンジくんが言う。綺麗だったもので…って、そんなにも綺麗な金色の髪を持っておきながら一体どの口でそんなことを。別に髪にコンプレックスがある訳ではないけれど、なんだか皮肉にしか聞こえない。わたしを見つめて微笑むばかりのサンジくんに少し抵抗するつもりで眉根を寄せる。改めて口を付けたカフェオレのカップからは、ブランデーの甘い香りがした。

 彼の青い瞳は、薄暗い照明の下で鋭く細められている。まるで夜の海だ。月明かりに照らされて綺麗に見えるのは表面だけ。その奥はただひたすらに暗く、深く、冷たい。この瞳の奥で、何を考えているのだろう。何を思って、ただカフェオレを飲み干そうとしているだけのわたしを見つめてるのだろう。隣から注がれ続ける視線に居た堪れなくなり、わたしの視線は誰も座っていないお向かいの席へと泳いだ。ご飯の時には必ずそこにある緑色の頭を思い出して緩んでしまった口元は、カップが隠してくれているだろう。

「おかわりは?」
「…ううん、ありがとう。ごちそうさま」

 空になったティーカップをソーサーに置きながら答え、さっさと立ち去ってしまおうと席を立つ。最近のサンジくんが少しだけ苦手だ。大概はいつも通りなんだけど、こうして2人きりになると…なんというか、落ち着かない。そわそわしてしまう。ゾロと2人でいるときとは違う、危機感にも似た感覚。正体は分からないが、とにかく一刻も早く心臓を落ち着けたい。隣でサンジくんが立ち上がる気配がして、おやすみを告げようと彼を見上げた。

 背から腰へと回る彼の腕に、息を呑む。そっと俯いた彼の顔にデジャブを感じ、ほとんど脊椎反射で彼の胸を押し返した。顔を寄せようとしていた彼がぴたりと動きを止める。…今、このひと、何をしようとした?

「あの…サンジくん…?」
「へェ…意外と反応早ェな」

 にぃ、と意地悪に歪む彼の唇と更に細められる目。魅惑的と形容するに相応しいだろう表情を至近距離でぶつけられたわたしの頬には熱が灯り、サンジくんはそれを見て楽しげに喉を鳴らした。胸を押すわたしの腕を無視して、サンジくんが距離を縮めてくる。後退りしようにも腰を抱く腕がそれを許さない。

「えっ、うそ、ちょ、っと…!待って!待ってサンジくん!」
「構わねェが、何を待てばいいんだ?」
「何をって…!そういうことじゃなくて!あの、こっ、困るから!」
「困る?何に?」
「だって、…」

 緑髪で無愛想で繊細さの欠片もない剣士の姿が脳裏をよぎった途端、声が喉に引っかかって出てこなくなってしまった。不機嫌そうな顔。たまに見せる笑顔。間抜けな笑顔。真剣な横顔。ゾロのことを想えば想うほど、臆病な声帯は声を出すことを放棄してしまう。たった一言、ゾロのことが好きだから、とだけ言えれば目の前の非常事態は解決するのに。なんで、本人に言う訳でもないのに、声が出ないの。

「…その続きが声に出せないうちは、おれにもチャンスがあると思っていいんだろ?」

 サンジくんが笑う。わたしは空回る唇で、ただ浅い呼吸を繰り返す。

「脆いモンだな。…その気持ちに自信がねェから、声にも出せねェんだ」
「ッ、そんなこと!!」
「ない?…自分の胸に手を当ててみなよ」

 嘲るようなサンジくんの言い方は、わたしの神経を鮮やかに逆撫でた。そんなの、サンジくんに分かるはずも無いことだ。なのにどうして、気持ちまで否定されなきゃならないわけ?わたしはわたしなりに必死で、本気で、ゾロのことが…好き、なのに。咄嗟に普段出さないような荒々しい声を出してしまったけれどサンジくんは動揺する素振りも見せない。さら、と髪を揺らして小首を傾げる彼の仕草からは余裕を感じた。

「おれには言えるぜ?この気持ちが本物だって自信もあるし、確信もある」

 次いで彼が何を言おうとしているか、想像に難くなかった。

 テーブルに突いていたサンジくんの右手が持ち上がり、目を見開いたままのわたしの輪郭を指先でなぞる。心音が急激に速まっていく。逃げなければと思うほど足は竦み、腰を抱く彼の左腕の感触をリアルに感じてしまう。この状況を愉しんでいる様なサンジくんの綺麗な瞳から目が逸らせない。

 危機感にも似たこの感覚は、やはり気のせいではなかったのだ。

「こっちに堕ちておいで、

 低い声でサンジくんが囁く。

「とびきり、甘やかしてあげるよ」

 リップノイズすら鮮明に聞こえる距離。逃げられない状況。サンジくんの指先からも仄かに香るブランデーの甘い香り。どれもこれもがわたしの心を酔わせ、惑わせてゆく。きっとわたしは飲み物を求めてダイニングに足を運んだ瞬間から、サンジくんの罠の中にいたのだ。

 わたしはこれが悪夢であることを祈りながら、滲む視界に瞼で蓋をした。



しあわせをのろうゆび

     (どろどろに掻き混ぜてあげる)




(タイトルは遠吠えさまより。//2010.09.09)