音もなく忍び寄ってきた人影は一言も発さず、ただ黙って彼の腕を掴んだ。

 マルコは自分の腕に絡んだ華奢な指をちらりと眺め、その爪の先が白くなるほど力が込められていると気がつけば少しだけ思考する。構って欲しいのならそう言うのが彼女であるし、それにこの感じはまるで縋りつくようだ。どこに行く訳でもないのに引き止められている心地になる。
 唇を片側だけ吊り上げて笑い、マルコは溜息混じりの声を発した。

「落ちそうにでも見えたのかよい」
「…呑まれそうに見えた」

 彼女はぽつりと静かにそう答えた。そこで漸くマルコが彼女の瞳を振り返り、見る。彼女の瞳は宵闇と月灯りのせいかいつもよりも暗く沈んだ色をしており、何かに怯えているようにさえ思えた。
 マルコの有する悪魔の実の能力は、不死鳥。青い炎を纏った鳥の姿を為し、空を自由に飛び回ることが出来る。読んで字の如く攻撃の無効化に特化した能力ではあるが、それが悪魔の実によってもたらされた能力である以上たったひとつの“弱味”からは逃れることが出来ない。
 “それ”は船の手摺に腰掛けるマルコの目下から果てしなく広がっている、海だ。

「呑まれる、か」

 なんとも叙情的な表現だ。
 小さく笑ったマルコの腕から指をそっと離し、は彼の肩越しに海を眺めた。暗い海面を奔る小波が月明かりを跳ね返してきらきらと輝く様はまるで星空のようで、夜空と海の境目が曖昧になっている。波の音さえ聞こえなければ今この船は空を飛んでいるんじゃないかと錯覚しているところだ。ひどく美しい。
 いつの間にか、夜に連れて行かれないようにと彼を繋ぎ止めに来た筈の自分が夜に呑まれそうになっている。そう気がついては思わず吐息を漏らして笑ってしまいながら、は再び彼の腕に指を絡めようと腕を伸ばした。

 伸べた指先は、宙をかいた。

 そこにあった筈の背中がゆっくりと前に倒れ、白いシャツが月明かりを受けながら翻る。彼の大きくて優しい掌が手摺から剥がれて、夜風を泳いだ。すべての瞬間が1枚の絵のようだった。
 綺麗だとさえ思えたその光景は、水の爆ぜる音で急速に動き出す。宙に放り出された水しぶきが雨のように海面を叩き、煌々と映る月は大きく歪み、揺らいでいる。

「マルコ!!」

 海に呑まれた彼の名を呼ぶの声は、ほとんど悲鳴に近かった。海に呑まれた彼の姿は待てども浮いて来る筈が無い。悪魔の実の能力者は海に嫌われるがゆえに、それに抗う術を持たないのだ。泳ぐことももがくことも出来ず、ただ海に引きずり込まれるがままに沈みゆき、酸素が尽きるのを待つしかない。


 風と波の音が消え、冷たい海水が体を包む。海の中は青く透き通っていて非常に綺麗だという話を聞いていたが、夜の海はただひたすらに黒いばかりだった。底など存在しないのではと思わされてしまう。しかしうつ伏せに海底へと向かっていた体を仰向けると、世界が一変した。月明かりが揺らめきながら差し込んでおり、それはゆらゆらとカーテンのようにたゆたいながら、白、青、藍と鮮やかに色を変えていく。
 ごぼごぼ。
 音を立てて唇から漏れ出した空気が僅かな灯りを受け、煌きながら昇ってゆくのをマルコは目で追った。

 瞬間、どぼん、と白いあぶくが水面を覆い、見慣れた姿がこちら側に飛び込んできた。彼女は器用に水を蹴り、海水に髪を遊ばせながら、真っ直ぐにマルコの元へと泳いでくる。これだけ広くて暗いのによく見つけられたものだとマルコは冷静に感心する。月光のカーテンを背に、はマルコへと必死に手を伸ばす。マルコはその暗い海の中で際立って白い彼女の腕を、気怠そうな緩慢とした動作で捕まえると、そのまま自分の元へと引き寄せた。

 浮力の働くの体を引き止めるように、マルコは彼女の体を抱き締める。そうしてもまた、マルコという“錨”に繋がれることで緩やかに沈み始めた。マルコが腕を離してしまえば自分だけが海に突き放されてしまう、と咄嗟に恐れたの腕が、しっかりとマルコの背を抱く。

 音のない世界でふたり、抱き合いながら深遠へと沈んでいく。彼のシャツを僅かに照らしていた月明かりも少しずつ消え、ふたりの鼓膜には耳鳴りが響き始める。肌を覆う海水は一層冷たくなっていくが、交換し合っている体温のお蔭か、それに身を震わせることはなかった。

 顔を横に向け、はマルコの胸に耳を当てる。心臓の音は確かにそこにあった。果てしなく広がる暗闇の中で、翻った魚の鱗が星のようにちかりと光る。月光を飲み込んだプランクトンが、群れを成して踊る。
 失われていく酸素も、もう聞こえすらしない耳鳴りも既に恐ろしくなどなかった。この人の腕の中にいる、という安心感が、酸欠した脳が眠らせようとしている。

 もしかしたら今わたしはマルコと夜空を泳いでいるのかもしれない。
 は静かに、マルコの体温と深い沈黙の中で目を閉じた。



夜空に沈む魚たち

(ネタ元?は某所茶会参加者さま方から。ありがとうございました。//2010.10.13)