の肩に落ちた木の葉を拾おうとしたサンジの手が、ぴくり、と躊躇うように震えた。
 その気配を察知したは少しばかり不思議そうにサンジを見上げるけれど、取り繕うような笑みを目にしてはサンジの躊躇いの理由を瞬時に悟った。それと同時に浮かべて見せるのは、眉尻を微かに下げた、困ったような笑み。木漏れ日の下でゆるりと笑う彼女は一枚の絵画のようで、サンジは“それ”への違和感を更に強く覚えた。
 今目の前の光景が絵画だったなら、この作品の価値を確実に下げてしまうだろう、“それ”。

「そんなに、ひどい?」

 サンジに尋ねながら、は先程まで彼が視線を留めていた場所 ― 自身の首筋へと、手を遣る。指先を滑らせただけでも分かる。そこにはくっきりと、首筋の肉を微かに抉るほどの噛み跡が残されているのだ。
 昨晩の情事の最中に付けられたものであるせいか未だにそれは痛々しく腫れており、彼女の白い首筋にあってはその存在を主張しているようにさえ見える。少なくとも、サンジにはそう見えた。
 彼女に“これ”をつけた男は、一体何を思って彼女に傷を遺すのだろうか。
 騎士道精神を持つサンジには理解することも…否、しようとも思えない。

「もう痛くないから。大丈夫だよ」

 首筋から動かぬ視線に、心配されてるのだろうと思ったはそう声をかける。それで自分が如何に無遠慮にまじまじと傷を見ていたかに気が付き、サンジは思わず取り乱した。そこにあるだけでも羞恥を覚えるだろう傷(要因も要因であるし)を見つめるだなんて、なんてデリカシーに欠ける男なんだおれは!
 何故かサンジの方が少しばかり頬を染めてしまいながら、何かフォローを、と咄嗟に考えた。…けれど、その考えはさっと頭から追い出す。フォローは即ち、この傷を付けた男へのフォローにもなり得る。そればかりは避けたい。
 サンジは迷った挙句、少しだけ眉尻を下げて見せた。と同じ、困惑の表情。

「それにしたってこれは酷ェよ…。痕、くっきり残ってるぜ?」
「しょうがないよ。あのルフィが加減を覚えると思う?」


 諦める、というよりも、呆れているような物言いだった。ルフィに噛み付かれることを微塵も嫌だと思っていないようなのそれにサンジが眉を顰める。それどころか彼女の晴れ晴れとした笑顔は“彼女は甘んじて彼の噛み癖を受け入れている”とさえ思わせた。わざわざ痛いことを望んで受け入れている?白くて美しい首筋に消えないかも知れない痕を残されているのに?サンジの顔の上で困惑の色が一層強まる。
 は声を出さずにくすくす笑うと、膝の上で開いていた本を閉じて立ち上がった。
 先程サンジの拾おうとした木の葉が、ひらり、木漏れ日の照らす芝生へと落ちる。
 それに意識を奪われている少しの間にの背中は船室へ消えていこうとしていた。遠ざかって行くその華奢な背中に、サンジの中にあった小さな不安が急激に頭を擡げる。
 不安と葛藤するような間も無く、気が付いたときには既に彼女の名前を呼んでいた。

ちゃん!…なぁ、君、もしかして、」

 サンジの言葉の続きを遮るように、彼女は振り返ると唇の前に人差し指を立てた。
 幼児にも分かる、喋るな、のサイン。
 思わず口を噤んだサンジにはにっこりと満足げな笑みを浮かべてみせ、前へと向き直り、船室の中へと姿を消してしまった。
 サンジは扉の閉まる音を聴きながら足元の葉に視線を落とす。

(…君は、もしかして、ルフィに本当の意味で“食われたい”と思い始めてるんじゃねェか?)

 紡げなかった言葉の続きは、静かにサンジの心の奥底へと仕舞われた。



* * * * *



 普段船員が滅多に使わないこの船室は、いつの間にやらルフィとの“お決まりの場所”となっていた。そうなってからは更にこの船室に足を運ぶものはいなくなり、今ではいつでも好きなときに、もっと言えば“ルフィが空腹になったとき”に都合良く利用できるようになってしまった。ぼやけた視界で仰ぐ天井も、埃の匂いも、素肌で感じる床の冷たさも、には随分と馴染みのあるものだ。

 けれど、この時にだけ見せるルフィの誘発的で恍惚とした表情だけは見慣れることができないなと、火照る身体とは対照的に冷静な思考で考える。さながら肉食獣だ。瞳に半分ほど瞼が掛かるだけで、眉が顰まるだけで、微かに頬に朱が差すだけで、どうしてこうもエロイ顔になるのだろう、なんて。そんな思考も、下腹部への圧迫感で真っ白に塗り替えられていってしまう。
 ソレは音も無くの内側を押し広げ、遠慮なくねじり込まれていく。ゆっくり、ゆっくり、と。

「…ふ、…っ、ぁあっ、や…!」
、……


 痛みとも快楽ともつかない感覚に溜息だけを零したつもりが、唇が震えて悩ましい声が出てしまう。それがイヤで首を横に振ると、ルフィがの名を呼んだ。それから彼女の額に、軽い口付けを落とす。こうすりゃ女は落ち着くもんだってサンジに聞いたんだ、とどこか自慢げに笑っていたルフィを思い出して、の唇の端に微かな笑みが乗った。
 それを余裕のサインと受け取ったルフィが、腰を引く。ずるりと動いたソレに内側が擦られ、が肩を震わせる ― 間も無く、勢いよくソレはの奥を突いた。

「ひゃっ、あ…ッ!」

 悲鳴じみた声を上げると内壁がじくりと蠢いた。ルフィの眉が、ぴくりと一瞬だけ動く。それが“イイ”サインであることは、は既に心得ている。そして、こうなったルフィが次に取る行動も。
 今夜はどこに食らいつくだろうかと、どこに痛みが来てもいいようには密かに心の準備をする。昨晩は首筋だった。その前は二の腕。その前は脇腹。内腿。鎖骨。考えてはみたけれど規則性はまるで無いようなので、彼は本当に気紛れで歯を立てる場所を決めているらしい。が昨晩の首筋への裂けるような痛みを思い出している傍から、ルフィの顔がそっとの身体へと降りていく。

 今宵の彼は、の乳房を噛んだ。

 思いもよらなかった、とばかりには目を見開く。驚く彼女をよそに、ルフィは上目に彼女の表情を伺いながら徐々に噛む力を強めていく。綺麗な乳房がルフィの唇でひしゃげて、微かに赤紫色を帯び始めた。鬱血だ。
 それでもルフィの歯は乳房をギリギリと締め付けることをやめない。ルフィの瞳はただ淡々と、痛みに歪みゆくの表情を下から眺めるばかりだ。彼の純粋すぎるほどの好奇心と欲求をそこに感じたの背には悪寒が走る。
 今までは抵抗せずただルフィの気が済むのを待っていたけれど、今回ばかりは本当に、まずい。
 
「…ルフィ、…それ、っ痛い…!」

 彼の行為にが拒絶を示すのは、最初のとき以来だった。
 ルフィは素直に口の中から彼女の乳房を解放すると、首筋のものに劣らず綺麗に付いた歯形を舌先でそっとなぞる。痺れにも似た痛みに眉を顰めながらもは、今の拒絶がルフィを傷付けた…なんてことは無さそうだと、心のどこかで安堵していた。
 なぜなら彼女のナカの彼のソレが、確実に今、質量を増したからだ。

「そっか、ごめんな。痛ェの忘れさせてやっから」

 労わりを含んだ声音で言いながら、ルフィはの額に再び口付ける。
 彼が微かに腰を引く。くちゃり。先程にも増して派手に鳴った粘着質な音に、は思わず声を殺して笑ってしまった。どうやらわたしも彼と同類の、変態であるらしい、と。
 そんなにつられるようにして、ルフィも行為の最中であることを忘れさせるような笑顔をみせた。

は奥がイイんだよな!」

 太陽のような笑顔の割に、口にした台詞は随分と卑猥なものだったけれど。
 幼子が母に甘えるようにしてルフィにしがみ付きながら、は小さく頷いて肯定を示した。ルフィが耳元で笑うのを吐息で感じとる。そして快楽で何も考えられなくなる直前の、妙に冴えた頭で思った。

(食べられるのって、意外と度胸と耐性が要るものなのね)

 乳房は未だ、じくじくと鈍い痛みを訴え続けていた。



* * * * *



「おい、ルフィ」
「ん?」


 昼食後、サンジはダイニングルームを後にしていく船員達の中から船長だけを呼び止めた。ルフィは足を止め、振り返り、きょとりと目を丸める。さながら小動物だ。そんな彼がにあんな傷を付けていると思うと信じられない気持ちになるが、にあの傷を残したのがルフィであるというのは紛れも無い事実。
 船員達の足音が船内の方々へと散っていくのを待ち、サンジは口を開く。

「お前…本気でちゃんを食う気じゃ…ねェよな?」

 昨晩も情事を交わしただろうふたり。きっと外から見えないだけで、には噛み跡が増やされた筈だ。
 恋人を喰らうだなんて猟奇的なこと普通なら起こり得ないのだが、如何せんルフィの“欲”への姿勢は良くも悪くも純粋だ。いつかサンジは、彼女を食いたい、と言ったルフィにこう言った覚えがある。
 お前、狂ってるよ。と。

「なに言ってんだ?は肉じゃねェし、食う気なんかねェよ」

 しかしルフィは当然のことのように、否、当然のことなのだが、さらりとそう言ってのけた。
 サンジとルフィの間に暫しの沈黙が下りてくる。7秒ほど続いたそれの後、もう用がないなら、とばかりにルフィは踵を返してダイニングの外へと向かった。どうやら不安は杞憂で済んだらしいと安堵しながら、サンジも食器の片付けに取り掛かろうとYシャツの袖を捲る。

「サンジー!」

 けれどルフィの自分を呼ぶ声でその手を止めて振り返る。
 扉の形に切り取られた青空を背景に鮮烈な程に明るく笑うルフィの姿が、そこにはあった。

「おれ、イタイときのの顔と声が一番好きなんだ」

 楽しそうな笑顔で、冒険前のような弾んだ声で、ルフィは堂々と言ってのけた。
 突然すぎるカミングアウトにサンジは呆気に取られ、皿を手にしたままでルフィの笑顔を凝視してしまう。そんなこと聞いちゃいないのに、どうしてルフィはサンジの思わんとしていることが分かったのだろうか。彼女に付けられた痛々しい噛み痕が心配だなんて、声にした覚えも無いのに。
 まさか、おれが心配することも分かった上で一昨日は噛み跡を、あんな目立つ所に?目的は?マーキング?
 驚きと混乱と冷静な思考が入り混じり、サンジは言葉を完全に見失った。
 遠くでウソップの声がする。ルフィはそれに声を返すと、にしし!と特徴的な笑い方をしながらサンジを見た。

「これにはナイショな!」

 唇に人差し指を当て、秘密を示す。そうして駆けて行く彼の姿にサンジはデジャヴを覚えると同時に、眩暈さえ覚えていた。
 なるほど。ルフィは“を食う”という言葉の表現から、行為を通してどうしようもないサドに目覚めてしまったようだ。そして彼女もまた、愛情を通り越した違う何かに目覚めつつあるらしい。

 彼女を殺さない食い方と偽ってセックスの仕方を教えたのなんて、些細なブラックジョークだったのに。

「純粋すぎるってのも考えモンだな」

 ひたすらに純粋だったルフィの片想いをひねくれさせてしまった張本人は、皿を手にひとり笑った。



エゴイスティックロマンチスト

(「Pure Lust」さまへ捧げます。素敵な企画をありがとうございます!//2010.04.02//ソラオ)