店の戸を開けて外へと一歩踏み出すと、夜の風がわたしの頬を撫ぜた。

 わたしの髪を揺らしてマフラーの端を攫ったその風は店の中にまで舞い込み、CLOSEと書かれた札をからからと鳴らす。冬らしい、キンと透き通ったそれに肺まで凍らされそうな心地を覚えて、慌てて口元をマフラーに埋めた。ああ、いつの間にやらすっかり冬だ。秋島であるこの島の夜空に雪がちらつくのも時間の問題だろうなぁ。コートのポケットに両手を突っ込んで、霞がかった月明かりに照らされた町並みをぐるりと見渡す。

 街灯の白い灯りがぽつぽつと、レンガ造りの路地を心細げになぞっている。けれど路地は大きなカーブを描いているため、数十メートル先から向こう側は見えない。

 まぁ、個人的には見えなくて結構なんだけどね。だって、その先の岬には忌々しいジョリー・ロジャーを掲げた海賊船が数週間前から停泊しているから。太陽のようなデザインの、笑うドクロの旗。最初に見た時こそ驚いたものの、こう何週間も、ほぼ毎日目にしていれば流石に見慣れる…どころか、拒絶反応さえ起きるようになってきた。

 拒絶反応が起きるようになったのは、その海賊船の船長のせい、なんだけれども。

「女が夜道を一人で歩くな。…昨晩言ったばかりだろ、もう忘れたのか」

 噂をすればなんとやら、だ。わたしの進行方向、岬とは逆方向の電灯の下に、今や見慣れたその男が立っていた。トレードマークのもこもこした帽子、長袖のパーカー、両腕と手の甲のド派手な刺青…は、今は袖に隠されて見えないけれど。その男、トラファルガー・ローは、どう見ても性格が良さそうには見えない笑みをわたしに向けた。ただでさえ不健康そうなのに、青白い灯りのためか更に血色が悪くみえる。

 毎晩、こうして彼はわたしに会いに来る。いつも違う種類の、女物の香水の匂いをさせながら。

 ひとつひとつは恐らくとても高価な香水なのだろうが、それが交じり合うととても安っぽく感じる。わたしは、そうなりたくない。いつかこの男がわたしに囁いた愛してるだって、きっとチープなリップサービスに過ぎないのだ。だからわたしはもうこの男には関わらないことにした。男の向こう側の夜景を見据え、低いヒールを軽やかに鳴らして、男の隣を通り過ぎる。すると信じられないことに、男はくつくつと笑った。苛立ち、思わず立ち止まる。

「そんなにおれが気に食わねェか」

 どうしてそんなに愉しそうに言うんだろう。いよいよマゾにでも目覚めたかと男を視線だけで振り返ると、男もまた顎を少しばかり上げて、視線だけでわたしを見ていた。つ、と細まった鋭い瞳は、三日月に似ていた。

「そりゃァ残念だ。おれはお前のこと、気に入ってんのにな」

 残念?思ってもない癖に。わたしは思わず意地になって、くるりと体を反転させて男に向き直る。

「ごめんなさい。わたし、嘘吐きはキライなの」

 皮肉をたっぷり込めて、普段使わないような丁寧な言い回しで、それでもキライの部分はきっちりと強めて男の背中へと言葉を投げかけた。男もわたしへと体を向けて、わざとらしく肩を竦める。

「嘘?身に覚えがねェな。おれが一体いつ嘘を吐いた」
「…随分と沢山、女性向けの香水を持ってるみたいだけど?」


 身に覚えが無いなんて白々しいにも程がある。だからこれ以上下らない言い訳をされないようにと、余計な探りを一切省いて核心を突く。たった今この男とすれ違った瞬間に漂ってきた匂いだって、昨日のものとは違うものだった。一昨日のものとも違う。果たして男はこれを認めるのか、苦しい言い訳を重ねるのか。様子を伺うようにして首を傾げて見せると、男は一度よく分からないといった顔をしてから、思い出したように頷いた。

「ああ、娼婦のモンか。アイツらの香水はキツすぎる」

 認めるどころか開き直りですかそれは。あまりにもあっさりと娼婦との関係を認めた男に、更なる疑惑の視線を向ける。じりじりと男との距離を開けるようにして後退すると、男は不快そうに眉間に皺を寄せた。

「…オイ、なんだその目は。勝手に向こうが擦り寄って来るだけだ」

 わたしが開けた距離を詰めようともせず、男は低い声でそう言った。勝手に擦り寄って来る、なんて言ったって、それを易々と受け入れる男も男だ。所詮は同じ穴のムジナ。娼婦もアンタも大差ないよ、とは言わずに、少しばかり表現を柔らかくして声に乗せる。呆れから、溜息が零れた。

「……結局、大安売りなんじゃない。あんたの言う愛なんて」
「誤解するな、お前と娼婦は違ェだろ。お前さえ傍に居りゃ、娼婦を抱く必要も無くなる」


 とどめの一言を放ったつもりが、すぐさま切り返された言葉に顔がカッと熱くなる。あああもうこいつ出航前にセクハラで訴えて縛り首にしてやろうか!しかもなんでそんな真剣な顔で言うの!アンタからすれば娼婦もわたしもさして変わらないんでしょ、どうせ!だから嘘吐きはキライだと言ってるのに!

 白いもふもふしたニットのマフラーに必死で顔を埋めながら男を睨むが、男は愉しげに笑うばかり。

「前々から思ってはいたが…、お前意外と初心だな」
「…―っ、うるさい!いつまでこの島にいる気なのよ!ログなら溜まってる筈でしょ!?」


 とにかく赤い顔には触れて欲しくないし男の揶揄がムカつくしで、わたしは時間帯も気にせずに声を荒げた。男はイヤらしい笑みを貼り付けたまま、両手をズボンのポケットへと突っ込む。

「出航は明日だ」
「…は?」

 思わず間抜けな声を上げてしまうぐらい、あまりにもそれは唐突過ぎた。出航が、明日、って、…明日?驚き見開いた目が乾燥しそうになったので瞬きをすると、男は改めるようにして言い直す。「おれ達は明日、この島を出航する」待って待って。確かにいつまでいる気なのとは言ったけど、どうして明日なの?ねぇ、ちょっと、…いくらなんでも急すぎる、って。

 今まで忘れかけていた冷たい夜風が、急速にわたしの体温を奪っていく。思考回路までもが凍てついたように動かないのだからこれは異常事態だ。でも心臓はびくびくと小刻みな鼓動を始める。冷えた指先には血液が回っていないようにさえ思えた。どうして、わたしはこんなに動揺してるんだろう。明日の夜から電灯下の影に怯えなくても済むってだけの話なのに。

「お前に会いに来るのも、今晩が最後」

 付け加えられたその一言が、ずしん、と心臓の上に乗っかった。ひどく重い。思考回路に同じく心臓まで圧迫されて止まってしまいそうだ。そうなられたら困る、死にたくない。でも、なんだか苦しすぎて呼吸困難ぐらいなら引き起こせる気がして来た。本当なら、それは清々するね海の向こうでも頑張りたまえよ船長!って笑い飛ばすべき場面なのに。わたしは何も言えないでいる。

 そんな動揺に反発しようと、わたしは必死で唇の角を吊り上げた。眉尻を上げて、強気に目まで細めて。

「…そう言えばわたしが揺らぐとでも?」
「ああ」

 男は自信満々に頷いた。既にわたしの動揺が悟られている気がして、気恥ずかしくなって再び頬が熱を覚える。ええそうですとも確かに揺らぎましたよぐらっぐらですよチクショウ!逆ギレまで秒読み状態になった所で、男の唇が薄っすらと開く。「そのつもりだった」…だった?過去形?笑みを消して、男の言葉の続きを待つ。男は、すらりと長い右腕を持ち上げたと思えば帽子を上から抑えて一層深く被った。電灯の下。帽子の影に隠されて、高い鼻と皮肉っぽく弧を描いた唇しか見えない。

「…結論から言うと、だ。揺らいだのは、おれの方らしい」

 自嘲的な響きを内包したその言葉の意味にわたしが首を傾げるよりも速く、男は帽子に添えていた手をそっと私に向けて伸べた。帽子の下、やっと見えた男の目は相変わらず鋭く輝いている。

「おれと一緒に来い、

 男が、夜風にも似た凛と突き刺すような声で言った。

 わたしのフリーズが解けるまで、たっぷり瞬き9回分の時間を要した。…空耳にしては性質が悪い。

「一緒に…?もしかして、わたしを、海賊に誘っていらっしゃ…る?」
「それ以外に解釈の仕様があんなら、教えて貰おうか」

 そんなに飄々と応えられては恐る恐る尋ねたわたしが馬鹿みたいだけれど、問題はそこじゃなかった。ローは、確かにわたしを勧誘している、らしい。うっわあ…聞き間違いじゃなかった…!改めて事態を把握すると同時に、一気に心音が加速する。気管を押し上げて口から出んばかりの勢いだ!

「はぁ!?なっ、ななななに、言って……だ、だって、わたし一般市民、だし…!」
「それを言うならおれは海賊だ。欲しいもんは奪ってでも手に入れなきゃ気が済まねェ」

 しどろもどろ、上手く動かぬ唇でわたしの紡いだ言葉よりも、ローの言葉の方が道理に適っていた。わたしは思わず口を噤んで、今のびっくりどっきりのせいで微かに霞んだ視界でローを必死に睨む。口で勝てなきゃ目で戦うしかない。

 苛々する。ローの笑みよりも何よりも、一言めでキッパリと断れなかった自分に、だ。

「断言してやろうか。お前はここでおれの手を取らなきゃ、この先一生後悔するぞ」
「そんな勝手な…!」

 どこまで我侭な男なんだろう!だからわたしは海賊なんて大嫌いなのよ!わたしが後悔するかどうかなんて、この男の知るところではないはずだ。…なのに、この男が余りにも真っ直ぐな目で勝気に笑いながら自信満々に言うものだから、なんだかそんな気にさせられてしまう。ここでこの男の手を取るか、取らないか。この選択肢で、わたしの人生は明日から大きく2つに分かれる。どちらに進んでも、きっとわたしは後悔するだろうけど。

「勝手でもなけりゃ嘘吐きでもねェよ、おれは。嘘吐きはお前の方だろ」

 ローが伸べた手をそのままキープした状態で、反論してきた。だからわたしは彼に怪訝な目を向ける。

「…わたしが、嘘吐き?」
「少しは自分に素直になったらどうなんだ?なァ、

 素直に、ね。それなら選択の余地は無い。迷うまでもない。

 少しばかり意地になっている自分を自覚しながら、わたしは男に歩み寄った。こつりこつり、低いヒールが鳴る。街灯の白い光の中に入ると、まるで今自分がステージの上に立っているような気さえした。強欲な海賊に見初められた可哀想で善良な島民の物語。物語の結末は、登場人物たちさえ知らない。

 伸べられた手を見ないようにしながら長身の彼を見上げて、自分の首元をぐるりと覆ったマフラーをほどく。風はわたしの首もとの体温を迅速に奪って行った。そんなわたしを不思議そうに視線だけで見下ろしていたローの首に、そのマフラーをふわりと掛けてやった。突然のことに、ローの目が丸まる。この人でもびっくりするんだなぁ。なんか、かわいい。

 冷たい息を吸って、吐いて。意を決して、改めてローの目を見た。わたしを諦めて、わたしの代わりにそのマフラーでも連れて行って精々体に気をつければいい。元気でいてくれたら、それ以上は望まないから。切々とした思いを言葉にするには不器用すぎるわたしは、それを頑張って視線に乗せてみた、つもりだった。

「わたしは、行けないよ。それより寒そうなその格好をどうにか ― 」

 しっかりと断ってから、痛む気持ちを誤魔化そうとした。ありえない。なにが哀しいの、わたしは。

 だけどわたしを唐突にぎゅっと包んだローの腕があんまりにも力強くて温かかったものだから、思わず声も途切れて視界も滲んだ。香水の匂いはもうしない。寒さに震えていた指先までもが体温を取り戻していく。

 わたしは、どこかで、この体温を望んでいた?

 ローの肩口に、ぎゅっと頭を押し付けられる。耳元で呼吸する音がして、こそばゆさに目を瞑った。

「いらねェ世話だな。…もう一度だけ言うぞ。おれが欲しいのは、お前だ」

 低い、低い、声。この男は、自分自身の持つ声の色気とその有効利用の仕方を熟知しているらしかった。お蔭様でこちとら耳が溶けそうだ。耳どころか、羞恥と熱で全身が液体になってしまいそうな気までしてきた。ローの腕が緩み、わたしとローの間に少しだけ距離が出来る。細くて白いのに男っぽいごつごつした指先が、わたしの頬をなぞる。ああ、どうしたものか。どんな顔でローを見たらいいのか分からない。彼の腕を突っぱねる気が起きない。

 わたしは今、自ら望んで悪党の手に落ちようとしている。

「…どうした?抵抗しねェのか。それならこのまま攫って帰るが、いいんだな?」

 ローが嬉しそう、と言うよりは、愉しそうに言った。わたしは眉根を寄せて、唇を尖らせて、必死で不機嫌な表情を作ってからローを見上げた。仕方なく抵抗できない、とでも言い訳するように。

「……抵抗したら?」
「呼吸もままならねェぐらい口付けて、酸欠で動かなくなったお前を連れ帰る」

 なんで、こう、言うこと全部が卑猥な方面にしか行かないのかなこの男は…!しかもなんか生々しいし!信じられない!そこは、抱き上げて攫ってやるさ、朝の光に見つかる前に!ぐらいロマンチックなセリフをくれてもいいところでしょうに!…いや、そんなことローに言われたら逆に怖い。攫われた向こう側にも、やっぱり卑猥な結末しか見えない。

 色々考えてみたけど、どうあがいてもわたしはローの手からは逃れられないようだった。この結末に安堵しようとしているわたしの素直な心は一度遠くへと蹴飛ばして、最後の抵抗と決め込もうじゃないか。あとひとつ、爪を立てたら、わたしはローに攫ってもらえるんだから。

「…ロー、なんて…だいきらいだ…!」
「そうか」

 ローの唇の角は、わたしの思惑通りにイヤらしく吊り上げられた。そんなローの笑みも、こうなることは最初から分かっていた、とばかりに余裕綽々なものだった。これ、少しでも崩してやれないかな。まぁこれから長い間一緒になるのだから、少しずつこの男の弱点を探していくのも悪くない。

 ローの指先がわたしの顎を持ち上げる。距離が一気に縮まって、わたしの顔にローの影が掛かる。わたしが目を閉じるよりも速く、ローの舌先がちろりとわたしの唇を撫でた。

「お前みたいな嘘吐きは、キライじゃねェよ」

 その言葉を最後に、ローはわたしの唇にがぶりと噛みついた。
 …ごめんなさい、店長。わたしは海賊に転職しますので、新しいバイトの子を探してください。



嘘みたいに甘く・絶望みたいに深く

(君の掌で溺れて死ねるなら、本望だ)



(Dearestさまに提出した作品です。)
(楽しかったです、有難う御座いました!そしてお騒がせしてすみませんでした…!(笑!)//09.11.21 ソラオ)