三日前に死んだ船員の名前を刻んだ壁にウイスキーをかけて手を合わせると、シケたツラすんなよキャプテンが不機嫌になるだろっていつも通りにわたしを笑う彼の声が聞こえた気がした。振り返ればそこで酒瓶片手に立ってる気がして、けれどわたしは振り返って落胆することが何よりも怖かったものだから、振り返らずにただ瞼をぎゅっと合わせた。彼がもう死んだのは事実なのに、わたしはどうしてもそれが受け止め切れていない。だから、三日前のことを思い出すことにする。

 それは、一瞬のことだった。いつも通りの海戦、いつも通りの敵襲。なのに彼は、たったひとつの銃弾に胸を貫かれて死んでしまった。甲板に広がる血だまりは立ち尽くすわたしの靴を濡らしていく。彼の顔からは肌の色が失われていく。その様子にわたしの目が涙を零すよりも先に、ローの手がわたしの目を塞いだ。ローは低い声で言った。「見るな」。見てはいけない理由が分からなかったけれど、ローの手のひらのお蔭でわたしの涙は血に混じることは無かった。

 彼のことは皆で水葬した。まるで眠っているような彼、否、それは、酒瓶と剣を胸に水底へと沈んでいった。青に浸蝕されてゆく彼の面影にわたしは耐えられず、目を背けてベポの背中に顔を埋めてしまう。いつもならベポにすら嫉妬するローも、その時ばかりは何も言わずにいてくれた。頭を撫でてくれたベポの手はふわふわとしていて、やさしい声音でかけられた「つらいね」という言葉に、ついにわたしは涙を甲板へと落としてしまった。わたしの、よわむし。本当は、胸を張って彼を見送りたかったのに。

 回想は終わりにして、瞼を持ち上げる。
 涙で微かに滲んだ視界の中で、彼の名前はウイスキーに濡れていた。泣いているみたいだ。

「何してる」

 ローの声が、後ろから聞こえた。何してる、なんて白々しいよね。ちょっと前からわたしの後ろに立ってて、声をかけるタイミング見計らってたくせに。でもわたしは知らなかったフリをして、少しだけ首を横に振った。ローの気配は動かない。

「なんでも、ないよ」
「なんでもねェのに泣くのか」


 それから一拍置いて、吐息にも似た嘲笑い。

「よわむし」

 本来なら怒るべきところだけど、今のわたしには返すべき言葉も見つからない。だから、わたしは頷く代わりに嘲笑うような笑いを漏らした。(それがローに聞こえたかどうかは分からないけれど。)でもローも黙って、わたしの言葉を待っている。だから仕方なく、思っていることを素直に言葉にすることにした。こういうときのローがひどく頑固で意地悪なのは随分前から知っている。

「死んだ気が、しないの」
「アイツは死んだ」


 きっぱりと返されてしまったその言葉に、わたしは頷くことしかできない。分かってるよ、そんなこと。
 俄かにローの気配がそっと動いて、こつこつとゆっくりとした足音を響かせながらわたしの背中に近付いてきた。わたしは振り返らない。ただ、ウイスキーの涙を流す彼の名前をぼんやり眺めていた。ローの手のひらがぬっと顔の両サイドから現れて、あの時みたいに目を覆われるのかと思って少し驚いて身を捩る。だけどその手はわたしの胸の前で交差して、わたしは動けなくなってしまった。耳元で、囁くようにローが言う。

。お前は、いつまで他の男の為に泣くつもりだ」

 こんな時にまで、この人は何を言ってるのだろう。思わず胸の奥が熱くなってしまったけれど、それを抑えて必死に俯いた。そういえばローは、彼が死んでも、その前に仲間の数人が欠けた時も、いつも通り飄々としていて部屋で読書なんかしたりしていた。わたしの心中は不安に蝕まれていく。

「ロー」
「…なんだ」
「わたしが死んだら、泣いてくれる?」


 不恰好にもその声が震えてしまったことを自覚するよりも速く、ローの手がわたしの肩を掴んで壁に叩き付けた。背中にビリッとした痺れるような痛みを感じる。ローは驚き目を見開くわたしを真正面から見つめながら、その眉間に皺を作っていた。帽子の作る影が、いつもよりも彼の目を覆っている気がする。

「冗談も大概にしろ」

 泣いては、くれないらしい。そう確信した途端に背中を濡らすウイスキーの冷たさが明確になって、わたしの涙腺が一気に緩んでしまった。瞬きに合わせて、ぱたりと一粒落ちていく。この人にとって、やっぱりわたしも船員の一員に過ぎないのだ。駒がいくら減ろうが、新しく引き入れれば数は保たれる。入れ替え可能な、船員、兼、恋人という名の娼婦?なんて滑稽な。

「お前が死ぬ?おれがそんなこと許すとでも思ってんのか」

 そう言ったローが泣きそうに見えたものだから、わたしの思考回路は逆流を始めた。もちろん、ローが泣くはずなんて無い。泣いてる彼を想像できない、したくない。だけど、もし彼が、そう見えてしまうほどにわたしの言葉で動揺したのだとしたらどうだろう。この服がウイスキーで濡れてさえなければ、今、両手でローを抱き締めるのに。

「怪我すりゃ四肢を、毒に侵されりゃ内臓を、心臓が止まンなら心臓を、別のヤツのモンと入れ替えてやる。
 おれの手元にいる以上、その言葉はもう口にするな。分かったな」


 そんなことしたら入れ替えられた人が死んじゃうから嫌だ、って言いたかったけど、今は素直にローの言葉が嬉しくて思わずわたしは頷いた。ローの唇が、わたしの涙をそっと攫っていった。「光栄です、キャプテン」調子に乗ってそう言ってみると、ローは上機嫌そうに笑う。三日ぶりに見た、笑顔だった。



めくるめく心中未遂



(2009.01.28//タイトルはジョゼンタの頬さまより)