不躾にチャイムが連続して鳴り響く。これで幾度目になるのかな。もう、耳に栓をすることさえ面倒。出て行ったところで痩せた顔の男が取って付けたような笑顔で新聞を勧めてくるだけなのは分かりきっているから、わたしはソファに体を沈めたまま読み飽きた雑誌へと視線を走らせる。本当に、走らせるだけ。内容なんてろくに頭に入ってきやしない。何も考えていない空っぽの頭にチャイムの音が滑り込んでくる。ああ、頭が、いたい。
 無視してるつもりでも無意識に頭に入ってくる甲高い音に耐えかねて、雑誌を被るようにして耳を塞いだ。
 わたしはチャイムの音を待ち侘びているけど、こんなのはわたしの望みとは違う。

 ねぇ、貴方が鳴らすチャイム以外には興味ないの、「…ロビン」

 久しぶりに声に出してみた彼の名前は不思議と唇に馴染んだ。心の奥がじわりと暖かくなる。だけどわたしが欲しいのは彼を呼ぶ自分の声じゃない。わたしが欲しくて堪らないのは、わたしを呼ぶ、彼のやさしくて甘い声の方。それが高望みだというのなら、わたしを呼んでくれなくてもいい。ただ、ここにいてくれればそれでいい。
 難しい本に真剣な視線を落とす黒い瞳孔。綺麗に通った鼻筋。ページをめくる指先。さらりと顔に掛かる黒い髪。
 それらを最後に見たのは14日前。最後に声を聞いたのは10日前。
 優しく笑って、すぐに帰ってくるから、とだけ言い残して以来彼はここに帰らない。あんなに散々愛してるだの好きだよだのと嘯いた恋人の元に、帰らない。彼の言う、すぐに、っていうのがどれぐらいを指すのかはよく分からないけど。でも、少なくとも14日間は“すぐに”の範囲には入らない筈だ。
 チャイムの音は鳴り止まない。 わたしは、体をごろりとソファに横たえた。

 嘘吐き。そうでないなら、相当忙しいひとなのね、「ロビン」

 改めて呼んでみた彼の名前は掠れてしまって、チャイム音の氾濫に飲み込まれて消えた。わたしは彼をこんなに恋しく思ってるのに。彼が欲しくて欲しくて堪らないのに。彼は10日間も恋人に連絡さえ寄越さず、今日もこの街のどこかにいる。もしかしたら、もうこの街にすらいないのかも知れない。
 “すぐに帰る”どころか、あの日の“愛してる”さえ嘘だったなら。
 粘着質な新聞屋の押すチャイムにハミングするように、電話までもがけたたましく鳴り始めた。きっとこちらはテレビの有料チャンネルのご案内。万が一そうでないとしても、わたしはその電話に出ようとさえ思わない。だって彼は携帯の方にしか電話をかけて来ないもの。10日間鳴らない携帯電話なら、今わたしのジーンズのポケットに大人しく納まっている。
 音が重なって混ざり合ってわたしの周りをぐるぐる回る。最悪だ。頭痛を通り越して吐き気がしてきた。
 雑誌にぎゅっと顔を押し付けて、涙で滲み始めた瞳を外から隠す。

 泣きそうなわたしをからかう貴方はいないのにね、「……、…」ロビン。

 ついに彼の名前を声に出せなくなってしまった。寂しさが喉を押し潰したらしい。このまま窒息死したら、彼はわたしに少しでも申し訳ないと思ってくれるかしら。冷たくなったわたしの、もう発されぬ声を恋しく思ってくれるかしら。新しい恋をしたとき、その新しい恋を今のわたしのようにしまいと大事にしたりするの、かしら。…だったら、わたし、貴方にもう少し後に出会いたかったよ。

 チャイムの音が、唐突に止んだ。男の人の声がふたつ聞こえた。

 涙で濡れた誌面を顔面から退けてソファから飛び跳ねるようにして起き上がる。電話の音に邪魔されて聞き取れないけど、玄関先で誰かが喋ってるようだ。やがて会話が止む。足音がひとつだけ遠退いていく。少しの、沈黙。

 チャイムの音が、鳴った。

 そっと指で押さえるような音。ぴん、ぽん。さっきまでの刺々しいそれじゃない、わたしが欲しかった音。ソファから転げ落ちそうになりながらも、短い廊下を走って玄関前へと向かう。焦る指は思うようにドアチェーンを外してくれない。それでもどうにか外して、ドアの鍵を捻りすぎる勢いで開錠して。
 思い切り押し開けた玄関の扉。彼はそれに少しだけ驚いたらしく、黒い瞳を見開いていた。

「…ろ、び…」
「ちょっと待って、


 14日ぶりに見た彼の姿は、14日前と変わらないそれだった。やっと会えた。やっと、望む姿に出会えた。感動で涙まで滲む…というか、さっきまで泣いてたし元から滲んではいたんだけど、とにかく感動して彼の名を呼ぼうとするわたしをロビンは声だけで制止した。そのまま玄関でさっさと靴を脱いで、すたすたと家の中に上がりこんでいく。
 14日、正確には10日も放っといた恋人に再会してそんな冷淡な対応ってどういうことなの!こっちがどれだけ心配したかも知らないで!寂しかったのに!しにそうだったのに!言いたい文句はいっぱいあるのに、彼の姿がそこにあるってだけで色々と満足してしまって文句もロクに言えやしない。惚れた弱みってのは理屈じゃないのだと、受話器をとる彼の綺麗な横顔を眺めながら改めて思った。
 彼は丁寧に有料チャンネルの勧誘を断ると受話器を音もなく置いた。部屋を満たしていた音は一気に消えたけれど、わたしの本当に欲しかったものがここにあるお蔭様で室内の静寂を寂しいとは感じない。ロビンは鞄を担いだまま、コートも脱がずにわたしを見る。あの、黒い瞳孔で。

「少し見ない内に随分とモテるようになったんだな」

 からかうように言いながら、ロビンはソファの上に投げ捨ててあった雑誌を拾い上げる。

「…おれの知らないうちに流行りのアイドルとキスまでしてたか」
「え!?いやっ、違うんだけど…!!」


 涙で濡れて歪んだ誌面には、最近流行りのイケメンアイドルがでかでかと写っていた。別にわたしはそんなアイドルとキスがしたくて顔を埋めたんじゃなくて、そもそもモテてたんじゃなくてただちょっと粘着質な勧誘にまとわりつかれてただけで…!きちんと説明したいのに、久しぶりにわたしに笑顔を向けるロビンが眩しすぎて唇が空回りする。どうせ聡明なロビンのアイロニックな冗談だし、説明なんかしなくたっていいんだろうけど。ああ、すっかり彼のペースに乗せられてる。
 いや、今回こそは彼のペースに流されちゃだめだ。気を引き締めて、ロビンを睨むように見上げる。

「…ロビン、すぐに帰ってくるって言ったじゃない」
「ああ。約束通り、ちゃんと帰ってきただろ?」


 ロビンは涼しい顔でさらりと言う。確かに帰ってきたけど、貴方は“すぐに”って言った。その“すぐに”を期待して、わたしはボロボロになりながら貴方を待ってたのに。ひどいよ。許す気なんか無かったのに、帰って来てくれたからいいやって思わされてしまう。貴方はわたしがどれだけ貴方のことが好きか、分かっててやってるんでしょう?

「うそつき」

 その罵り文句が、わたしの精一杯だった。
 ロビンの手がわたしを引き寄せる。為すがままに彼の胸に飛び込むと、少しだけ埃の匂いがした。きっとまた古めかしい図書館や遺跡に行っていたのだろう。詳しいことは知らないけど、彼の夢への手がかりはそうした古めかしいところにあるらしいから。

「悪かった。もう、嘘は吐かない」
「…ロビン、」
「愛してるよ、


 ほんの少しだけ弧を描いた彼の唇が囁くように言葉を紡ぐ。欲しかった声。欲しかった体温。やっと、全部、腕の中に戻ってきた。嘘は吐かないって言った後の甘い台詞ほど信用できないものは無いけど、今だけは信じてあげることにする。彼の本心はどうにも見えづらいから、疑って掛かるとキリがないのだ。

 次こそはいつも言えずに後悔してばかりの台詞を頑張って紡いでみよう。
 ねぇロビン、貴方の夢にわたしも一緒に連れて行って、って。


回る回る月とわたし

(20万企画作品。イトさんへ捧げます。題名は宴葬さまより//2010.03.27)
Inspilation By “ロビン”:あまのつきこ