晴れ渡った空を仰ぎ、エースは遠慮の無い大きな欠伸をした。それから甲板にデッキブラシを抱えたままで眠りこける部下の姿を見つけるが、この気候なら仕方ないかと小さく笑って見なかったフリをする。こんな陽気の下じゃ、まどろむなという方が無理な話だ。
 モビーディック号が行くのは、新世界にしては珍しく穏やかな春の気候。
 自然とまったり和やかムードの広がる船内を見て、サッチは笑いながら「今奇襲にあったらヤベェよなァ」と言っていた。そんな彼も、そう言いながらだらりと日当たりのいい甲板の床板に全身を預けていたけれど。
 エースも今しがた自室での昼寝から目覚め、船内から出てきたところだ。春の陽射しは、いつもの容赦無い陽射しに比べれば幾分か寝起きの眼にも優しい。エースは瞼を半分降ろした狭い視界で、この船のどこかにいるだろう恋人の姿を探す。

 彼女は船尾にいた。
 手すりに腕を預け、爽やかな風に遊ばれる髪をたまに指で掬って直しながら、きらきらと光る波を眺めている。
 あまりにも“絵になる”その景色にエースは暫し見惚れてしまうけれど、彼女の背中に、なぜかそのまま消えてしまいそうな不安を覚えた。瞬きをした途端に、ふわり、と。音も無く、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。
 エースはそっと彼女の背に忍び寄り、静かに彼女の体に腕を回して抱き留めた。腕の中で細い肩が一瞬だけふるりと動く。けれど、彼女を振り返らせる訳にはいかなかった。こんなにも不安で情けない表情を見られるのは、恋人と言う立場的にも、男としても、どうしても避けたい。

「びっくりした…。どうしたの?」

 彼女―が言う。きょとんと目を見開いているだろうことは、顔を見ずとも察せた。

「…なんでもねェよ」

 低い声で応えながらエースはの肩に額を預ける。その黒い髪を視界の隅で捉えたは、今一度輝く水面へと視線を遣った。その唇には小さな笑みが乗っている。

「私が飛び込みそうにでも見えた?」

 尋ねれば、エースがびくっと呼吸を一瞬だけ止めた。どうやら図星のようだ。この船から突然海に飛び込むなんて、そんなバカなことする訳ないのに。呆れて笑うに人知れず拗ねた顔をしながら、エースは腕の力を少しだけ強めた。黒い髪がの首筋をくすぐる。

「今日のエース、なんだか甘えんぼだね」
「うるせェ」

 の甘い香りに目を細めながら顔を彼女の首筋へと移動させ、ぼそりと反論する。呼吸を首筋に感じたはこそばゆさに身を捩ろうとするが、エースの逞しい腕がそれをさせない。こらえきれず笑い声を漏らして、エースの腕にそっと指で触れる。

「くすぐったいよ」

 その柔らかくて楽しそうな声は、自然とエースにまで笑みをもたらす。この暖かな気持ちの名前を、エースは最近まで知らなかった。…否、生い立ちのせいで、知ることが出来なかった。そんな目に見えぬものを信じるようなことは絶対に在り得ない、そう考えることさえ少なくなかった。
 けれど、ここでエースは彼女に出会ってしまった。というたったひとつの存在へ注がれるこの気持ちは、他の仲間やルフィらへのものとは違う。どちらも大切にしたいとは思うのだが、何かが、確実に違っているのだ。


「なに?」

 だからこそ、恐ろしく思えてしまう。


「…なーに?」

 こうして腕の中で返事をしてくれる彼女が、いつの日か。

「…
「……エース?」

 自分の元を去る日が、来てしまうのではないか、と。

「…そんな寂しそうな声、出さないでよ」

 耳元で彼女の名を呼ぶどこか切なさを含んだ声は、それを聴いたまで寂しい顔にさせてしまう。彼らしからぬそれに何があったのだろうと心配になったは、思い切ってエースを振り返った。
 力の緩んだ腕の中、自分を真っ直ぐに見上げる彼女が直視できず、エースは右下辺りへと視線を逃がす。バツの悪そうな顔をする彼の頬を両手で包み、は尚も真っ直ぐにエースの目を見つめ続けた。

「ほら、ちゃんと見て」

 諭すようなの声で、エースの視線が持ち上がる。綺麗な黒い瞳孔と視線がぶつかったことを確認してから、は花の咲くような、明るい笑みを浮かべて見せた。

「私は、ここにいるでしょ?」

 頬に触れる細い指先は暖かい。失うことに慣れかけていた心が、じんわりと、暖められていく。どうして彼女はこんなにも器用に人の心にまで触れられるんだろうと、エースはを抱き締めながら思った。頬にあったの手は離れ、そのままエースの首の後ろへと回る。

、あいしてる」

 エースの言葉に、は笑顔で頷く。

「うん、知ってる」

 しかし、次いでエースが浮かべて見せたのはどこか不服そうな表情だった。途端に、の顔に驚きと戸惑いの色が灯る。

「…じゃなくて?」
「え?」

 にやり。エースの唇の端が、意地悪に持ち上がる。

「おれが欲しい返事はそれじゃねェんだ」

 そういうことか、と咄嗟には悟るけれど、その気恥ずかしさからか視線を背けてエースの腕から逃れようともぞもぞ動き始めた。エースの腕はしっかりとの腰を捕まえている。その腕をつねってみたり、目の前にそびえるよく鍛え上げられた体をぺしぺしと叩いてみたりするが効果の程は微塵も無さそうである。暫らくそんな小動物のようなをじっと観察していたエースだったが、が脱走を諦めた頃合を見計らって彼女の耳元に唇を寄せた。



 促すように名前を呼ぶ。
 ついに観念したらしいはエースをおずおずと見上げ、目を逸らし、もう一度見上げた。彼女の頬から耳にまで灯る赤色が愛らしくて、エースは思わずくつくつと笑いを喉の奥で噛み殺す。もつられたように笑って、唇を空回らせるも僅かに、言葉を紡いだ。

「あいしてるよ、エース」

 彼女と過ごす一秒一秒の、全てが愛しい。まるで心にまで春が訪れたような暖かさを胸に感じながら、エースは身を屈め、彼女の唇にキスを贈った。
 今なら胸を張って言うことができるだろう。触れ合った唇から、心から、まるで溢れてしまいそうに込み上げる、この感情の名前は ― 



溢れそうなアイを君に


(20万企画作品、コトリさまへ//2010.08.10)
Inspilation By “アイ”:はたもとひろ